とうとう二冊目の訳書となるケイトリン・R・キアナン『溺れる少女』が河出書房新社から出ました。
どういう本かというのをひとくちに紹介するのは難しいので、まずは原著の頭についている推薦文の訳を載せておきます。
『溺れる少女』において、ケイトリン・R・キアナンは新たな先駆者となった。ゴシック小説や幻想文学の分野における、もっとも優れ、もっとも芸術的な作家――すなわち、深く道徳的で芸術的な厳粛さのあるフィクションを書くことのできる作家――の仲間入りを果たしたのだ。この繊細で謎めいた、多種多様なものを内包した小説は、奇妙ながらも際立った才能の気配がちらちらと垣間見える、かつて読んだことのないような作品だ。驚くべき文学作品であり、単刀直入に言ってしまえば、ケイトリン・R・キアナンの代表作と言えるだろう。
——ピーター・ストラウブ
この小説で、ケイトリン・R・キアナンはゴースト・ストーリーを反転させ、そしてまたべつのものに変化させた。本作は、物語がいかにして語られるか、また物語が何を明らかにし、何を隠すかについての物語だ。だが、それによって、この物語の強烈さやサスペンス性が損なわれることは決してない。この物語は、現実そして非現実の幽霊について語り、読者を一気に深みに引きずり込み、そしてゆっくりと息継ぎをさせる。
——ブライアン・エヴンソン
『溺れる少女』には、ケイトリン・R・キアナンが書く作品に読者が期待する要素がすべて盛り込まれている。それはつまり、すばらしい輝きを放つ文体、ものういメランコリーな雰囲気、そして言いようのない痛烈な美しさと身を締め付けるような恐怖の混在である。本作はゴースト・ストーリーであると同時に、ゴースト・ストーリーの書き方についての書物でもある。恋に落ちること、恋が終わること、そして狂気とは神からの贈り物なのかはたまた呪いなのか、という疑問についての書でもある。読み終えたくないと思った、数少ない小説のひとつである。
——S・T・ヨシ
傑作。ジャンルを超えて、長い長いあいだ読み継がれるべき作品だ。
——エリザベス・ベア
見事に書かれた驚くほど独創的な小説であり、そのなかでシャーリイ・ジャクスン、ラヴクラフト、ピーター・ストラウブなどの古典をうまく昇華している。『溺れる少女』は、ケイトリン・R・キアナンを現代のダークフィクション界の第一線に押し上げた。背筋を寒からしめ、忘れがたいこの作品を読めば、真夜中を過ぎても、あの語り手の声が頭の中に響き続けることだろう。
——エリザベス・ハンド
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あと、ざっと訳者あとがきから抜粋してみよう。
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本書は Caitlín R. Kiernan "The Drowning Girl: A Memoir" の全訳である。本作は、優れたホラー作品に送られるブラム・ストーカー賞と、ジェンダーへの理解を拡大・探求したSFまたはファンタジー作品に贈られるジェイムズ・ティプトリー・ジュニア賞(現アザーワイズ賞)をそれぞれ受賞している。そのほか、世界幻想文学大賞、ネビュラ賞、シャーリイ・ジャクスン賞、ローカス賞最優秀ファンタジー小説部門の候補にもなった。
サイコロジカル・ホラー、あるいはクィア・ホラーとして世界各国で評価されている本作は、すでにフランス語、ドイツ語、ルーマニア語、スペイン語、イタリア語など、多くの言語での翻訳が刊行されている。
本作の語り手は、統合失調症の家系に生まれ、自身も統合失調症の診断を受けているインディア・モーガン・フェルプス(通称インプ)という女性だ。原題に A Memoir(回想録)とあるように、本作は彼女が記す手記の形式で語られていく。
インプはひょんなことから、のちに恋人となるトランスジェンダーの女性、アバリン・アーミテージと出会い、同居することになる。ある夜、インプはドライブ中、エヴァ・キャニングという謎めいた女に出くわす。エヴァは道端で立ち往生し、裸でしかもずぶぬれのまま、佇んでいたのだ。偶然にも車をとめたインプは、エヴァを家に引き取ることになる。
その後すぐにエヴァは姿を消すも、夢の予感に導かれ、一八九八年の絵画『溺れた少女』を見に来たインプの前にふたたび姿を現すこととなるのだが……。
本作の要約をはなはだ難しいものにしているのは、その語りだ。
