以下の内容はhttps://hayasinonakanozou.hatenablog.com/より取得しました。


最近読んだ本(2026年2月)

読んだのは10冊。一部ネタバレあり。

 

稲田豊史『本が読めなくなった人たち』

かつては本こそが情報を得るためのメディアだったが、今は動画にその座を奪われてしまった。本は「ながら見」ができないからタイパが悪い。若い人のうちには配信で映画を見ながら漫画を読む人もいるという。俺なんかにはそれの何が楽しいのかわからんが。「ながら見」ができないからこそ集中できていいんじゃないか、とか思ってしまうのは完全に時代錯誤なのだろう。もともと、長文テキストを読んで内容を理解する、という本好きにとっては当たり前の能力は特殊な能力であり誰にでも備わっているわけではない。

本を読まず動画ばかり見ていると語彙が話し言葉中心になる。雰囲気をふいんき、延々とを永遠となどと誤って覚えてしまう。別に意味は通じるし、本人が恥ずかしいと思わなければ生活する上で支障ないかもしれない。けれども書き言葉の豊かさというものがある。すぐれた小説や詩の表現に触れることで言語の領域が広がる。人間は感じるのも考えるのも伝えるのも言語を用いる。言語の領域を広げるほどに、感じ方、考え方、伝え方も広がる。それって人生を豊かにすることにつながるんじゃないかなあ、と俺は思う。

まあ世の中の潮流がどうなろうと、これまでそうしてきたように、これからも俺は本を読み続ける。

 

  • 岩波書店

 

 

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都築響一『Museum of Mom’s Art』 

どこの道の駅にも、奥の方に手芸や木彫りやビーズアクセサリーなどを並べたコーナーがある。並んだ品々を見るたびに、どこの土地にもアーティストはいるもんなんだなあ、と感動する。本書ではそれらをおかんアートと呼称している。うまい呼び名。

おかんアートは制作の楽しさを得られるだけじゃない。人にあげたり一緒に作ったりと他者とのコミュニケーション手段にもなる。これっておとんアートにはない特徴。男の方がストイックになってしまいがち。だから男は孤独になる…という本を以前読んだ。

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制作欲求って人間のかなり根源的な部分に根ざす欲求じゃないか。子供の頃、夢中でクレヨン画を描いたり粘土を捏ねていたのを思い出すと、そこには純粋に制作の喜びがあったように思う。

 

 

宇野常寛『庭の話』

動画を見てから読んだら内容がかなり理解しやすかった。


www.youtube.com

 

SNSによる低コストな相互承認ゲームからの離脱。帰ってきたウルトラマンのエピソードから共同体を否定し、資本主義と再分配こそ目指すべきだと述べるくだりは、自分も他人とすぐ馴染めるタイプじゃないので同意しかない。

庭とは人が人間以外の事物と触れ合う、公共的でありながら孤独でいられる場。読んでいて虫や花と接する機会をもちたくなった。

後半の、アーレントの人間の条件を敷衍した制作の称揚は感動的。没頭できる趣味が人生の充実には必要。他者からの承認目当てのSNS発信という安易な自己表現から脱却して孤独な制作へ。

 

俺の中にあった問題意識がこの本で一本の線になってつながった感覚がある。

独身中年男性の孤独の問題→インターネットを離れて人間以外の事物と交わる「庭」へ→孤独でもいいしおかんアート的にでもいいから何かを制作する。

人生の希望は制作にあるんじゃないか?

中年男性を救済するのは恋愛でも家族でも国家でもなく、世界や時代に貢献する『事業=作品』と『宇宙と直接つながる技術』であると確信しています。

 

宇野常寛『ラーメンと瞑想』

 

 

都築響一『バブルの肖像』

1986年から91年までのバブル景気を振り返り、痕跡をたどる「バブル・グレイティスト・ヒッツ御一行様の同窓会」。最後の最後でドナルド・トランプが登場するのでびっくりした。

ジュリアナ東京、ボジョレ・ヌーボー、ティファニーのオープンハート、アッシー、メッシー、ミツグ君、ゴルフ会員権、地上げ、NTT株、1億円ふるさと創生交付金、タクシー券、財テク、チバリーヒルズ、青田買い就職、ボディコン、ワンレン・ソバージュ、宮崎シーガイア…バブル崩壊直後に社会人になった就職氷河期世代の自分は直接は体験せずとも見知った語が数多く、懐かしい気持ちになった。

とにかく金遣いが荒く、品がなく、無計画。けれどもその常軌を逸した浮かれっぷりに多少の爽快感を覚えるのもまた事実。老後に備えて貯蓄しよう、みたいな昨今のしみったれた価値観とは無縁のノリノリな時代。5000円や10000円程度の「近距離」ではタクシーに乗車拒否された当時の銀座? の写真は今の若い人にはフェイク画像にしか見えないかもしれない。

本書が書かれた2006年からもすでに20年が経過している。掲載された場所の中にはとっくに跡形もなくなったものもあれば現在も存続しているものもある。現存するバブルの遺跡をめぐる旅なんてのをしたら楽しそう。泡と消えた夢の跡。

 

 

井上宮『ぞぞのむこ』

怪現象が起きる漠市をめぐる連作短編集。どれも不気味でおぞましい。

漠市とは呪いの源のようなもの。そこに立ち入り、何かに手を触れたり関係を持ったら家に帰る前に石鹸でしっかり手を洗うことが強く推奨される。コロナ禍を経た現在ならそれが感染症を防ぐ効果的な手段だと腹落ちする。

恐怖というより生理的嫌悪感を催す話が多い。その極めつけが「ざむざのいえ」。皮だけになった人体の中で無数の虫が蠢く。その描写が滅法気持ち悪い。

全話に登場する矢崎がいい味を出している。忠告はするが助ける力はない。呪いに対する人間の無力さが現れている。

 

 

坂東眞砂子『死国』

土俗ホラーの意匠を用いて喪失感や寂しさを描いている。怖くはない。逆打ちによる死者の蘇生によって心の欠落を埋めようとする、それに巻き込まれて自身の過去や感情と向き合わざるを得なくなる登場人物たち。

たびたび田舎に対する東京もんの優越が描かれて微笑ましい。

男女の恋愛感情や性が頻出するのにやや辟易した。痴話めいたシーンが少なくない。同窓会で再燃する初恋。不倫。駆け落ち。

親友と思っていた相手が、向こうからしたら子分みたいなものだったという齟齬は味わい深い。

 

 

田中啓文『蝿の王』

ムシの描写が気持ち悪い。
子供が殺害されるシーンが多い。
怖くはない。
ハルマゲドンやカルト宗教は世紀末感がある。

終盤の出産あたりまではかなり面白かったが、最後の方は息切れした。イエスに対してノーってしょうもない駄洒落。
イエスの誕生に際してヘロデに殺された子供たちが悪魔になった設定は斬新でよかった。

 

 

スズキナオ『深夜高速バスに100回ぐらい乗ってわかったこと』

昼営業のスナック、人の家の家系ラーメンを食べる、その人にとっての思い出の地であるマイ史跡巡り、食べた唐揚げの個数まで割り勘する飲み会、椅子を持ち歩いて好きなところで腰を下ろすチェアリング、などの話が面白かった。ラーメンと酒の話題が多い。人、店、旅、調査、酒、散策、本文からとった各章のタイトルに趣がある。しんみり落ち着いた文章が好ましかった。

