久しぶりに本を読んだ気がする。
借りていた本の存在を思い出したのは、
夏休みに入ってしばらくした頃であり、
普段そういう類の忘れ物はしたことがなかったので、
少し動揺した。
まぁ借りている手前、
いつかは返さなければならない。
返す時になって、
全然読んでいなかったでは済まされないので、
少し時間と余裕がある時に読んでしまおう。
生憎免許合宿5日目の僕は、
奇跡的に取れた暇な時間を持て余しており、
その暇を潰す手段も効果測定を受けるか音楽を聴くか本を読むかしかなかったので、
借りている3冊の本のうちの1冊を取り出し、
教習所内で一番お気に入りのソファーに座ってそれを読み耽った。
以前誰かが、
「最後の1ページを読み終えてしまうと作品が終わってしまうので、ラストを見るのを躊躇ってしまう」
と言っていたが、
私にはどうもそれが理解できない。
別にそういう意見を排他したいわけではない。
しかし私にとって物語(ここでは小説等の作品を含む)というのは毛糸の手編みセーターのようなもので、
作者が文章という毛糸を編み込んだ結果の産物なのだ。
私のこのイメージを用いて推測するならば、
前述のような考えをする人は、
物語を摂取することをセーターを買うことと捉えているのだろう。
その時はあくまでもそのセーターを買うことが目的であり、
そのセーターを着ることが目的ではない。
買うという目的を達成した後に襲ってくる喪失感というかなんというか、
そういうものがどこかにあるのかもしれない。
それは決して悪いことではない。
しかし私の場合、
作者によって既にセーターは完成しており、
物語の摂取は、
すなわちそのセーターを着るということにあたる。
身につけたセーターは感覚的に私の一部になり、
目的を失った喪失感というものはない。
むしろそのセーターを見に纏った私は、
今までの私と比べてどう変わったのか。
重要なのはそっちの方である。
その物語を最初から最後まで摂取した私は、
その物語にどれほど影響を受けているか。
それを確かめたいと思う気持ちが、
ないと言ったら嘘になるだろう。
要するに私にとって物語とは、
摂取後の自分の反応を含めて物語であり、
作者の文章だけでは完結し得ないのだ。
だから物語が終わってしまうことになんら抵抗はないし、
むしろ終わってしまわないと歯がゆい気持ちになる。
私が普段、
小説を端から端まで断続的に読もうとするのは、
きっとそういうところから来ているのだろう。
思ったより長くなるので、
続きは明日にでも書くとしよう。
私がこのことを覚えていればの話だがな。