インプは記憶を頼りに本作、つまり手記を書こうとしている。だがその記憶はあいまいとしていて、常に虚偽の疑いがかかる。そして何より、語り手であるインプ自身もそのあいまいさに自覚的で、極力真実を描こうとはしているものの、意図せずして虚偽を紡いでしまうこともある。いや、意図して嘘をつくことだってある。それすらもあいまいな語りのまま、読者は真実と虚偽の表裏一体性、一意には定まりきらない世界のあり方に向き合うことになる。とどのつまり、本作の語り手は、いわゆる「信頼できない語り手」なのだ。しかし、本作の語りは、並大抵の「信頼できなさ」ではない。
序盤でもっとも重要になってくるのが、エヴァ・キャニングとの出会いの記憶だ。語り手であるインプの記憶には、七月と十一月、それぞれ違った時期にもかかわらず、それぞれでエヴァと初めて出会った記憶が存在している。明らかな矛盾だ。本来、出会いというのは一度きりで、七月に出会ったのならば十一月の記憶が、十一月に出会ったならば七月の記憶が、それぞれ虚偽だということになるはずだ。だが、インプ自身には事実両方の記憶がある。そして、その矛盾を語り手自身も自覚しているがゆえに、苦しみと自己への疑念に苛まれることになる。
はたして何が真実なのか、そしてその混乱をもたらしたエヴァとは何ものなのか? 迷い苦しみながらも謎を追求しようとする語り手とともに、読者もまた、その謎に取り込まれていく。解離した一人称の「わたし」と三人称の「インプ」とが入り乱れる綱渡りのような語りのなか、読者もまたその矛盾に向き合うことになるのだ。
そして、本作のもうひとつの重要なテーマが「ミーム」である。ミームという言葉自体は、リチャード・ドーキンスが著書『利己的な遺伝子』で提唱した概念である。端的に言うと、生物における遺伝子を文化レベルで置き換えたヴァージョンとでもいうべきもので、文化も遺伝子のように世代を越えて広がっていくが、その中核にはミームというある種の因子が存在するとしたのである。本作の語り手インプは、「亡霊」という言葉を使う。彼女は、亡霊が自身に取り憑いているという。曰く、亡霊とは「あまりに強烈な思い出であり、それがゆえに永遠に忘れられず、何年にもわたって繰り返され、時の流れによって消し去られることはないもの」だというのだ。
この亡霊=ミームが、本作の底に通奏し、すべての事柄を支配し、操作していく。たとえば、インプの母や一族に連なる狂気の歴史。幼少期に見た絵画『溺れる少女』の鮮烈な記憶。祖母から教わったおとぎ話、特に「人魚姫」や「赤ずきんちゃん」。それらの記憶がオブセッション、すなわち心の底に刻み込まれた強迫観念となって、インプの精神や行動に影響を与えていく。
そしてさらに重要なのは、ミーム、つまり亡霊は伝染することだ。『溺れる少女』を一八九八年に描いた画家ソルトンストールは、川に取り憑いているという少女を見、その亡霊を追い払うために絵を描いた。そのミームは絵画『溺れる少女』を媒介に、時代を超えてインプに取り憑き、エヴァとの出会いという”偶然”を招くことになるのだ。
本作にはこうした亡霊の伝播による連鎖現象が、数多く描かれる。そのなかには人魚伝説、セイレーン、人狼、現実に起こった凄惨な殺人事件(「ブラック・ダリア事件」)、日本の樹海を自殺の名所に変えてしまった松本清張の小説、集団入水自殺事件を引き起こしたカルト教団らが含まれる。そうした多種多様な伝承がよりあわさり、インプとエヴァとの奇妙な出会いと交合、そして「真実」が描かれるのが本作である。
無論、これは本作『溺れる少女』自体が亡霊というミームの媒介となっていることをも意味する。実際に作中でインプが悪夢の中でアバリンや三人称の「インプ」に責め立てられるように、この物語を紡ぐことで、自分の中にある亡霊を、また別の誰かに広げてしまうことの罪悪もまた、本作のテーマとして扱われている。何かを書く/描く/語ること、すなわち創作行為自体の持つ意味もまた、本作の重要なテーマである。
アルゼンチンの作家、フリオ・コルタサルは、自らの創作は「悪魔祓い」であると書いている。自らのうちに生じたオブセッションを創作として昇華することで作品を作り、同時に自らのオブセッションを治療しているのだと。コルタサルはある意味では正しい。自己治療のあり方としての創作は大いにありうることであろう。だが、そのオブセッションは本当に「消えた」のだろうか? 創作物を通して、またべつの誰かに乗り移るよう誘発しただけではないのか? そして、創作物を読むわれわれもまた、無自覚のうちにだれかのミームを引き継ぎ、まただれかに広める媒介者となっているのではないか?