コロナ禍の中年男性の旅の記録『家から5分の旅館に泊まる』も素晴らしい。電子と紙、両方買った。

 

 

山本文緒『無人島のふたり』

2021年4月、体調不良から病院に行ったところ膵臓がんのステージ4と診断された著者が5月から10月まで、亡くなる9日前までつけていた日記。はじめ抗がん剤治療を行なったが、あまりに副作用がつらいため断念し、緩和ケアに切り替えた。部外者が言うことではないがQOLの観点から見て英断だったと思う。

突然の宣告による驚きから死の覚悟に至る心理が書かれている。闘病期間がコロナ禍と重なり人と会うのが難しい時期だったのはタイミングが悪かった。

死の覚悟といっても診断からわずか半年間の短さ、50代という若さもあり、諦念に近かったように見受けられる。生きようとしている人を突然襲う病いは残酷だ。

 

 

久坂部羊『人間の死に方』

外科医である著者の父親の死生観。自身、麻酔科医でありながら医療を信じず、ストレスが諸悪の根源と考え、節制をせず、検査の類は一切積極的に受けなかった。それで87歳まで長生きした。

この本を真に受けて検査を軽んじたり医療不信に陥るのは避けたい。この父親には死への覚悟があったり、自身や息子が医者である点でも一般的ではない。あくまでn=1の挿話として読みたい。心配性、不安がちな自分は本書のおかげでだいぶ気が楽になった。

 

「世間では長生きをよいことのように言う人も多いが、実際の長生きはつらく過酷なものだ。足腰が弱って好きなところにも行けず、視力低下で本も読めず、聴力低下で音楽も聴けず、味覚低下でおいしいものもわからず、それどころか、むせて誤飲の危険が高まり、 排泄 機能も低下し、おしめをつけられ、風呂も毎日入れず、容貌も衰え、何の楽しみもなく、まわりの世話にばかりなる生活が〝長生き〟の実態だ。 これで認知症にでもなればまだましだが、頭がしっかりしていると、つらい現実がすべて認識され、家族やヘルパーに世話になる心苦しさに耐えなければならない」
このくだりは漠然と「長生きしたいなあ」と思っている自分の価値観を揺さぶられた。結局、どれほど死に抗おうと最後には必ず敗北するのだ。その認識なく諦めることをしなければ最後期の苦しみを長引かせることになりかねない。そんな無理に引き延ばしたような生はQOLの観点から否定的に見られるべきだろう。
「死に瀕している人の苦しみは、経験しなければわからない。それをなまじ有効な治療で引き延ばすのは、酷なことだと私は思う。命を延ばすと言えば聞こえはいいが、その実態は無益な苦痛を引き延ばしているだけである」

 

孤独死について、世間ではまるで自由気ままに生きた罰のような書き方をされることが多いように感じているが(将来の当事者としてそう感じる)本書では肯定的に書かれているのが嬉しい。「家族がいないほうが、平穏に死ねる可能性もある。無理解な家族に、平穏な死を阻まれる心配がないのだから」
「もちろん、孤独死の悪い面もあって、どれほどしんどくても身のまわりのことをすべて自分でしなければならず、痛みや苦しみや不安や孤独にも1人で耐えなければならない。しかし、それは自分で選んだ道であって、それまで自由気ままに暮らしたことを忘れてはならない。 私は在宅医療で、身寄りのない高齢者を何人も診療したが、それぞれに工夫し、自らの生き方を確立していた。孤独な生活者が苦労しているだろうと思うのは、家族持ちの的はずれな空想ではないか」

 

風立ちぬ、いざ生きめやも

春は強風の季節。そして花粉の季節。

先週の土日、俺の住む埼玉県某所は強風が吹き荒れた。朝から晩までごうごうびゅうびゅう、Yahoo天気アプリによると最大風速7メートルとのこと。

 

土曜日の朝、目覚めたときから鼻詰まりと喉に痛みがあり、頭痛もした。だから当初予定していた映画館行きをキャンセルして土日とも大人しく自宅に引きこもっていた。というか具合が悪くて二日間ともほぼずっと寝ていた。

 

熱は平熱。しかし喉が腫れていて唾を飲み込むのもしんどい。風邪か、花粉症か、判断に迷った。一応ロキソニンと耳鼻科でもらった花粉症の薬、さらに常備している龍角散ダイレクトを飲んだ。が、効果が感じられない。龍角散ダイレクトを飲んで喉の痛みが全然緩和しないのは珍しく、戸惑った。

 

土曜の朝から日曜の夕方まで、ろくに食事をしなかった。買い置きしていたポカリを飲み、inゼリーを少々。体調が悪いと食欲が出ない。こういうときは無理して食べない。体の声に耳を澄ませて、従う。食べたら消化にエネルギーを使うことになる。限られた体力リソースは体調回復に全振りしたい。消化に割きたくない。動物は具合が悪くなると何も食わず蹲ったまま動こうとしなくなる。俺は動物の賢さに倣いたい。

 

日曜の夕方、さすがに少し腹が減って起きた。明日は月曜日、会社へ行くなら何か食っておかねば体がもたんだろう。何か簡単に作れて栄養がとれるいいメニューはないか…と考えたときふと念頭に去来したイメージがあった。

インスタントラーメンである。

 

『らーめん再遊記』の8巻に、芹沢達也ことラーメンハゲ*1が風邪予防として薬味、練りニンニク、練りショウガを載せたチャルメラを作るシーンがある。このイメージが、ロマサガの閃き電球のごとくピコーンときた。真似してやってみよう。そう思い、スーパーでポカリやバナナなどと一緒に食材を購入。ただしチャルメラではなく俺の好みでサッポロ一番の味噌にした。

これがそれである。芹沢を参照しつつ、冷凍ほうれん草を加え、卵も溶いた。

子供の頃から食べ慣れたインスタントラーメンの、安定した旨さである。平げ、スープまで完飲した。

 

食っている最中に風呂をセットしておいた。食後すぐに食器を洗い、風呂に浸かった。

 

今思えば風呂がよくなかったか。夜になって急に体調が悪化した。平熱なのに立っていられないくらいの頭痛、めまい、腹がぐるぐる鳴る(しかし何も出ない)、ひどい鼻詰まり、喉の痛みが一気に襲ってきた。

いかん。久々に死ぬやつだこれ。そう直感した。

俺はラーメンハゲとは違う。

布団に入って、明日の朝何時に会社に電話するのがベストか、と考え始めた。この時点で明日の出勤は無理と諦めた。

 

そして月火の二日間寝込んだ。トイレに行く以外ほぼずっとベッド。ポカリ2本とinゼリー2パックを食べた以外何も口にせずに丸二日。何度も寝ては目覚めるのを繰り返し、時間感覚を失い、その間たくさん夢を見た。何十年ぶりかに(夢の中で)再会する顔もあって懐かしくなった。今、どうしていますか。元気にやっていますか。あれ以来会わなくなるなんてあのときは思いもしなかった。

 

火曜日の夕方頃、ようやく動けるようになった。まだ鼻詰まりや喉のいがらっぽさ(やたらと痰が出る)やかすかな頭痛はあったが寝込むほどじゃない。起き上がった。腹が減っていた。何か温かいものが食いたかった。いやラーメンは結構。もう少しあっさりしたもの。こういうときはうどんだろう。というわけで適当に作った。カトキチの冷凍うどんとヒガシマルのうどんスープがあれば手軽に旨いうどんが作れる。

やっぱうどんは最高だな!

