皆様の目に入る頃にはもう次の日になっているだろうが、
僕がこのブログを書いているのは7月7日、
七夕である。
1年に1度、
織姫と彦星が天の川を渡り再会すると言われるこの日。
日本人の大半は今日、
空を見上げているのではないか。
なんとも恐ろしく、
幻想的な光景である。
我が大学にも一部に笹が設置され、
狂ったように願い事を書く人が群れをなしている。
大学生の願いなんて、
大抵はしょうもない悩みで、
「単位が欲しい」だ、
「彼女が欲しい」だ、
ごたごた騒いでいるばかりである。
彼女に関しては知らないが、
単位に関してはお前の努力次第だろ。
短冊に祈りを捧げるくらいだったら、
帰ってレジュメを開いたらどうだ。
気づいたら願い事なんてできないようになってしまった。
いやできるけども、
伝わるかなこの感じ。
叶うか叶わないか微妙なラインの願い事ができなくなってしまった。
小さい頃の願い事はとても現実的で、
とても簡単に実現できた。
「〇〇が欲しい」だの、
「〇〇がしたい」だの。
殆どのことは叶えられる願いであったし、
短冊に祈らなくても、
親に頼めば凡そ達成できるような願いだった(親がその願い事を聞いてくれるかは別問題だが)。
でも僕はそれをとても真剣に願っていた。
まるで1年に1回の大勝負かのように。
真剣に、丁寧に。
だが、
この歳になってみるとそうはいかない。
願い事になるようなことの大半は、
①「自分でやればどうにかなるけど、めんどくさがってやってないもの」
②「自分でやってもどうにもならず、半ば諦めているもの」
③「願ってはいるけど、実際そんなに大した願いではないこと」
④「自分が何かしたところで関係ないもの」
のどれかになってしまった。
それこそ前半の「単位が欲しい」などは①に該当するし、
「彼女が欲しい」は②ないし③に当てはまる。
「世界平和」などと書いてしまえば④になるのかもしれない。
要するに、
現実が見えてきてしまうのだ。
「これは願うくらいなら自分で頑張るしかないな」
「これは願ってもどうせ叶わないから諦めるしかないな」
「とりあえず願うことがないから適当に書いておこう」
と思うようになってしまった。
願いの向こうに見る現実に脅かされて、
迂闊に願い事ができなくなってしまった。
最後にもし今、
願い事を言えるのならば、
夢を見たい。
長い、長い夢を。