強迫観念の強迫観念と一蹴することも簡単だろう。そもそも強迫観念とは、本人にとっては不合理だとわかっていても、頭から離れない考えのことだ。そう、不合理だとはわかっているのだ。ここに統合失調症的な幻覚妄想との大きな違いがある。統合失調症的な「妄想」は病識の欠如、すなわち「自分ではおかしいと思っていない」ことがその条件となる。精神医学的にいえば「了解」が不能ということだ。たとえば、集団ストーカーに盗聴されているとか、テレビで自分のことが報じられている、周囲の人びとが自分の悪口を言っている、といった事象はこれに該当する。こうした訴えを口にする人びとは、自らの体験を心から信じている。ゆえに困っているのだが、その体験自体は強固であり、疑いの対象にはならない。しかし、強迫観念はそうではない。自分でもおかしいと思っている、しかし頭から離れない……それが強迫観念なのである。たとえば、自分の家の鍵やガスの元栓をしめたかどうかが気になって、何度も家に戻って確認してしまうひとがいる。作中のインプのように、ある一定の回数、同じ動作を繰り返したかどうか数えていなければどうにも不安を覚えるというひともいる。これらの人びとに共通するのは、いずれもその考え(家の鍵をしめたかどうかが気になる、何回行為をしたか数えなくてはいけない)は、不合理的であるとわかっているということだ。「わかっちゃいるけどやめられない(とめられない)」の境地、それこそが強迫性障害なる病の根底に横たわる病理なのである。
本作はその強迫観念こそがテーマであり、そしてその強迫観念を読者へも植え付けようとする危険な書なのだ……ということもできよう。ヴァージニア・ウルフはホラーについて論じたエッセイ「フィクションの中の超自然的存在」 "The Supernatural in Fiction" のなかで、「それ(注・恐怖をもって読者の肉体を這いまわらせること)をなすためには、作者は方向を転換せねばならない。死者の幽霊によってではなく、自分自身のなかに生きている幽霊によって読者を怖がらせようとしなければならないのだ」と述べているが、本作はその発展的実践といえるかもしれない。
作中レベルでの恐ろしさもさることながら、かのように第四の壁を越え、読者へもその触手を伸ばそうとする本作の底知れない不気味さを構築しているのが、語り手インプの、そして作者キアナンのすばらしい文体(特に第七章を頂点とする、徐々に崩壊していくインプの不穏な精神状態の描写や、以降で描かれる幻想的ヴィジョンは圧巻)であり、多種多様な先行する文学作品への言及である。
先ほども述べた、ホメーロス『オデュッセイア』でオデュッセウスたちの行く手を歌で阻もうとしたセイレーンの伝説を筆頭に、アンデルセンの童話(「人魚姫」)やシャルル・ペローの童話(「赤ずきんちゃん」)、ハーマン・メルヴィル『白鯨』、ルイス・キャロル『不思議の国のアリス』、ジュール・シュペルヴィエル「セーヌ川の名無し女」、シャーリイ・ジャクスン『丘の屋敷』、ヴァージニア・ウルフの遺書、アーシュラ・K・ル=グウィンのエッセイ、エミリー・ディキンソンやエドガー・アラン・ポー、T・S・エリオットの詩、シェイクスピアの演劇など、多数の作品が印象的に登場・引用・示唆される。
特に『不思議の国のアリス』については、作中に登場する「エビのカドリーユおどり」の詞が、中盤、ある出来事をきっかけに精神に変調をきたし出したインプの脳内で強迫的に鳴り響き、作中で起こる出来事とも大きくリンクする形で登場する。前述したように、本作の語り手インプは、日常動作の回数を逐一数えずには気がすまないという強迫観念の一種「数字強迫」 Arithmomania を抱いているのだが、これは「数字強迫」が「『アリス』強迫」(Arith = Alice)になる、という仕掛けである。