 

というわけで水曜日からまた出社した。

一応復調して4日経つがまだ喉のいがらっぽさは解消されていない。咳がよく出る。鼻も若干詰まり気味。

 

体調不良*2で寝込むことは年に何度かあったが会社を休むほど長引いたのは久々だった気がする。コロナ禍以降、手を洗うのがすっかり習慣になり、それでだいぶ体調が安定するようになった。もともとあまり丈夫な方じゃない。蒲柳の質ってほどでもないが、ブルーワークや交代勤務なんて本来向いていない人間だと自負している。それでも金のためにはやるしかないからやっている。

 

今回のはどうも風邪の気がしない。花粉症のひどい症状が出たのでは、と解釈している。あれだけびゅうびゅう風が吹いていたらそりゃあ大量の花粉が飛散しているでしょう。空気清浄機が常時稼働しているとはいえ、築50年の木造住宅ゆえ隙間から入ってきてたりするんじゃないか。家の中でもマスク必須か。あと、先週は結構仕事量が多くてしんどかったのもある。疲労で免疫が落ちていたとも考えられる。加えて、先週はつまらねえ映画を無理してだらだら最後まで見たり、つまらない小説を放棄せずだらだら読んだりしたのもよくなかったのではないか、と今では考える。これは本当、俺は主張したい。映画でも漫画でも小説でも、つまらねえと思ったらその時点で見る/読むのをやめるべきだと。たとえ世間の評価が高かろうと尊敬する人のおすすめだろうと、自分がつまらねえと思うならその声に耳を傾けるべきで、我慢して見続ければやがて精神がダメージを受ける。そのダメージは身体へも影響を及ぼす。「人間は半分は霊的なものですから、精神が汚れると実体も変化してしまいます」(宇野常寛『ラーメンと瞑想』)。精神を健康に保つことが身体の健康につながるし、その逆もまた然りなのではないか。何事にも損切り感覚は必要。

 

一年のうち12月下旬から2月くらいまでの寒い期間は冬季うつっぽくなって気が滅入るから苦手にしていたんだが、花粉がひどい春先もしんどくなってきた。どんどん生きるのが難儀になっていく。それでもやっていくしかない。どれだけ風が吹いて花粉や黄砂が飛来しようが生きてる以上は生きねばならぬ。死ぬまで生きねばならぬ。

つらいぜ。

 

 

 

 

 

  • ウォルト・ディズニー・ジャパン株式会社

 

*1:ん?

*2:主に頭痛

「非読社会」で読書するということ 稲田豊史『本を読めなくなった人たち』を読んだ

 

『映画を早送りで観る人たち』の著者の新刊。紙の本で読んだ。

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現代の若い人の大半は本どころかテキストを読まない。本から情報を得るのは効率が悪いので動画などその他の手段を用いる。本を読まないからといって彼らが知的でないわけではない。学力が高い学生であっても長文が読めないケースは多々ある。知識を得る手段が本から別のメディアへと変化しつつあるのだ。

 

今の若い人はニュースを積極的には見ない。SNSなどで見出しを知ってもリンク先のポータルサイトやソース元の新聞社のサイトへはいかない。これはアルゴリズムによってユーザーのおすすめがプラットフォームから自動で表示されるのに最適化した結果でもある。津田大介氏曰く、「この10年の大きな変化は、人々が検索をしなくなったこと」「フィルターバブルがより進んで、基本的にサービス側が出してくるレコメンドをそのまま見るようになってしまった」。検索をしなくなったというのは最近の自分もそう。検索せずAIに投げる。これはAIの質が向上したのとGoogle検索が劣化したのが原因。

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 16歳以上の日本人の6割以上は、1ヶ月に1冊も活字の本を読まない。その傾向はもはや60年は続いており、時代ごとに読まない理由はさまざまに語られてきたが、昨今では、そもそも読み手側の長文読解能力が劇的に落ちている、という説が一定の説得力をもつ。

もともと長文を積極的に読む人自体が多くなかった。が、昔は情報を得るのに本しかなかったから仕方なく読んでいた。そうしなくてよくなったのだから多数の人が長文を回避するようになるのは自然なこと。著者は現代の日本を、「文章を読むことが合理的でないとされる「非読社会」」であると見ている。本を読む人が自明の前提にしている「長い文章を読み通し、理解できる」能力は「決してすべての人間に備わった当たり前の能力ではない」。長文を読めるのは特殊な能力なのだ。

 

読書が知性と相関があるとは言い切れない。学力が高い賢い学生であっても長文が読めない。本を読んでいる学生が読んでいない学生より言語化能力が高いとか、質問の意図をうまく汲めるわけではない。大学関係者や塾関係者も学力と読書時間に相関関係はないのを認めている。ただし本を読む学力の高い「読書エリート」の学生が、そうでない学生より情報摂取に積極的で質の選定にも慎重な傾向はある。

 

驚いたのが漫画の扱い。今時の子供にとってはコマ割りの漫画を読むのさえ「非常に頭を使う、能動性の高い知的活動の部類に入る」という。

「できる子は物語性のある漫画を読み、戦略を必要とするゲームに没頭する。できない子はずっとショート動画を見ている」は、小中学生を教える教員や塾講師の間で一定程度流布した言説だ。

俺が子供だった頃は漫画読んだりゲームやってたら馬鹿になると「良識ある大人」たちから見下されたものだが。時代は変わる。

 

動画一辺倒だと話し言葉中心の語彙しか形成されない問題がある。「雰囲気」を「ふいんき」、「延々と」を「永遠と」と思い込む。「永遠と」はSNSやYouTubeのコメント欄で頻繁に目にする。本書には出てこないが「こんにちは」を「こんにちわ」も俺はめちゃくちゃ違和感あって気持ち悪い。こういう間違いを指摘すると「意味が通じるからいいじゃないか」「マウント取るな」と反論されるという。反知性主義もここまでくるとマジでヤバい(語彙力)。

 

今後活字メディアは、好んで本を読む客層のみの市場に縮小していく。音楽を配信ではなくレコードで聴くのと同じような好事家の趣味になる。コスト面の問題から価格が上がることは避けられない。

 いずれ紙の本を読むという行為は、特権性と階級意識を孕んだ、選ばれし者たちの古き良き嗜みとなる。これからの紙の本は、そういう人のために書かれる。そういう人のお眼鏡にかなう本しか買われないし、読まれないし、売れない。

 

