山上徹也は無罪である。或いは情状酌量で10年刑期で十分である。
白鳥浩のように治安維持ないしは体制護持を、現行刑法の枠内で考えると妥当な判断を間違う。
つまり政治家と私人の非対称性があり世俗道徳および現行法は本質的にこれを抽象化したものにする。
事件発生原因の因果性を阻却し、犯行行為の抽象化による単純殺害を情状酌量で調整しようとするものである。
すなわち、市民社会の私利私闘から公的権力(暴力組織)を疎外し、もって公的権力(暴力組織)の責務である私人間の安寧な生存と自由を保障するとする「近代の基本原理」が全く考慮されていないのである。
国家(安倍)は、その意味で、近代民主社会を否定したのであり、あまつさえ犯罪組織に加担したのであって、その不作為の作為性を無視できないのである。
或いは未必の故意である。
今後もテロが生じることを懸念するのであれば、なぜ私人を国家(政治家)が守れなかったのかーと問うべきである。法哲学の常識であろう。
(追記)
例えば私人が、ある対象に対し、社会や政治に主張をもって、デモや投石をした場合である。
しかも、対象が犯罪組織で野放しにされ、それを警察が取り締まらないとする。
当然私人は解決の示威行為を行い、国家による解決を求めるだろう。
市民社会は私人間の暴力解決は禁じられ、疎外され合意された国家権力に暴力をゆだねている、というのがホッブス以来の国家と市民社会の建付けである。
投石は、刑法としては暴力行為取り締まり規則、あるいは公務執行妨害として裁判にかけられるが、投石被告人は、当該の問題の解決を目指し、政治が見逃したり加担していることへの不満であり告発の意思表示であるのだ。
このことは、法廷では一切問題とされず、討議されず、被告の人間としての全体像を斬り捨てしてしまうのである。
そもそも犯罪は、被告人の全人格においてなされたもののはずではないか。
この点が、近代刑法の基本的な陥穽であり、山上裁判は安部政権下の国家の責務を問わず、単なる銃撃殺害=行為で終始している。