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「好きな小説」もしくは「好きな本」について

その小説がどういう意図で書かれたかは文学部卒ではないからわからないものの、高校時代に深くは考えずに読んだ小説がのちのちおのれに深く影響するということがありました。なんべんか引用していますが開高健さんの『玉、砕ける』がそれで

白か黒か。右か左か。有か無か。あれかこれか。どちらか一つを選べ。選ばなければ殺す。しかも沈黙していることはならぬといわれて、どちらも選びたくなかった場合、どういって切りぬけたらよいかという問題である。二つの椅子があってどちらかにすわるがいい。どちらにすわってもいいが、二つの椅子のあいだにたつことはならぬというわけである。しかも相手は二つの椅子があるとほのめかしてはいるけれど、はじめから一つの椅子にすわることしか期待していない気配であって、もう一つの椅子を選んだらとたんに『シャアパ(殺せ)!』、『ターパ(打て)!』、『タータオ(打倒)!』と叫びだすとわかっている。こんな場合にどちらの椅子にもすわらずに、しかも少くともその場だけは相手を満足させる返答をしてまぬがれるとしたら、どんな返答をしたらいいのだろうか。史上にそういう例があるのではないだろうか。数千年間の治乱興亡にみちみちた中国史には、きっと何か、もだえぬいたあげく英知を発揮したものがいるのではないか。

(「ロマネ・コンティ・1935年」より『玉、砕ける』P215・開高健・文春文庫・1981)

英国統治下の香港で主人公は現地の友人に上記のような問いかけをします。その友人はその問いに直接は答えぬものの小説家の老舎に革命後の知識人の生活について老舎に問うたとき、老舎はそれに答えず、重慶だったか成都だったかの大きな鉄釜を使った田舎料理について3時間にわたり、汁はどんな味か・材料はなにか・どんな泡がたつか・一人当たり何杯くらい食べられるものなのか、などを詳細かつ生彩に模写した、という話をします。きわめて暗示的であった旨が書かれてるのですが、小説の最後では老舎の死について触れられています。

最初に読んだときには純粋に傍観者として上記の答えはなにがベストなのだろうか?などと考えていたのですが、その後童貞を失い(よい子のみんなはわかんなくていいのですがうしろの)処女を失いいわゆるセクシャルマイノリティと分類される側に立つことを自覚するようになると、上記のようなシビアな状況にに置かれてどちらかの椅子に座れと言われたことはないものの、選択肢が2つあるように見えてそのうちの1つを選ぶような空気に身に覚えがあって、我がことのように考えるようになっています。老舎の鉄釜に倣って、しんどい問いに直面したときは無理に問いに答えることを考えずなにか別のものを描写してやりすごすというかそちらの方が大事なのではないかとか、でも沈黙せず答えないという態度は結果的に銃殺されてしまうかもですがその間は生き残ることができるよなとか、考え始めると思考は散らかります。読んでから30年以上を経過していますがいまだ妥当な解は見いだせていません。

話はいつものように横にすっ飛びます。

ここ4年くらいずっと追い続けてるのがいわゆるライトノベルズに分類される『青春ブタ野郎シリーズ』で、そのなかにプチデビルと称される古賀朋絵という女子高生がでてきます。藤沢で孤独をおそれ福岡出身という出自をひたすら隠しなるべく周囲に合わせ、それが予想外の事態を引き起こすのですが詳細は原作を読んでいただくとして、その古賀さんは

孤独が嫌なのではなく、みんなの輪から外れてる自分を、みんなに見られるのが嫌

(「青春ブタ野郎はプチデビル後輩の夢を見ない」P110・鴨志田一電撃文庫2014)

という告白をします。上記の問題にも若干関連するのですが、どちらかの椅子を選んでシャアパ!という号令とともに撃ち抜かれない代わりに「あいつひとりなんだぜ」という蔑視に撃ち抜かれるのがイヤ、というのはこれを書いてるのはくたびれた中年ですがひどくよく理解でき、大人なのにおのれの中の子供っぽさに直面しています。他にも青ブタは個人的によく理解できる主題がいくつかあって、新刊が出るたびに購入しています。

はてなの編集画面には「好きな小説を教えて」というのがここしばらくずっと出ています。咄嗟に思いついたのは上記の2冊で、前者はいまのおのれの数パーセントを形成し、後者は自覚していなかった隠れていたおのれの数パーセントを暴き出した本で、内容に関していくらでも書けるとても大事な本であるのですが英語で表現するならtreasureとinvolved inに近く、狭義の意味での「好き」かというと厳密に違うような気がしてなりません。はてな今週のお題「好きな小説」なのですが、好きというのを正確に書くのは難しいような気が。

最後にくだらないことを。

本棚に本を並べていて適当に一冊とってカバンの中に入れる、ということをたまにしちまいます。少し前に通院先の眼科の待ち時間用に何も考えずに森見登見彦さんの『有頂天家族』を入れていました。主人公は狸で他に出てくるのは天狗と人間で(←この説明だと何を言ってるのかわからないと思うのですが詳細は本作をお読みください)、最初はとっつきにくいのですが、そのうちぐいぐい引き込まれています。それどころか

「信じてはいけない、樋口一葉というのは、雨樋の端に枯れ葉が一枚引っかかってるということさ。秋の寂しさを表した四文字熟語だ」

「さすがだよ、兄さん。僕もおおかたは分かっていたんだ」

(「有頂天家族」P86・森見登美彦幻冬舎文庫・2010)

という部分で必死に笑いを堪えていました(調剤薬局の長椅子で堪えている中年男性をご想像ください)。いっぺん読んでいるにもかかわらず読みながら「この小説、いいなあ…」などと思っちまっています。primitiveな好きという点での好きな小説はいまのところ『有頂天家族』になるのですが…ってここまで書いて

「なるほど、それは僕にしては珍しく興味があるよ。好きな本っていうのは、その人の人となりを表すと思ってるから。君みたいな人間がどういう本が好きなのか気になる。で、なんなのその本は?」

(「君の膵臓を食べたい」P163住野よる双葉文庫・2017)

という志賀春樹説をふと思い出しています。仮にこの志賀説が正しいとすると、根っこのところでわたしは「ぶっとんだ小説」が好きでぶっとんだものを好む人間、ということになります。志賀説を否定したいのですが、森見さんの他の作品も好きですし、青ブタもどちらかというとぶっとんだ作品で、否定する材料を持ちません。読書家を気取りたいわけではないのでそれはそれで構わないのですが、書きながら知らぬおのれを発見したような気が。




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