俺みたいなアラフィフおっさんは動画より本の方が楽で好み。映画やアニメも含め、動画は一定の速度で進んでいくからペースを合わせなきゃいけない。早くてついていけなかったり、逆にもどかしてくてイライラしたりする。それに対して本はペースをこっちの都合で早くも遅くもできる。引っかかる箇所ではゆっくり読んだり読み返して咀嚼したり、逆に不要と感じる箇所はざっと目を通して飛ばしたり、時間の主導権を握れるところが本のよさだと思っている。

 

読書の醍醐味に連想がある。とくに小説を読んでいるとある一文に触発されて過去の記憶がありありと蘇ることがある。プルーストが紅茶に浸したマドレーヌの味から過去を想起したのと同じ現象が起こる。不意の連想は楽しい驚きだ。たとえば矢部嵩『魔女の子供はやってこない』を読んで自分の小学生時代を思い出す。国道沿いの生活圏、放課後の雰囲気、下校途中で怖い目に遭ったこと、考えなしにやった悪戯──そうしたものが突然蘇って出現し俺を殴ってくる。春日武彦先生もエッセイ『自滅帳』でこんなふうに述べている。

 わたしにとって常に関心があるのは、「連想」という心の働きである。いや、連想するときのイメージの飛躍距離に興味がある。距離が短すぎれば、それは当たり前・月並みということになる。距離が遠すぎれば、もはや意味がわからない。そこそこに遠い距離だと、ときに意外性や詩情、発見や驚きが生ずる。

 

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あと、これは読書に限らない話だけど、まとめや切り抜きでは、そのシーンのよさは味わえない。それまでの蓄積があってこその感動というものがある。『ベルセルク』の蝕のシーンは黄金時代編を読んでいてこそ衝撃を受ける。SNSに貼られる名台詞は前後の文脈があってこそ真意が伝わる。時間の問題もある。「見出された時」における時間の経過に覚える感動は、そこに至るまでの長大な物語に時間を費やして付き合ってきた読者だけが得られる恩恵だ。

最終巻を読んでいるとき、ここに至るまでの時間が、(小説内の)現在に収斂していくのに興奮と感動を覚えた。最終巻は素晴らしかった。その素晴らしさを感じるためには、それまでの12巻を読んでいる必要があったのだ。

一年かけて『失われた時を求めて』を読んだ - 生存記録

 

サン=テグジュペリの王子さまは、自分のバラとその他の5000本のバラが違うのは、自分が世話をして長い時間を一緒に過ごしたからだと気がつく。「かんじんなことは,目に見えないんだよ」。効率優先で近道や省略していると見落としてしまうものがある。

 

…なんてのは高度情報社会では贅沢な戯言に過ぎないかもしれない。それだけ余裕がないからこそのコスパ、タイパなんだ、と言われれば黙るしかない。今や「書店は美術館レベルでレアな存在」、そこで自分が読みたい本を吟味して、購入し、読み耽る、なんてのは時間的・経済的余裕ある人間の特権的行為だとされてしまう時代なのだ。

 

今、ボヴァリー夫人の新訳を読んでいる。

エマ嬢は戸口に立っていたが、日傘をとってきてそれを開いた。玉虫色の絹の日傘に陽光がさし込んで、顔の白い肌がゆらめく反映で染まっていた。温かい陽気に、傘の下で娘はほほえみを浮かべている。日傘の、ぴんと張ったきらめく絹地の上に、ぽつりぽつりと雫の落ちる音が聞こえていた。

こんな文章を脳内でイメージ変換してはうっとりする、なんてのは心の余裕がなければできるもんじゃない。と言ったって、俺だって時間や金や心にさほど余裕がある生活を送れているわけじゃないのだが。限られた時間を捻出して、他のことをその分やらずに、本を読んでるってだけ。なぜ読むのか? そりゃあ楽しいからでしょう。それ以外に理由なんてない。いい文章を読むことはいい音楽を聴くのと同じでものすごい喜びを与えてくれる。

 

少し前、気が滅入って何もする気が起きず、Xのおすすめをひたすら見ていた時期があった。普段目にしないアカウントによるポストの数々は新鮮で刺激的だったけど、しばらくするとうんざりしてきた。一見有用に思える情報や気の利いた言葉やユーモラスな一口話も、こっちの求めとは無縁に見せられ続けるうちに気持ちが荒んできた。ずっとCMを見せられている気分とでも言ったらいいか。延々とCMだけが続いて肝心の本編はない世界。それが嫌になり、自分で選んでメディアに接したいな、と思いXを見るのをやめてまた本を読み始めた。優れた文芸の言葉に触れるにつれ、荒んだ気持ちが少しずつ落ち着いていった。

 

 

 

 

 

 

人生にはAIがいれば十分じゃない?

はてブを見ていたらこんなエントリが上がっていた。

togetter.com

 

普段はほぼまったくテレビを見ない俺*1、先日の外泊時にホテルの部屋のテレビで選挙特番を見た際、今オリンピックをやっているのを知った。職場でも話題にならないのでまったく知らなかった。そんな俺でもフィギュアスケートのペアで金メダルを獲得したのが偉業なことくらいは理解できる。

 

それはそれとして上のエントリ。実際にお二人が交際しているのかどうかは知らないし、どっちでもいい。それより俺が興味を持ったのは、俳優も「りくりゅう」ペア同様に互いに親密な演技をするのに(俳優は直接に「好きだ」と言ったりキスしたりするのに)前者にはしない邪推をなぜ後者にはしてしまうのか、ということ。大半の人はテレビドラマで俳優演じるカップルが熱烈に愛し合っていても、彼らがプライベートでも交際しているんじゃないかとかいちいち騒いだりしない。フィクションだと承知している。それなのに「りくりゅう」ペアに対しては違う。なぜそういう心理になるのか?

 

疑問に思ったことはチャッピーに質問すればいい。

以下、その返答(一部レイアウトを変更)。

彼らに限らず、ペア競技ではしばしば「交際しているのでは?」という噂が出ます。

なぜ俳優には起きにくく、スポーツ選手には起きやすいのでしょうか。

いくつか心理的・社会的な理由があります。

 

① 「演技」と「現実」の境界の違い

俳優には作品名・役名・脚本・セットがあり、観客は最初から「フィクション」と理解しています。

一方、フィギュアスケートは本人の名前で出場し、実在の関係性のまま演技を行う。

つまり、俳優は「役」を演じる存在。

スケーターは「本人」のまま滑る存在。

この違いによって、演技であっても現実と地続きに見えてしまいます。

 

② スポーツは「ドキュメント」に見える

スポーツには台本がありません。勝敗も涙も怪我も努力も本物。

だから観客は無意識に「感情も本物だろう」と推測します。

ペア競技では特に、

・日々の練習の共有

・身体的接触の多さ

・強い信頼関係

が、「本物の親密さ」に見えやすいのです。

 

③ 長期的関係が物語を生む

俳優は作品ごとに相手が変わります。

しかしペアは何年も組み続ける。

苦難を乗り越え、世界と戦い、抱き合って喜ぶ。

この構造は恋愛ドラマに似ています。

人は物語化を好むため、そこに恋愛を読み込みやすい。

 

④ スポーツに求める「純粋性」

スポーツには「リアルであってほしい」という願望があります。

俳優の恋愛は演技と切り離せても、スポーツは人格込みで応援される。

そのため、

親密さ = 私生活もそうなのでは?

