9月22日(日)大阪天満橋の「エル・おおさか」にて太田さんの講演と対話を予定しております。半世紀前の「事件」ですから、若い人は知らないだろう、老人は懐かしい闘いだったでしょう。しかし「狼」の告発した問題は解決したのでしょうか?
【大阪告知】「狼をさがして」(キム・ミレ監督)自主上映決定❣ 9月22日日曜日先着80名限定❣ - 俳愚人 blog (hatenablog.com)
「支援連ニュース」第434号(2024年9月)が発行されました。
そこに以下の文章が掲載されています。8月30日に公表したかったものですが、発行が遅れたので、きょうになりました。8・30 「三菱」 から50年目を迎えて太田昌国【まえがき――去る8月6日、東京・駒込にある東京琉球館で『狼をさがして』の自主上映会が開かれた。15人ほどの、小ぢんまりとした上映会だ。上映後には、私が30分ほど話すことになっていた。スペースの主宰者の意図は、本文で触れるような内容だったので、それに沿った話をした。したがって、そこで話したことを復元すれば、表題に見合った内容になると思う。当日のレジュメに即して、以下に文章化したものをお読みいただきます。】* * * * * *ご覧になった映画「狼をさがして」に描かれている「狼グループ」の彼ら/彼女らが行動していたのは、1945年の日本の敗戦から30年が経とうとしていた1970年代前半です。50年前のことです。50年前に生まれた人は、この事件に出会っていない。60年前に生まれた人は事件当時10歳。幼すぎて事件を知らず、かもしれない。70年前に生まれた人が20歳のころの出来事です。爆弾が使われ、死者が出たという記憶が辛うじて残っているかもしれない。いずれにせよ、思いっきり過去の話です。それから半世紀。50年の歳月は、人びとを冷静にして、過去の重大な出来事を客観的に振り返ることができるようになった。同時に、世界情勢は激変し、アジアにおける政治・経済状況も変わった。日本とアジア諸地域との関係も変わった。日本が、植民地支配と侵略戦争の過去を清算できていないという事実だけが、変わらず継続している。その間にはインターネットも登場し、情報伝達の回路も速度も量も、格段に異なる姿となって現在に至っている。そのような状況の中で、「狼」の行動についても、あとになってからなら、なんとでも言える。正しいことだけを言えるかもしれない。そんな意味での正しいことを言うつもりはない。何が問題なのかを考えたいだけだ。そのきっかけを改めてつくってくれたのが、2020年に制作され、21年に日本でも公開された韓国発の映画、キム・ミレ監督の「狼をさがして」だった。この琉球館で「狼をさがして」を上映するのは4回目という。今回の企画の趣旨を、このスペースを主宰する島袋さんが書いている。この映画の主人公とも言える大道寺君が1982年にチカップ美恵子さんに宛てて書いた手紙に導かれたという。チカップさんは故人ですがアイヌ刺繍家で、とてもよい仕事を遺された。大道寺君とは、北海道釧路の中学時代の同級生だった。なぜ、あの人がこんなことをしたのだろう? チカップさんはそう考えて、反日の救援集会に顔を出すようになった。私自身もそこで彼女と知り合っています。しばらくして彼女は大道寺君と文通を始めた。このチカップさんに宛てて大道寺君がこの手紙を書いたのは1982年12月。逮捕から7年半目、東京高裁での第二審で死刑判決が下された直後のことです。島袋さんは、この手紙を読んで、4回目の上映を企画したという。東アジア反日武装戦線の事件そのものは多面的に考えなければならないことがぎっしりと詰まっている。でも、きょうは、大道寺君がここに述べている論点に絞ります。彼が、自分たちが「日本人民への絶望感と不信感」を持っていたというのはどういうことか。それはどんな結果に繋がったのか。それを知るには、「東アジア反日武装戦線“狼”」の名で出された最初の文書、1974年2月に発行された「腹腹時計」という機関誌に書かれていることを読むのがよいと思います。これは、闘争宣言文書です。サブタイトルが「都市ゲリラ兵士の読本」とあるように、武装闘争を推進するためのものです。そこで、日本の近現代史に関する彼らの認識方法が披瀝されている。その部分は、東アジア反日武装戦線KF部隊(準)=著『反日革命宣言』(風塵社、2019年復刊)に収録されているので、関心をお持ちで未読の方はお読みください。ここまで読むと、大道寺君がチカップさん宛ての手紙で書いていた、「狼」が抱え込んでいた「日本人民への絶望感と不信感」の根拠がわかります。日本の過去と現在の在り方を、アジア諸地域との歴史過程において捉えるその視点は、当時社会に浸透していた一国主義的な「戦後平和主義」讃歌に対する鋭い問題提起を孕むもので、貴重です。その歴史分析に基づいて、「狼」は自分たちが社会運動の中での具体的な付き合い・交流を持たない「植民地人民」や「流民=日雇い労働者」を倫理主義的に「理想化」しました。