地元の小さな書店には、毎年夏になると角川、新潮、集英社の夏の文庫フェア本を並べる平台が設置される。こういうのは取り次ぎが勝手にセットして下ろしてくるのだそうで、フェア本全点が並ぶわけでもないし、1冊しか入荷しない本もけっこうあったりする。
そろそろかなあと覗きにいった店頭で、角川文庫×「文豪ストレイドッグス」のオダサク作品が2点、一冊ずつ並べられているのを見て、思わず手にとってはみたものの、買うのをためらってそっと元に戻したのは、この本ならきっと喜び勇んで買っていく若者がいるだろうと思ったからだった。
「ダザイもアンゴもいいけれど、やっぱり私はオダサクがいいなあ」
数年前にきいた中学生女子の言葉を鮮やかに思い出す。
それは間違いなく『文豪ストレイドッグス』の影響に違いなかった。
もしかするとオダサクの作品を読んでみたいが手頃な本がないと嘆いていたあの若者たちが、買いに来るかもしれない。
そう思ったら、1冊だけしかない本を早々に持ち去ってしまうのは気が引けて、数日後、もう一度見に来たとき残っていたら買うことにしようと考えたのだ。
案の定、この本も『天衣無縫』も早々と売れてしまったので、今度はのんびり取り寄せをお願いして入手した。
『青春の逆説』は戦時中、その破廉恥な内容が問題となって発禁処分になったという曰く付きの作品で、織田作之助の自伝的小説だとされている。
夫にも父親にも先立たれたお君は、息子豹一を中学校にやらせてくれとの条件を付けて、高利貸しの安二郎の元に後妻に入ったが、金に汚い安二郎は、結婚した途端、女中を追い出して、すべての仕事をお君に押しつけた。
お君は豹一のためにと内職もこなし、身を粉にして働いた。
一方母親譲りの美貌をもつ豹一はというと、母と安二郎と暮らすうちに、性的なものへの嫌悪感をつのらせていくのだった。
成績は優秀でやがて三高(今の京大)に進学するもあれやこれやで中途退学、新聞社に就職する。
自意識過剰の豹一は、いつも誰かの想い人に心惹かれて、なんだかんだで付き合い始めてしまうくせに、性的なものへの嫌悪はなかなか払拭できず、手をつなぐのが精一杯。
そんな彼が、取材対象である松井須磨子ばりの女優とついに…!?
いやいや織田作、三高時代のバンカラぶりなど、確かに自伝的要素を取り入れているのだろうが、なんというかこれは、盛りに盛ったね!という感じ。
いいのかこれで!?
と思っていたら、同時収録の『可能性の文学』にその答えがあった。偶然を書かず虚構を書かず、生活の総決算は書くが生活の可能性は書かず、末期の眼を目標とする日本の伝統的な小説の限界
を鋭く批判し、あっちから少し、こっちから少しという風に、いいところばかりそろえて、四捨五入の結果三十六相そろった模範的な美人になるよりは、少々歪んでいても魅力あるという美人になりたい
という織田作のこの文学論に触れて、初期の作品だという『青春の逆説』の主人公豹一の母お君を主役とした『雨』と『青春の逆説』とを読み比べてみると、織田作がめざしていた方向がぼんたりと理解できる気がしてくる。
ちなみにこの『可能性の文学』には、太宰も安吾も上林暁も実名で登場する。
『文豪ストレイドッグス 太宰治と黒の時代』の冒頭にも登場する短いがとても面白い文学評論だ。
それにしても「オダサクがいいなあ」と言っていたあの子達の織田作作品を読んだ感想が気になりすぎるっ!