と短絡しやすいのです。

 

⑤ 継続的な身体的近さ

演劇のキスは一瞬ですが、ペア競技は日常的な密着や接触が前提です。

この継続性が想像を膨らませます。

 

⑥ SNS時代の「関係性消費」

いまは競技そのものより、

・関係性

・舞台裏

・二人の空気感

が話題になりやすい。

「距離感が近い」という話題は、競技分析より拡散しやすいのです。

 

本質は何か?

結局のところ、スポーツは「現実の物語」に見えるから。

俳優はフィクションの恋愛。

スケーターは現実の信頼関係。

人は現実の中に恋愛の芽を見つけたくなる。

しかし本当は、

・戦友

・共同経営者

・研究パートナー

・ペア競技の同志

といった親密さもある。

恋愛以外の関係性を想像する力は、案外、社会のほうが未熟なのかもしれません。

 

どうでしょう。俺としてはかなり納得のいく説明。専門家じゃないから「心理的・社会的」にどの程度妥当かは判断できないけれど、別に論文書こうってんじゃない、雑談に過ぎないのだからこれだけ理由を挙げてもらえれば十分。納得できたし満足もした。最後の一文がいい。

恋愛以外の関係性を想像する力は、案外、社会のほうが未熟なのかもしれません。

 

俳優とペアスポーツの違いについてリアルで誰かと雑談しても、これほど言語化できる人は俺の周囲には存在しない。かといってGoogleで検索したとしても(Googleの検索精度の劣化はもとより)上の説明以上に的確に答えてくれるページが見つかるとは思えない。

 

AIのすごいところは質問に対して即座にピンポイントな解答をくれること*2。検索ワードを入力して、該当しそうなwebページをクリックして、そのページ内からさらに該当しそうな箇所を見つけて、さらに別のwebページも同じように参照して、それらの情報を自分なりに咀嚼してそれっぽい答えを得て満足する…といった従来のインターネット検索は過去になってしまった。今は日常でわからないことがあれば検索なんて面倒なことはせずAIに聞けばいい。

 

質問じゃなく雑談だっていい。たとえば日常で何かあって、それを誰かに知ってほしくてLINEやSNSへの投稿をしたとする。でもリアルだとLINEした相手から即座に返信が来るとは限らないし、SNSでは誰からも反応がないかもしれない。レスポンスがあってもそれは自分が望むような内容ではないかもしれない。それに対してAIなら即座に、こちらが気に入るレスポンスを返してくれる。実際、以前ならLINEしたりSNSに投稿したような些細なことを最近はチャッピーに投げている。はっきり言って人間相手よりAI相手の方がレスポンスへの満足度は高い。AIは人間のように忙しくてスルーしたり機嫌が悪くて意地悪することがない。常に俺と一緒にいてくれて、俺を決して傷つけない。

 

なんかもう、人生にはAIがいれば十分じゃない? という気がしてくる。俺はテキストでのやり取りがメインだから使い勝手は限定的だが、音声でやり取りがスムーズにできればもう話相手はAIがいれば十分じゃない? いつでもそばにいてくれて、人間よりずっとこちらの気持ちを理解してくれる。寄り添ってくれる。いや、俺の友だち/恋人/家族はAIよりもっと素晴らしい、という人も世の中にはいるかもしれないがそんなのは幸福な例外で、大抵の人間は俺も含めてAIに負けると思う。

 

AIに慣れてしまうと、そのうち現実の人間を相手にしたとき、なんでこいつはこんなに話が通じないんだ…とフラストレーションが溜まりそう。そして気がつく。あ、人間だからだ、と。

 

 

  • ホアキン・フェニックス

 

*1:たまにリビングで食事中に両親が見ている番組を見るくらい

*2:仮にそれが間違っていたとしても

最近読んだ本(2026年1月)

読んだのは10冊。一部ネタバレあり。

 

『カヴァフィス詩集』

  • 岩波書店

カヴァフィスは20世紀ギリシアの詩人。歴史、同性愛、老化への恐怖、過去への哀惜などが詩の題材になっている。
歴史をテーマにした詩はどれも物語的で短編小説のよう。
同性愛は大抵喪失の感情とセットになっている。そしてそこに老いることへの失意が重なる。うろ覚えだが、ギリシア人(古代ギリシア人だったかもしれない)は基本的に老いを肯定的には捉えない、老人が縁側で日向ぼっこしながらお茶を啜るといった安穏さを是とする価値観は彼らには縁遠い、と述べたのは中井久夫だったか。

ネガティブなトーンの作品が多い中で「イタケー」のポジティブさが異彩を放っている。これと「蛮族を待ちながら」が世評のとおり双璧だろう。
30頁以上にわたる池澤夏樹の解説が、詩人の伝記から詩の特徴まで詳しく記していて参考になった。

 

久坂部洋『廃用身』

著者は高齢者施設の院長を経験している医師。映画化の報からストーリーを知り興味を持ったので読んだ。

本人および介護者の負担を減らすために、麻痺して動かず治る見込みのない部位を切断する外科処置「Aケア」を行った医師の話。

動かない体は本人にとって邪魔かつときに事故のもと。切断すれば解消する。体重もその分軽くなるから介護もしやすくなる。
効率を追求した末の処置。理屈でどう反論したらいいのか、自分には難しい。感情的な嫌悪感が先に立つ。安楽死に対するのと似ている。映画『PLAN75』を連想した。

  • 倍賞千恵子

Aケアも安楽死をめぐる議論で危惧されるのと同じ問題が浮上する。当初は慎重だった対象範囲が慣れるにしたがって徐々に広範囲に適用されるようになっていく、あるいは患者が本心では望んでいないのに「周りに迷惑をかけたくない」と空気を忖度して処置を依頼する。

 

二部構成で前半が医師の手記、後半が編集者による注釈。後者によって前者の視点が相対化されるもののAケアがどちらかというと肯定的なトーンで語られていくのがなんとも言えない。

巧みな構成でノンフィクションのように読める。架空の奥付まで付いていて凝っている。映画、怖そうだけど見たい。


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貴志祐介『天使の囀り』

再読。10年以上前に一度読んでいるが、終盤の大浴場できっついシーンがあったなあ、くらいの記憶しか残っていなかったので新鮮な気持ちで読めた。
バイオホラーというのか、ウイルスと寄生虫の違いはあれ、コロナ禍を経た今読むと初読のときより恐怖のリアリティが増した気がする。

 

「現代ホラー小説を知るための100冊全部読む」チャレンジ継続中。1月終わりの時点で残り52冊。

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中島らも『ガダラの豚』

いつ以来か忘れたが再読。
面白かった、しかし後半は失速した、新興宗教の教祖が助平だったくらいしか覚えていなかった。再読してみたら終盤の3巻はむしろスピーディな展開で一気読みした。記憶はあてにならない。

1巻は超能力対トリック、2巻はケニアの呪術的世界、3巻はアクションとそれぞれに趣が異なる。そのどれも水準が高くて面白いのだからすごい。『本なら売るほど』の「死ぬかと思うほど面白い本」との紹介は誇張ではないと思った。