武装闘争こそが採用しうる唯一の路線であると決めた以上、左翼はもちろん一般の人びととの接触も極端に制限した、徹底した秘密主義の下で活動するしかなかったのです。理想像の裏面には、自らの客観的な位置を知らない(知ろうとしない)日帝本国の労働者・一般市民の存在がある。歴史分析から具体的な行動方針を導き出す際に、武装闘争至上主義的に考えていた「狼」は、意図せずとも後者を「軽視」する隙を持っていたとは言えないだろうか。この問題を考えるうえで、もう一つ参照すべきことがあります。連続企業爆破を行なう以前の1974年に、「狼」は、当時の昭和天皇裕仁が乗るはずの「御召列車」爆破計画を立てました。詳しくは、1975年9月7日付けで、一メンバーが書いた「アジア人民の歴史的な憎悪と怨念は、私たち日帝本国人に、まず天皇ヒロヒトをこそ死刑執行せよ、と要求している」と題する文章がありますから、それをお読みください。【→前掲の本に収録されています】。列車は荒川鉄橋を通るものと考え、鉄橋に時限爆弾を仕掛けるというものでした。結果的に未遂に終わった経緯は、この文章を参照してください。ここでは、「狼」が戦争犯罪人と規定した天皇に対する個人テロは許されるのか、天皇制はそのような形で廃絶に至らせることができるのかという問題が生まれるが、きょうのテーマからは外れますから、別な機会にしましょう。ただ一点のみに触れると、「狼」のメンバーもその後は死刑制度廃止を訴えるようになりますから、そこでは理念的には、「裕仁でも死刑にしない」で、自己変革・自己改造を経て変わってゆく「人間の可変性」に賭けることができるか否かが問われることになります。大事な問題、それは、この作戦を検討する段階で、「荒川鉄橋で列車を狙えば、近くに人家もないから巻き添えの心配もない」という意見が一メンバーから出ていることに関わります(松下竜一=著『狼煙を見よ』に引用されている片岡利明さんの発言)。天皇・皇后の殺害はよいが、近くの人家に住む人びとを巻き添えにはしたくないと、「狼」が考えていたことをこの発言は示しています。後者の慮りは当然のことです。だが、「御召列車」は5両編成で、天皇・皇后に加えて25人の乗務員・警備員・宮内庁関係者が同乗していると推定されています。「御召列車」を爆破・転覆させた場合には、天皇・皇后以外に、最大25人の死者が出る可能性がありました。だが、「狼」がそのことを検討したり、そのような巻き添え死をいかに避けるかを討論したりした形跡がないのです。そんな大量死があり得るかもしれないと考えて、悩み、苦しんだ痕跡が見えないのです。「狼」が1974年8月14日に決行しようとしていた「御召列車」爆破作戦は、自らの意志で中止しました。翌8月15日、日本の敗戦によってその植民地支配から解放された韓国では光復節を祝います。一在日朝鮮人青年が式典会場で、当時の独裁者・朴正煕大統領の殺害を試みました。「狼」は、「実際にはやらなかった我」と「実際にやった彼」との「差」に大きな衝撃を受けて、それに応答する次の行為を焦ります。荒川鉄橋で使う予定であった爆弾を二週間後の三菱重工ビル前に設置した経緯は、ある程度は知られていると思います。それを振り返った大道寺君は、先のチカップさん宛ての手紙でこう書きます。――「僕らは三菱重工への爆破攻撃に、虹作戦(天皇列車爆破計画のこと)用に作り未使用のままになっている爆弾を流用することで、爆弾製造のための煩雑なプロセスを省き、速やかに実行しようとしたのです。(中略)焦りはその作戦計画を杜撰にし、また武装闘争で守るべき原則からの大きな逸脱を結果しました。(中略)爆破闘争に際して、爆弾はその作戦目的、攻撃対象に合せて作られなければなりません。しかしぼくらはまったく逆に、虹作戦の爆弾、すなわち天皇特別列車を荒川鉄橋上で爆破転覆させるために作った爆弾に合せて作戦計画を立てたのです。」結果は、ご存知の通り、悲惨極まりないものでした。片岡さんは言います。「凄惨な結果に打ちのめされていた私は、その敗北感から立ち上がれなかった。『生ける屍』だった。償いのために闘っていた」。大道寺君も、三菱爆破の夜集まった「狼」メンバーは全員「呆然自失という状態だった」と書いています。そして、手紙や文章では「狼」の行動に関する自己批判を度々表明していますが、後年詠むようになった俳句での、自責・悔悟の句には、胸を突かれるものが多いのです。きょう私が話したことは、冒頭で大道寺君の手紙の文章から引用したように、「狼」自身が1970年代半ばに行なった自分自身の言葉と実践を顧みて、後年になって発した言葉に基づいています。社会革命を企図した行為で、多くの人びとを殺め、傷つけてしまった背理は、なぜ起こったのか。50年前の「8・30」以降、この事実と向き合わなかった日は一日とてなかったであろう/ないであろう「狼」の人びとと、外部の私たちが共有できる問題意識はここにあるのだと思います。