飽き、というのは辞書を引くとまずイヤになるというというのが目に飛び込みますが、続けて満ち足りたという意味合いでも使われることが出てきます。仮にこの二つが関連しているとすると、ずっと同じものを食べ場合によっては満ち足りたと感じたときそのうち飽きがくることはおかしくないはず、です。
前にも書いたことがあるのですが、山梨には酒まんじゅうという米と米麹を合わせて発酵させたものを小麦粉主体の生地に練り込んで餡を包んだ饅頭があります。生地にほのかな酸味があり、かつ、あんは甘さ控えめです。叔父が子がいなかったせいか山梨土産として私宛に義務教育の頃にはよく持ってきてくれてたものの1回あたり10個単位で、それが年に複数回あり、ので、続けて酒まんじゅうを食べることがありました。最初のうちは美味しいと思えても10個あると・年に複数回あると・それが複数年続くとやはり飽きが来るもので、叔父が酒まんじゅうを持ってこなくなってからは(書きにくいのですが)正直「あ、解放された」と感じていました。なお山梨のまんじゅう屋さんの名誉のために書いておくといまでも山梨県東部を中心に酒まんじゅうは食べられ続け愛され続けています。万人受けするかどうかと云われると躊躇するものの、しかしたぶん10人中9人はきっと気に入るはずです。
話はいつものように横にすっ飛びます。
勤務先とは関係なく大人になって山梨方面に行くようになり、休みを取って昨日も日帰りで行っていて、訪問先で「わざわざ来てくれてありがとう」と酒まんじゅうを貰いました。悪人になれなくて「要らないです」とも云えず、そしてもちろん上記のことも云えませんから「ありがとうございます」と引き取っています。
今秋は10個+2個で、当座10個のほうを開封しました。
同じ味だから飽き、そして飽きるとイヤになるのではないか?と仮説を立て、去年はそのまま食べたほかに、トースターで焼いて醤油を垂らす、というのと、フライパンにバターと落としてそこに酒まんじゅうを入れ→蓋をして焼く、ということをしています。今年はそれらのほかに、蜂蜜と味噌と酒と砂糖をあわせてタレを作って塗って上州の焼きまんじゅうのように、などと帰りの上り高尾行きで考えていたのですがどんどん本来の酒まんじゅうの姿から遠ざかってる感は否めません。
酒まんじゅうを前になぜこんなに真剣なってるのかと云われると詰まるのですが、飽きというものは乗り越えられるのではないか?と思いたいところが根っこにあります。工夫しながら消化したいな、と。