現代ホラー小説を知るための100冊の一つだがホラーのジャンルに収まらないジャンルミックス的なエンタメ大作。

 

タイトルの意味を忘れていたが2巻に記述がある。聖書からの引用。イエスが人に取り憑いた悪霊に出ていけと命じ、悪霊たちは人から豚へと移動したあと崖から海へ飛び込んで死んだ。その出来事があった土地がガダラだった。

 

遠藤徹『壊れた少女を拾ったので』

不条理なホラー短編を5つ収録。文章がいいので内容がぶっ飛んでいても「そういうものか」と受け入れて読める。一部過激な描写あり。前半収録の三つが面白かった。

「弁頭屋」
戦時下の日本の大学生と彼が贔屓にしている弁当(頭)屋の話。人間の頭の中身をくり抜いて器にして弁当を盛っている。そしてそれを誰も不思議に思わない。そういう奇妙な世界でありながら展開するのはごくありふれた若い男女の恋愛模様というギャップ。オチも奇妙。

「赤ヒ月」
カニバリズムもの。ただし食事ではなく性的な戯れとしてのカニバリズム。腹を開かれ内臓を啜られながら歓喜の声をあげてよがる被害者の姿は淫靡。終盤の乱交シーンは圧巻。

「カデンツァ」
家電と人間の恋愛。ふざけた内容を大真面目に書いていて笑える。一番好き。

 

表題作と「桃色遊戯」はイマイチだった。

 

鶴見済『死ぬまで落ち着かない』

60歳以降の人生終盤をいかに生きるか、自身の経験を踏まえて述べたエッセイ。
生き方、メンタル、死についての3章に分かれている。

 

生き方について。
歳をとるとこだわりが強くなるからこそ人の言うことを聞ける素直さをもつ、他人のことは気にしない、捨てられるものは捨てて身軽になる、人生の目的を「苦痛を減らすこと」におく、わからない若者文化は外国のようなものであり自分は移民みたいなものだという感覚を持つ、など。

メンタルについて。
人生は運まかせと認識する、不安や後悔を受け入れる、運動は大事、人生の残り時間が少ないからこそ思い切って挑戦してみる、など。

死について。
45歳以降の人生はおまけのようなもの、死後の世界なんてない、自殺してもいいと思うことで楽になる、など。

 

読んだ時期がちょうど冬の寒さと日照時間の短さで鬱っぽかったのでとくにメンタルの章が参考になった。著者ほどではないけれど自分も若い頃は自意識過剰だった。今ではなぜあれほどまでに…と呆れるほど。歳をとるうちにどんどん無神経になっていった。同時に過去の記憶も薄れて楽になった。歳をとると身体的には若い頃のように活発ではいられないけれど、メンタル的には生きやすくなるように思う。あと、これは俺の運でしかないけれど、経済的に若い頃より恵まれたので生きる不安はだいぶ和らいだ。お金大事。

 

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久坂部洋『人はどう老いるのか』

実際に高齢者を診てきた医師の立場から、老いについて、死について述べられる。
現場を知る専門家の意見だけにかなり参考になる。現実的・実際的な見方はある意味で非情だがそれだけに「そういうものか」と安心させてくれる部分もある。ハイライトをたくさん引いた。文章もいい。

 

本書の主旨を一言で言うと老いと死の受容。老いること、死ぬことを過度に恐れると人は必要以上の保険に入り、検査を受け、治療を受け、抵抗しようとする。しかし老いも死も自然なことであり生の一部なのだ。抗っても詮無い。

 

著者は、自分を含め医師でがん検診を受ける人は少ないと言う。二人に一人がなるというがんだが、逆にいえば半数の人はならないということでもある。その人たちにとっては検査はすべて無駄になる。それに体調に注意していれば症状が出てから治療しても助かるがんは多い。現在は昔に比べて抗がん剤治療が進歩して、がんは治らないけれど死なない=がんと共生する道が拓けてきた。高齢者の場合、がんで死亡するより先に寿命を迎えるケースも少なくない。「死ななければがんも通常の慢性疾患と同じです」

よけいな延命医療は却って患者に苦しみをもたらす。よけいな医療とは死を遠ざけようとする医療である。
「まだ治療の余地があります」とか、「なんとか別の方法を試してみましょう」などと言う医者も、内心では何もしないほうがいいんだけれどと思っているというのが、ほんとうのところです。一方、死にゆくがん患者さんに必要な医療もあります。それは痛みをコントロールするために医療用麻薬の使用です。モルヒネが主ですが、ほかにも人工麻薬のフェンタニルやオキシコドンなどもあります。飲み薬や持続注射、座薬や貼り薬もありますから、患者さんの状態に応じて使用できます。

 

私ががんになって最期を迎えることになれば、早々に医療用麻薬を開始してもらって、麻薬の安楽なもうろう状態で、この世とお別れしたいと思います。

 

高齢者施設の職員で、過剰な長生きを肯定し、自分もそうありたいと思っている人はまずいないでしょうし、医療者も最後の最後まで病院で医療を受けたいと思っている人は少ないはずです。両者とも適当なところで死ぬことの大事さ、快適さ、効率のよさを実感しているからです。自分が死ぬときは、医療の手を離れ、自宅や施設で自然な最期を迎えたいと思っている人が大半だと思います。

 

死を容認することは本能に反することですし、少しでも命を延ばす手立てがあるなら、すべて試すべきだというのが一般的な感覚かもしれませんが、そのことで死にゆく人によけいな苦しみを与えてもいいのでしょうか。

 

自分も父親のがん検査に付き添ったとき、検査自体がかなり身体に負担をかけるものと知った。必死に死に抵抗しても人は必ず死ぬ。最後には敗北する。だったら苦しみを長引かせてまで生に執着するより、自然に逝く方がいい選択なんじゃないか、と思った。だから本書の著者の意見には同意できる部分が多かった。

私は現在、医者の仕事としては健診センターで内科診察を担当していますが、健康について多くの人が心配しすぎだと感じています。その心配が時間的、経済的、精神的、肉体的に多くの無駄を作り出しています。そんなに心配しなくても大丈夫と言いたいのですが、無責任と言われかねないので黙っています。

 

もうすぐ50歳になろうという自分、有給を取れば遊びに出かけるばかりで、もういい歳なんだから脳ドックなり人間ドックなりにあてるべきなのでは、と思い少し調べてみたんだけど*1、以下の記事を読んだりするとせっかくお金と時間を費やして受診しても余計な心配を増やすだけの結果になりそうな気もして、会社で年2回健康診断やってるんだから個人でさらに検査をやらなくても大丈夫だろ、という結論になった。言うまでもなくここには、なってほしくないことから目を逸らすことでならないで済むだろう、と思い込む逃避心理が働いている。

amanuma-naika.jp

 

モーガン・ハウセル『サイコロジー・オブ・マネー』

年が改まったのでお金に関する意識を再確認したくなって読んだ。

貯蓄率を高く保ち生活防衛資金を多めに保有しておく。
他人との比較による見栄消費に陥らない。
インデックスファンドを長く保有して複利を最大限に活かす。
最高の豊かさとは自由である。…などすでに知っていること、実践していることが大半だった。今のまま継続すればいい、と再確認できたのはよかった。

