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『金時鐘 ずれの存在論』

 

今ではすっかり昔の話になってしまったが、学生時代、大学図書館で対面朗読のボランティアをしていたことがあって、あるときリクエストに応えようと、手にしたのが金時鐘の『猪飼野詩集』だった。
けれども、朗読の技術も詩の素養も全く無かった私には、この課題は難しすぎて、ただ字面を追うことしかできず、申し訳ない気持ちでいっぱいになったのは苦い思い出だ。

なくても ある町。
そのままのままで
なくなっている町。
電車はなるたけ 遠くを走り
火葬場だけは すぐそこに
しつらえている町。
          (金時鐘「見えない町」より)



そうした思い出だけでなく、“猪飼野”の印象はとても強烈で、金時鐘という詩人の名前を、忘れがたいものにもした。

あれから、詩人の著作をいくつか読み、その都度、感銘を受け、気に入ったフレーズを書き出してみたりもしたが、いつも「読めた」という気がしなかった。

それは、私の不見識故のことなのか、それとも……と気になっていたところに、この本のことを知った。

韓国の哲学者による金時鐘論。
日本語で書かれた「在日」や「光州事件」についての詩を、韓国の著者はどう読み解くのか、なんだかとても気になって読んでみた。

500ページほどの立派に自立する大著なので、当初は読み切れるかどうか不安におもっていたのだが、全く心配はいらなかった。

詩を読むということは詩に巻き込まれることであり、詩人の霊魂に捉えられることである
詩人に投げかけられる謎に巻き込まれ、詩人の言葉に導かれ、闇のなかに入りこむことだ。その闇のなかで道を失い、手で見て鼻で聞き、手探りで出口を探すことだ。自分が生きてきた親しみのある世界の外へと出て行く門を探しもとめることだ。詩とともに、詩のなかで、自分の他者になることだ。
もちろんハイデガーをひくなど哲学的な考察も多いのだが、著者の金時鐘愛読者らしい「巻き込まれぶり」が非常に興味深く、私自身もすっかり身を委ねて一緒に巻き込まれ、とりあえず最後まで一気に読んだ。

人間なら誰しもが自己に即した“詩”を持っている金時鐘はいう。
書かれない小説は存在しませんが、詩は書かれなくとも存在します。とも。

「詩」について「詩人について」「詩を生きる」ということについて、あれこれ思い巡らせ、「命を賭ける」ことが「死を賭ける」ことならば、「存在を賭ける」ことは「生を賭ける」ことだ、という意味を考え、「なくてもある」ことと「あってもない」ことの違いに思いをはせる。

“読み終えた”とはいわない。
とりあえず、再び巻き込まれる準備と覚悟はできた。
金時鐘の詩集を読み、いつかまた再びこの本に戻ってこよう。




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