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8・15想起・田中角栄は詐病で軍隊を離脱?ーなぜ大阪人は見抜けるのか?

わが師俳人鈴木六林男(むりお)から聞いた、話も面白かった。
戦場の実際をたまに話してくれたが、初めて聞く話ばかりで驚くことが多かった。
私は、40も過ぎて、戦争の現実を知ってその時自分を恥じた。
このわが先輩保坂さんの田中角栄に通じる話を思い出した。
六林男は、中国戦線へ送られ、翌年フィリピンのバターンコレヒドール戦を闘い、重症を負って帰国。
 「撃たれたりおれに見られておれの骨   六林男」がある。
左腕に機関銃弾を受け、生涯破片を体内に埋め込んだまま生きた。
s19年再び赤紙がきて、身体検査に出向くと、中国戦線で軍医と仲良くなってよく街に繰り出し飲み歩いたその軍医がいた。
六林男は簡単なチャン語ができ街を知っていたので、軍医をよく案内したとのことだ。
この軍医が、お前また赤紙が来たのか、お前は病気じゃもうええと言って徴兵を握り潰してくれたとのことだ。
大阪の部隊は「またも負けたか8連帯」と俗謡に謡われた。
軍上層部から見ると、合理的精神を戦場に持ち込む厄介な大阪連隊とみなされていた。
有名な話にノモンハン事変がある。
ソ連の圧倒的な火器の前に日本軍は損耗率30%(軍隊ではほぼ全滅状態)を越えた完膚なき敗北戦であった。
仙台の23師団は、精神主義でたクソ真面目に戦い、2万人の内7割が戦死した。
大阪8連帯にも出撃命令が下った。
命令直後から、急病人が続出した。
仙台の部隊が4日でノモンハンへ到着したが、8連隊は一週間かけてゆっくり進んだ。
行軍中も落伍者が続出した。
戦場へ到着した時は、既に日ソ停戦協定が結ばれた後だった。
他にも似た話はあって、ヤバイ、不利だと情勢判断すると勝手に戦闘を中止して安全を謀ったり、精神主義のバカの一つ覚えの東北部隊のように無意味な戦死を避ける風があったと、司馬遼太郎も書いている。
明治の皇軍ができた時も大阪人は、天皇のために死ねということを、「迷惑なこっちゃ」と言っていたとか言わなかったとか⋯。
結核で北満から内地に戻った田中角栄詐病を見抜いた大阪人は、知る人ぞ知る生存戦略を、同類として支持したのだった。


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(Facebookより転載)



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