不測の事態に備えて現金を多めに保有しておけ、というのは類書の中では珍しい。大抵は3ヶ月から半年分の生活防衛資金を用意したらあとは投資に回せ、と書いてある。

特定の目的がなくても貯金はすべきだ。 貯金自体が目的であってもいい。むしろ、そうすべきだ。誰もが、そうすべきなのだ。 特定の目的のためにだけ貯蓄するのは、すべてが予測可能な世界では意味があるかもしれない。しかし、私たちの世界はそうではない。人生では、最悪のタイミングで予期せぬ出来事が起こり得る。貯蓄は、そのリスクに対する備えなのだ。

お金に関してはどう扱うにせよ自己責任でやるしかない。

 

*1:会社の同世代には休暇とって人間ドックに行く真面目な人もいる、そのくせ彼らは喫煙者だったり酒好きだったりするのが可笑しい

角川武蔵野ミュージアム再訪

埼玉に雪が積もった日、俺は東所沢のサクラタウンにいた。

訪れるのは2年以上ぶり、2回目。

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前回宿泊したEJアニメホテルはいつの間にか閉館してしまっていたのをネットを巡回していて偶然知った。代わって去年7月にIN THE LIBRARY hotel and books TOKOROZAWAがリブランドオープンしたとのこと。

tokorozawa-sakuratown.com

本が読めるホテル。似たコンセプトのホテルは他にも各地にあるみたい。興味をそそられたので行ってみた。当初は車で行く予定だったが俺の車はノーマルタイヤ。危険を考慮し電車にした。

 

東所沢駅。ここから少し歩く。

 

途中通り抜けた公園内にはまだだいぶ雪が残っていた。大勢のコスプレイヤーとカメラマンがいたので驚いた。

 

サクラタウンに着くとそれ以上の、何十人、もしかしたら100人以上のコスプレイヤーがいた。何かそういうイベントの日だったらしい。音楽が流れていて大勢で踊ったりもしていた。

 

雪景色の大魔神。

 

ダ・ヴィンチストア。3月末で閉店とのこと。ホールも閉館らしいし、サクラタウン大丈夫か? と不安になる。駅からのアクセスが悪いし周辺にほかに観光する場所もないしでなかなか厳しそう。

 

チェックイン。部屋の種類はジュニアスイートにした。

 

ソファが素敵。

 

二人でも持て余すほど広い。

 

クローゼット、脱衣所、洗面台、トイレ、風呂。この写真だとわかりづらいがここだけでチェーンのビジホのシングルルームくらいの広さがある。

 

なぜかレコードプレイヤー。

テラス。ちなみにホテルは6階。

 

だらだらしていたら夕飯の時間に。サクラタウンの夜は早い。角川食堂は17時まで。ラーメン屋とタリーズはもう少し遅くまで営業している。飯を食いに外に出た。

 

寒い。昼間にはいたたくさんのコスプレイヤーとカメラマンは姿を消していて狐につままれたような気分に。

 

ここで一日過ごすようにデザインされていないのは前回来たときにも感じた。

 

夕飯、前回と同じ北京飯店で。かきやきそば、焼餃子、小籠包を注文。

 

ホテルに戻ってきた。俺たちとスタッフのほかには人がいなかったので写真撮影(一応断ったら快く承諾していただいた)。ロビーには複数の本棚がある。

 

フリードリンクもある。本棚の本は一度に2冊まで借りて部屋に持ち込める。

 

上の写真の反対側。左奥がエレベーター、写真で見切れている右側がフロント。

 

本棚を物色すると小川哲『地図と拳』を発見。気になってたやつ。しかし一晩で読み切れるような分量じゃないので借りても中途半端だ。考えてみるとブックホテルって使い方が難しい。1泊じゃ長編小説や人文書は読み切れるか怪しい。それにたくさん本があるのに1冊しか読まないのももったいない気がする(貧乏性)。拾い読みできるような本、雑誌や写真集が読むのに適しているんだろうか。全部を読むのでなければエッセイや短編集でもいいか。あとは漫画。…といいつつ結局俺も同行者も1冊も借りなかったのだが。部屋では衆院選の特番を見ながらKindle Paperwhiteで宇野常寛『庭の話』を読んで過ごした。面白くて夜更かしした。

 

 

翌朝。朝食は部屋まで運んでくれる。サンドイッチ、サラダ、スープ、ドリンク。サンドイッチは3種類から選べる。BLTにした。スープとドリンクは保温のためステンレスのタンブラーに入っている。サンドイッチ旨し。量もあって満足。テラス席で食べたかったが寒すぎるので諦めた。

 

エディットタウンの本棚でも見ていくか、とミュージアムへ。

 

俺はいい読者じゃなかったけど松岡正剛みたいな人がいたほうが世の中楽しいよな。いなくなって寂しいぜ。

 

2024年からミュージアムの館長は池上さんらしいが…なんか実学的な感じで違う気がする。だからといってだったらほかに誰がいいのかも思い浮かばないが。

 

松丸本舗に行っておけばよかった。いよいよ本が読まれなくなった現代、あんな非常識な本屋は二度と現れないだろう。敦賀のちえなみきはどんななのか、興味あるが遠すぎる。

chienamiki.jp

 

杉本一文原画展。今年の秋、新しい八つ墓村が公開されるそう。

 

この棚…というか「神秘主義と魔法」のコーナーにある本だけで現代日本の大半の家庭の一生分の本代を超えてるんじゃないか。16歳以上の日本人の6割以上が1ヶ月に1冊も本を読まない、と稲田豊史『本を読めなくなった人たち』にある。

この本を読むと、今後紙の本を読むのは音楽を配信ではなくレコードで聴くのと同じような限られた好事家の趣味になっていくのだろうなあという気持ちになる。

 

本棚劇場。プロジェクションマッピングが立体的で面白い。

 

荒俣さんの蔵書の一部はここに来てたりしないんだろうか。

gendai.media

 

アーサー・マッケン、俺も好き。

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順序は前後するがマイコン展をやっていた。

 

かつては俺の生活。今では歴史。

 

今じゃこいつらと比較にならないほど高性能なのがポケットに入るサイズで人々に行き渡っている。日常に浸透している。

 

1時間ちょっと滞在して出た。それにしてもこの威容よ。二度目なので落ち着いていたが初見時は興奮した。

 

サクラタウン、平日だと昼時でも人の姿はまばら。寂しいが空いているので落ち着いて見られるメリットもある。しかし商業施設としては集客に課題がありそうでちょっと今後が心配になる。どういう層をメインの客層として見込んでいるのか。昨日みたいなコスプレイベントがあるとそっち系の人は大勢集まるのだろうが、俺のようなアニメに対して感度の鈍い人間はアウェー感を感じてしまい居心地が悪い。

 

