「させていただく」という言葉があります。もともとは他力が存在する浄土真宗の近江門徒の言葉で、阿弥陀如来のおかげで、という前提があり、なので「問題なく暮らさせていただいております」というようなのがおそらくの基本の使用例です。応用編で、近江門徒は近江商人であることがあり、なので注文の品を「明日朝いちばんに届けさせていただきます」というのも、決しておかしくありません。注文があってそれに応えることは阿弥陀如来のおかげである、という発想だからです。
もちろん阿弥陀如来からちょっと離れた使われ方もあります。この「させていただく」という言葉はあんがい便利で、かつ、いやらしいことばです。ちゃんと書くと、その「する」意思を持つ人が許可同意を条件にしてるように見せてはいるもののほんとは他人の異論なんかないことを前提としてる言葉でいやらしく、へりくだりつつ丁寧なことばを使い同意を条件にしてるようにもみせてるがゆえに異論があって断れば悪い人間にまつり上げられる可能性を秘めてて云われる側は厄介で、使うほうからすると異論を封じ込めやすいので便利な言葉です。仮に面と向かって云われたら、私は悪い人間になってもいいやという意識があるのでそういう場面では異論があればちゅちょなく異を唱えることが多いです。蛇足ですがもちろん個人的にはまず使いません。
話はいつものように横にすっ飛びます。
毎日新聞には週一で松尾貴史さんのコラムがあって21日付朝刊のその中で、最近は何をするにも「させていただく」が増えていて、誰に何の許可を得たわけでもないのにどうさせていただくのか、と述べていました。ご本人はクソジジイを自覚してると断ったうえで論旨としてはテレビなどのマスメディア等での不自然な表現が横行していることの嘆きのひとつとして出てきたのですが、それらは、深く考えなくても発音できる言葉に逃げ込んでいるのではあるまいか、という仮説を提示していました。
あまりテレビを観ない上にどれほど市井に浸透してるのかは謎なものの、深く考えずに使われて異論封じ込め的な使い方が無くなってゆくようになったら、それは良いことのように思えます。が、言葉を発するときに深く考えなくなってきてるというのが実際にあるのだとすると、次いで気になるのは、それはなぜなのか?です。咄嗟に思いつく仮の解としては、深く考えずに言葉を発しても受容される愛されると思い込んでいる可能性が高いのかな、と。
仮定の話ばかりになっちまったので軌道修正すると、東京で育ち大人になって就職してしょっぱなに大阪にぶち込まれてたとえば冒頭の「させていただく」にひっかかったり、ほかにも言葉に苦労したほうからすると、深く考えずに言葉を発するいまの気軽さが羨ましいです。と同時に、その発言が深く考えずに発されたものなのかどうかのか?を考えねばならなくなった点で、よりめんどくさくなったな…感もあったり。
つくづく思うのですが日本語って難しいな、と(異論は認める)。