だいぶ前にも話した気がするが、
私は基本的に人を嫌いになっていく傾向がある。
一緒にいる時間が長ければ長いほど、
その人を嫌いになっていってしまう。
嫌いになるペースは人それぞれだから、
ずっといてもほとんど嫌いにならない人もいるし、
少しだけでも嫌いになる人もいる。
でも総じて人との関係は、
最終的に嫌いに落ち着くとどこかで思っている。
免許合宿で知り合って行動を共にする(せざるを得ない)人が2人いるのだが、
その片方は正直言って会って2日で既に嫌いになりつつある。
少し声が大きかったり、
話すテンポがズレていたり、
嫌いになる要因はたくさんあったと思うけれど、
一番大きな原因を、
私の貧相な語彙力を使ってその理由を言語化すると、
多分彼には“文学的思考力”がないのだ。
簡単に言うと「話が通じない」のである。
よく「IQが20違うと会話が成立しなくなる」と言うが、
もしかしたらその感覚に近いのかもしれない。
会話というコミュニケーションツールはよくキャッチボールに例えられるが、
それを用いて説明すると、
こちらがテニスボールを投げているのに、
全部ラグビーボールになって返ってくるような感じである。
別にこの現象が、
例えば知識量の差が原因で発生するのであれば、
それは仕方の無いことだと思う。
だって知らないんだもん。
別に知らないことを責めることはできないし、
最悪説明してあげれば済む話だ。
ただし今回の件はそうではなく、
「知らない」というより「わからない」なのだ。
「わかる」というのは、
相手の話の内容に同意できるというニュアンスや、
相手の言いたいことが理解できるということよりも、
それを自身のものとして吸収できるという意味合いが強い。
目や耳から入ってきた情報(例えば小説文だとしよう)に触れた時に、
セリフや情景描写から登場人物の心情を察するのは、
相手の言いたいことがわかること、
一般に読解力と呼ばれる能力を使っている。
そして、
文章内で起こったことがもし実際に自分にも起きたら、
自分は果たしてどう動きどう感じるのだろうか、
そういうことを想像する力、
その力のことを私は“文学的思考力”と勝手に名付けているのだが、
そういう力がないせいで、
相手が投げたボールと同じボールを選んで返せない、
そういう現象が発生しているような気がする。
別に相手の気持ちがわからなくてもいい。
ただ会話をする時に相手と同じ土俵に降りてくる、
そのために必要な力が、
“文学的思考力”だと思う。
こういう力は文学に触れることで養われると思っているのでこのようなネーミングにしているが、
こういうことを考えると、
改めて読書の大切さを認識させられる。