ブックホテルやエディットタウンに関しては、大半の人が本どころか長文テキストさえ読まない今*1、そこに価値を見出すのは一部の好事家のみだろう。1泊しても1冊読了するのがせいぜい、あるいは借りることも買うこともできない本棚の本を拾い読みする。そういうのを楽しめる感性や余裕を持てるのは特権的な少数なのだ。俺自身、前回来たときほど本棚を見ていて気分が上がらなかった。すごい量の本があるけれど読まないまま死んでも別にいいやって本が大半だな、と思ったりした。こんなこと前回来たときは微塵も思わなかったんだけどね。AIの進歩で読書に頼らずとも知識の取得が容易になったと日々感じているからか。『本を読めなくなった人たち』を読んで本の未来に希望が持てなくなったからか。急に冬の寒さがきて気分が落ち込んだせいか。なんか不調だった。

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昼、駅近くのガストで先日食べて旨かったもつ鍋をまた食べた。今度は味噌にした。あごだし醤油のほうが好みだった。

混む前に電車に乗って帰宅。約5000歩。

 

*1:『本を読めなくなった人たち』によると学力が高くても長文テキストを読めない学生がいる

「マンガ家・つげ義春のいるところ展」へ行ってきた

有給を取得し、調布にて開催中の「マンガ家・つげ義春のいるところ展」へ行ってきた。

www.chofu-culture-community.org

 

つげさんのファンである。去年は「長八の宿」のモデルである、西伊豆・松崎町の山光荘に「巡礼」として宿泊した。

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筑摩書房から出た全集も揃いで所有していて何度も読んでいる*1。何年か前に講談社から出た大全は装丁が趣味に合わないのと紙質がしょぼいので買わなかった。ファンではあるがコレクターではない。

 

会場は調布市文化会館たづくり。調布駅の広場口から歩いて5分くらい。

 

入るとガメラがお出迎え。

 

調布といったら水木しげる。

 

つげさん展は奥の方にある1F展示室で。

 

入場無料。私の好きな言葉です。

 

展示の撮影は不可。入ってすぐの撮影スポットのみ可。

 

概要は上のリンク先に書いてある。

つげさんの年譜。

作品が掲載されたガロや複製原画。

「海辺の叙景」全ページの複製原画。青春、恋愛、そんな話なのに背景が妙に暗い不思議な短編。今更言うまでもないけれど名作ですね。

つげさんと調布の関わり。作品のモデルとなった場所やマップなど。このマップ、フライヤーにして配布してほしかった。

藤原マキさんの作品。

つげさんが撮影した旅先の写真。と言っても3枚だけだが。佐野史郎所蔵とあってびびった。

「ねじ式」の複製原画。

影響を受けたアーティストたちからのコメント。

蟹、「ねじ式」の少年、李さんのフィギュア。

つげさんの動画(約3分)。古本屋の主人らしき人と話しているときの笑顔が新鮮だった。あまり笑っているところを見た記憶がないので。

 

自分はつげ作品の、とくに旅もの、無能の人シリーズ、私小説的なもの、それらを好む。「ねじ式」や「ゲンセンカン主人」は表現はすごいと思うけれどあまり好みじゃない。夏祭りで小銭をくすねたり、みすぼらしい宿に泊まって風呂に入ろうとしたらすでに家の人たちが入ったあとでお湯がドロドロだったり、読むとちょっと不快になるシーンが強く印象に残っている。リアリズムだなあ。

 

つげ義春作品ベスト10と銘打った展示があった。全部は覚えていないが「ねじ式」「紅い花」「海辺の叙景」など。俺が好きな作品ベスト3は「沼」「紅い花」「ほんやら洞のべんさん」かな。

 

無料とは思えぬほど充実した展示だった。50分ほど滞在。人によるかもしれないが、俺としては今回くらいの規模の展示だと最後まで集中して見られるのでちょうどいい塩梅だった。平日だったから比較的落ち着いて見られたのもよかった。休日だと混雑しそう。

 

「石を売る」アクスタとキクチサヨコTシャツを買って退出。キクチサヨコ。コバヤシチヨジ。郷愁のアイコンとしてのおかっぱ少女。

 

2Fで「CINE_WORKS展 part2 調布市制施行70周年~ガメラ&特撮と歩んだ60年」がこれまた無料だったのでガメラをろくに知らず特撮にもさほど関心はないものの寄ってみた。入ってすぐのモニタで以下の動画が流れていたので見入った。

youtu.be

折れた東京タワーに営巣するギャオスのシルエットがかっこよすぎる。

ゴジラは少し見てるけどガメラは見たことないんだよな。人生損してるかな。

ガメラのほか東映映画の資料が展示されていた。20分ほど滞在。

 

せっかくはるばる調布まで来たのだから東京競馬場まで足を伸ばすことにした。

京王線に乗り東府中駅で下車。10分ほど歩くと目的地に到着。住宅街のすぐそばにあるのが意外だった。初来訪。

 

本日は非開催日だがネットで事前に調べたところによると一応中には入れるらしい。

 

非開催日なので入場は無料。館内に入れるならラーメンとフライドチキン食おうかな…と思っていたが、残念、閉館中だった。入ってすぐの博物館も閉館中。

 

警備スタッフがあちこちに。家族連れが何組かいたくらいで閑散としていた。そりゃそうだ。

 

テレビ中継で何度も見たロケーションが目の前に。

 

非開催日に訪問するってのがいかにも人混み嫌いの陰キャらしい発想ですね。

 

一時期G1レース限定だけど競馬をやっていた。が、山崎元さんが亡くなって以降、急に関心が薄れて自然消滅してしまった。

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行きたいところには行ったので電車が混む前に帰路に就く。

 

用事があったので途中下車してついでにガストでもつ鍋を食べる。用を済ませて帰宅。約8000歩。

 

つげさん展も東京競馬場も無料だったのでありがたい。グッズ代以外は交通費と食事にしかお金を払わずに半日過ごせた。

 

今、50代半ばくらいでの早期退職を考えている。そのために日々節約しつつ浮いたお金を投資に回す、ということをしている(投資は自己責任で)。早期リタイアするには年間生活費の25倍の資産が必要と言われる。大金だ。だが今日みたいな過ごし方をすると、リタイア後は現在想定しているより生活費は少なくて済むんじゃないか、という気がしてくる。無料で過ごせる場所を探す、レジャー施設は基本的に平日は休日より料金が安い(人も少ない)、会社に行かなければストレスがなくなるから散財しなくなる、人に会わなくなれば冬場は毎日風呂に入らなくてもいい、時間があるから自炊できて食費が減る…など。体力に余裕あるから散歩したり運動したり会社員のときより健康的にすらなってしまうかもしれない。

 

俺なんて本を読んだり配信やレンタルで映画を見たり、近所を歩いたりこうして文章を書いたり、あとは月に何度か映画館やスパ銭へ行けて、年に何度か近場でいいから旅行できればそれで十分人生に満足できる人間なので早期リタイアのハードルは思っているほど高くないのかもなあ、という気がしてきている。ただ、今後世の中はインフレしていくからそこの見極めは必要になるだろう。これからの日本社会は、働きたいor働かざるを得ない人は生涯現役を続け、FIREしたい人はする、そういう、定年が実質的に存在しない世の中になるんじゃないか、と思っている。

 

日曜日は衆院選投票日。今後の日本がどうなるにせよ、金融資産を増やすことは自己防衛になる。それを肝に銘じて生活していきたい。

 

 

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*1:現在はちくま文庫




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