もうひとつ、文学的な仕掛けでいけば、本作全体の構成の下敷きになっていると思しいのは、ウラジーミル・ナボコフの自伝『記憶よ、語れ』(邦訳は若島正訳、作品社)である。『記憶よ、語れ』も回想録であり(ちなみに、『記憶よ、語れ』は幾度かの改訂を経ており、オリジナルヴァージョンの原題には A Memoir という副題がつく)、そして回想のなかに語り手による過去の短編が二作挿入される構造――『記憶よ、語れ』では「マドモアゼルO」「初恋」が、『溺れる少女』では「コンクリートの海の少女」「人狼の微笑み」が――は、どうにも類似性を思わせる。作中でも二回ナボコフの名が言及されるほか、登場するインプの主治医である精神科医オグルヴィの趣味が昆虫の標本収集であることも、鱗翅類研究家でもあったナボコフへの目配せなのかもしれない(もっとも、本書の末尾に付された著者コメントには、引用された作品・作家への膨大な言及が含まれているにもかかわらず、ナボコフの名だけはなぜか登場しない。逆に言うと、その不在こそが怪しいと訳者は思う)。
このように、多種多様な引用とほのめかしにまとわりつかれながら、本当に「結論」に至ることができるのか、そもそも「結末」の恣意性に疑問を抱く語り手が紡ぐこの物語は、いかなる終末を迎えるのだろうか……と、読者は作中/作外二重のレベルで注意を惹かれ、ページをめくりつづけることになる。それが、さらなるミームの伝播につながるかもしれない、という恐れを抱きながら。
こうした文学的綱渡りとでもいうべき語りで作者キアナンが描こうとしたもの、それは一意に定まらず、可変し、二重あわせのまま、あいまいに、だが確実に存在はするもののありさまだ。作中の例えにもあるように、光は粒子であり波動である、という二重性を持つ。それと同様に、世界には単純には割り切れず、状態を遷移しつづけるものも世界には溢れている。記憶、人格、ジェンダー、時間……。何を「真実」とするかも、何をどのように、どの視点をもって採用するかによって変わってくる。確たる歴史など存在しない。あらゆるものが相対化されるなかで、では何をよすがに生きていけというのか? そんな世界に「愛」は存在するのか?
文字通り異形たる本作を作り上げた著者キアナンという人物の技量、物語を語るということへの熱意とオブセッションこそが、本当の怪物なのかもしれないと、訳しおわったいま、しみじみと思う。ここまで魂を削った創作というのもそうそうお目にかかれない、というのが正直な思いである。
ホラー小説を書くことをテーマにしたホラーであり、ホラーのもたらす有害性と向き合った作品でもあり、かつ病気や家族といった「呪い」をいかに解くかという物語でもある。他方、超自然的な存在との遭遇、交歓、そして魅入られていく描写は魔術的としかいえないすばらしさだし、各々のモチーフを組み合わせて最後にとんでもない曼荼羅を完成させる構成の巧みさも兼ね備えている。
世界じゅうで評価されたことも納得の、圧倒的な作品であることは間違いない。あとがきから読む派の方々にも(そう、そこのあなただ)、ぜひご一読いただきたい。
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まあ何でしょうか、シャーリイ・ジャクスンとかアンナ・カヴァンとか、その手のものがお好きな方はたまらないと思います。
注意深く読めば、あらゆるレベルで隠喩が対応していることに気付かされますので、ナボコフやジーン・ウルフの読者にとっても読み応えのある作品と言えましょう。
個人的には、こういう奇妙な女性の一人称小説を訳したいとかねてより思っていたので、それが叶ってまことに嬉しかったです。名久井直子さん&雪下まゆさんの手掛けた表紙も素晴らしい。2025年、これが出せただけでもいい年になりました。
来年もばしばしやっていきますので、応援よろしくお願いします。
ひとまずは、1月に出る『SFが読みたい!』の各出版社からの予告欄をチェックだ!!とだけ申し添えておきます。