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民主主義の成熟と脆弱性はメダルの裏表ーーいつの時代も「モッブ」を発生させる❣

上手にやりさえすれば、そして十分大きな声で呼びさえすれば、いついかなる時にもプロパガンダであらゆることを成し遂げられるし、どんなことでもすべての人に信じこませることができると思うのが、現代に広くみられる誤謬であるとすれば、モッブの声は民衆の声であり、それゆえ神の声である、そして―クレマンソーが嘲笑したしたように―唯々諾々としてその声の後ろについていくのが指導者の務めであると考えるのが、あの時代の誤謬であった。
この二つの謬見は、モッブは民衆と同一であるとする同一の根本的誤謬に基づいている。(略)
モッブはありとあらゆる階級脱落者から成る。
モッブの中には社会のあらゆる階級が含まれている。モッブはカリカチュア化された民衆であり、それゆえにまたあのようによく民衆と混同されるのである。
民衆が、あらゆる革命において国民に対する主導権を得ようとして闘うとすれば、モッブはあらゆる暴動の際に自分たちを指導しうる強力な人間の後についていくのである。モッブは選ぶことができない。喝采するか投石することしかできない。
 だからモッブの指導者たちは、現代の独裁者たちがそれによってすばらしい成果をあげたあの人民投票による当時すでに求めた。
モッブは自分を締め出した社会と、自分が代表されていない議会を憎んだ。
第三共和政の社会と政治家は、短期間に相次いで起こるスキャンダルや詐欺事件のうちにフランスのモッブ作り出してしまったのである。
大量現象としての失業というものがまだなかった時代において、モッブは主として零落した中間層から成っていた。(略)
モッブは歴史上いかなる時代にも存在したし、また常に重大な危機の時代にあらわれて人間の歴史にいささかの非人間性の味を添え、歴史的闘争にいささかの非歴史的残虐性の味を添えるものだからである。
当時の人々にとって目新しく意外だったのは―しかしわれわれは知りすぎるほど知っているのだがー、モッブの組織であり、モッブの指導者たちに上流社会とエリートが示した英雄崇拝であった。バレスやドーデやモーラスはモッブの極度に<具体的な>獣性を、一般的には形而上学と、特殊的には<抽象的>正義と対決させて、このモッブのうちに彼らは自分たちの<具体的ナショナリズム>の代表者および実行者を見たのである。
モッブの英雄的行為のうちに彼らは活気と根源的な力をみて感嘆したが、この二つは彼らがー民衆ーこの言葉は当時は訓練され組織された労働者階級のことを言ったーのなかに認めえなかったものであり。それゆえに彼らはあのような軽蔑を抱いたのだった。
彼等と彼らのデカダンな唯美主義が世紀末において知的青年のエリートを育成したことは争いえぬ事実であり、それゆえわれわれは彼らのうちに、世界大戦後に不通になってしまったもの、つまりエリートが無頼漢に捧げる英雄崇拝、ありとあらゆる残虐さへの讃嘆、そして最後にルサンチマンもしくは絶望のうえに立つあらゆる階級脱落者の同盟をはじめて見出す。
まだ国民国家の時代であるのに、一切の愛国主義に背を向けたこれらのショーヴィニストの、すでにイデオロギー的には行き着くところまで行き着いて解体した基本的原則の中では、民衆とモッブ、ネイションと人種、国民的感情とショーヴィニストの区別が失われていったのである。

  *

これはハンナ・アレントの「全体主義の起源」の『民衆とモッブ』の一節である。
フランス第三共和政下で、反ユダヤ主義が、ドレフュス事件を契機として席巻していく様子を描いた部分である。
その重要な担い手がいわゆる<モッブ>といわれる層である。
大衆と似て非なる存在。
トランプを押し上げていく層、
小泉、安倍熱狂現象、石丸現象、斉藤知事再選を担った層、
なにか冷や汗のようなものをずっと感じてきた。
そして時折、アレントのこの一節が何度も想起されてしかたなかった。
日本の戦前にドイツの様なファシスト党が成立しなかった要因は、民主主義と資本主義の未成熟が原因であるが、ワイマール民主体制に匹敵する戦後民主主義が中途半端に成長した現代日本にこそ、大衆と区別されるモッブの発生が現実味を帯びているのではなかろうか。
 
 



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