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『ファシズムとロシア』

 

図書館の新着棚で見つけた本。
邦題に目を惹かれて手に取ったところ、よく見ると薄く“Is Russia Fascist?”の文字が。

原題は“Is Russia Fascist?: Unraveling Propaganda East and West”
2021年に書かれた比較的新しい本だ。

連日のウクライナ関連報道をみていると、「ロシアはファシズム国家か?」と問われれば、肯定する人も多いのではないかと思う。
欧米では、しばらく前からそう論じられる傾向にあったはず。

フランス出身の国際政治・政治思想研究者で、ジョージ・ワシントン大学ヨーロッパ・ロシア・ユーラシア研究所所長、同大学の教授でもある著者が、なぜ今そうした問いをたてるのか?
そしてその問いにどう答えるのか知りたくなってページをめくる。

書誌情報に転載した目次をみてもえばわかると思うが、著者は、安易なレッテル貼りに異を唱えた上で、ファシズムに関わる要素を丁寧に検討しながら、ロシアの体制と現状を分析するというスタンスをとっている。

とても考えさせられる為になる本ではあったが、今の私の力量では、書評を書き上げることが出来そうにない。
せめて、この先様々な問題を考え続けるために、沢山とったメモの中から、特に心に残った点を書き出しておきたい。


ジョージ・オーウェルの『政治と英語』(1946年)は未読だが、本書によればオーウェルはその中でファシズムは今や「望ましくないもの」を意味する以外において何の意味も持たないと述べているという。(p26)

“ロシアをファシストに分類することはしばしば、ロシアを西側にとっての他者とし、「我々」にとって望ましくないものすべてを体現させるという単純な役割を果たす”と著者は言う。

そもそも“ファシズム”とはなにか。
この本では“ファシズムを、暴力的な手段によって再構築された、古来の価値に基づく新たな世界を創造することで、近代を徹底的に破壊することを呼びかける、メタ政治的イデオロギー”と定義する。(p39)

ウンベルト・エーコは、『永遠のファシズム(1995年)の中で、“ナチズムには一つの形態しかないが、異なる組み合わせでいくつかの特徴を混在させる多彩なファシズムがある”と指摘している。
著者はこのエーコが提案した「原初ファシズム」の14の類型を評価しつつも、そこには二つの問題が残されるという。
その一つは、このうちいくつの特徴を備えていれば、その政治体制がファシズムとみなされるのか?という点。
今ひとつは、ファシズムの持つ特徴のいくつかが、非ファシズム体制の中にも、いわゆる「確立された民主主義」の中にも存在するという事実を、どう概念化すれば良いのか?という点だ。

差異への恐怖、陰謀論、選択的ポピュリズム、マチズモ…こうしたものはなにもファシズムに限定されるものではない。
もしもファシズムを規定する特徴のいくつかが、「民主主義」に連なる体制にもあったならば、誰が、どこで、どうやって、境界線を引くのか?どこからがファシズムなのか?と問うのである。

リベラルの正当性を否定するものは誰であれファシストだと非難する行為は、空前の規模に拡大してきたと著者は指摘する。(p50)

政敵にレッテルを貼り、ファシズムだと糾弾することで相手国のブランドを失墜させることは、国際政治における他国をおとしめる行為の台頭という、より大きな潮流に含まれる。(p51)

持ち出されるのは「ヒトラーにたとえる論証」(1951年/レオ・シュトラウス)だ。
相手の主張の内容よりも相手の人格を攻撃することで反駁する議論の方法、人格攻撃法のカテゴリーに属する。
つながりによる罪、つまり、見解や行動がヒトラーやナチ体制を連想させるものに似ているとされることを根拠にする。
ヒトラーにたとえる論証」の説得力には二重の機能がある。まず、論駁を最も血塗られたイデオロギーと結びつけて中傷し、攻撃する側のものをナチズムと戦う者、あるいはその犠牲者と措定する。攻撃する者の道徳的優位性を確たる者にするために、強力な歴史的参照を用いるのである。(p52)

なにが「善」であるかを共通認識にするのは難しいが、普遍的な「悪」が何かを定めることは、ナチの暴力の記憶を通じて可能であり続けているというわけだ。

我々が現在目にしている「ファシズム」という用語の濫用が、我々の社会の構造的変化を説明するどころか、見えづらくしてしまっているというのが著者の主張でもある。(p53)

こうした指摘は非常に興味深い。


これだけでも読んだ甲斐があったと思っていたのだが、衝撃はまだこの先に待ち構えていた。

記憶のヨーロッパ化は、法のヨーロッパ化よりもはるかに達成困難だ(p125)
第4章の「記憶をめぐる戦争」は必読だ。

第二次世界大戦中、共にファシズムに抵抗したことは、鉄のカーテンの両側の数少ない共通項だった。

戦争の暴虐とホロコーストの恐怖はドイツだけの罪とされ、ヨーロッパ全土に存在したナチの協力者や、モスクワの支配下にあった領域で行われたソ連の暴力行為を脇に置くことで、カーテンの両側から単一の敵を非難することに集中できたのだ。

けれども、西欧とソヴィエト・ロシアが共有したこの従来型の歴史観は、自分たちはナチからソ連支配下に受け渡されたと考えてきた中・東欧の「新しいヨーロッパの国々」の目には、真実を覆い隠すものと映る。

EUの仲間入りをしようとするこれらの国々は、ロシアに対し、賠償や償いの政策立案、真実究明や公文書公開を求めている。

中・東欧の新たな公的記憶が、ソ連をナチ・ドイツと同等の脅威に格上げしたように、彼らの憎悪に燃えた反ソ主義は、ナチ体制との協力者として地元当局や住民がホロコーストで果たした役割を減じるというスタンスをも生み出している。

例えば、ポーランドでは、2018年、ポーランド国民がホロコーストに加担したと主張する、あるいはナチの絶滅収容所を「ポーランドのもの」と描写する者には禁固刑を科すという新しい法律を施行した。

同じ傾向は、反ソレジスタンス運動の解釈にも見て取れる。
しばしばドイツ軍の制服をきて行われたこうした活動が、だんだんと「自由の戦士」として記憶されるようになってきているというのだ。

エストニアでは元ナチの協力者たちが毎年、SSの制服を着て、彼らの行動を記念するパレードを行っているという。

そしてウクライナでは……。


こうした一連の動きも、ロシアの側から見れば「ヤルタ体制」を否定する歴史修正主義に見えることだろう。
そしてそれはとりもなおさず、ファシズムに対する勝利者として保証されたはずの国際社会におけるロシアの地位を脅かすものに他ならないとも。


今起きている出来事の発端が「記憶をめぐる戦争」であるとするならば、いったいどこに帰着点を求めればいいのだろうか。

山ほどのメモをとりながら、本を読み終えたあとも、途方に暮れる。

それでも…と、私は考え続ける。

ロシアの行為を正当化するつもりは毛頭ないが、未来のためには、マスコミが煽り、世論がなびいているように、狂気にとらわれたファシストによる蛮行だ決めつける見方よりも、本書が指し示しているような、理解することを諦めない知性の方が求められるべきではなかろうと。

 

 

 




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