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つれづれ18 人間は考える葦である

今日も眠れないのでブログを書いてみましょう。

 

はじめに

パンセという有名な著作がありますね。パスカルの本です。

クレオパトラの鼻がもう少し低かったら、とか人間は考える葦であるとかの言葉で有名な本です。

しかし、この著作が未完であり、実はキリスト教護教論として構想されていた事を知っている人は意外にも少ないのではないでしょうか。

最近は研究も進み、パスカルのノートなどの資料も見つかって昔よりも全体像が見えやすくなってきています。

 

自由意志と信仰について

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その中でも肝なのは、自由意志についての考え方についてです。

パスカルの父は、パスカルに信仰は理性に従属するものではなく、理性が信仰に従うべきだという事を強く説いたそうです。その影響からか、パスカルは自由意志について懐疑的な考えを持っていたようですね。詳しく書くと長くなってしまうので割愛しますが、キリスト教カトリックの中でもイエズス会のような自由意志を重視する考えと、ジャンセニズムに見られるような人間の意志に懐疑的な考えが対立していたようです。

パスカルアウグスティヌスの神学を踏まえ、人間は全的に堕落していて自らの力では救われる事はできないと考えていたようです。そこで神の救済が必要であり、キリスト教の信仰が必要になってくるという考えですね。

 

私はキリスト教に懐疑的ですが、自由意志で幸福になれるという主張を見ると首を傾げざるを得ません。病気や障害で自由に動けない人、自分の意志ではなく、勝手に生み出される赤ん坊、そして紛争地域に生まれる人は選んだ訳ではないですよね。

他にも遺伝とか環境とか様々な事柄が人間の生を制約していますし、人間の欲求も意志よりも前に存在します。こう考えてみると、人間は能動的に選び取って生きているというよりも何か大きなものに生かされていると考える方がしっくりくる気もします。

人間は考える葦のような存在だという事です。

 

人間は人生を選択する事はできない。むしろ運命的なものを受け入れる事にこそ信仰があるのだと言われた方が私は納得できる気がします。制約されている生において、できるだけ善くなるように人間には選択の必要があるのだという主張を全て棄却するのは微妙ですが、かといって、あらゆる選択に責任があり、人間は自由に選んで幸福になるべきだし、そうではない人間は自分の選択の責任の結果、不幸になっているのだと言われたら怒りを覚えますね。自己責任論とも通じるものがあります。自業自得という言葉がありますが、罪がない人間が、少なくともそう見える人間が釣り合わない酷い目に遭う事は沢山あると思います。

 

私はキリストの呼び声とかは聞こえないですし、ハイデガーの言うような存在の呼び声も聞こえませんが、もし信仰を持つならば、どう考えてもパスカルのような考えを採用します。自由意志を強調した考えは信仰とは相容れないと思いますし、人間のコントロールできる範囲を広く見積もり過ぎています。逆に言えばそういう人は今まで恵まれてきたのではないかと勘繰ってしまいます。

 

そもそも論として

もしも全知全能の神がいるのであれば、その神は全ての因果と結末を知っている筈ですよね。ですから、全ては決められていると考えるのが自然な筈です。そこで自由意志を採用する事に私は非常に違和感を覚えます。信仰的な決定論と理性中心主義的な非決定論を整合させようとしてカルヴァンの二重予定説のようなものが生み出されましたが、人間が神の領域について語る事はできない筈です。人間は全知でも全能でもないので。こういう事を考え、書く事自体が愚かな事だという批判さえあり得ると思います。

運命について人間は語り得ない。これは確かそうです。

では人間は自由なのでしょうか?いえ、そうではないでしょう。神を信じるなら、人間は神によって着地点が決められていると考えるべきでしょう。キリスト教的価値観おいては人が選択できるのは神に従うか、拒むか、でしかないのではないでしょうか。

信仰と、自由意志というものを両立させようとすると壊滅的な矛盾が生じる。これが多くの哲学者たちが主張している事なのではないでしょうか。

パスカルが自由意志を批判したのは、決して自由を否定していたからではないでしょう。むしろ彼らは信仰を持つ自由を主張していたと思います。では、信仰を捨てる自由や信仰しない自由はあるのでしょうか。あるのだと思いますね。そして、その報いを自分が受けるという事こそが責任なのだと思います。

そして神は全能なのに、何故人間に自由を与え、自分の意にそまない行動を取る事を許したのかという事にこそ、神学の本当の意義があるのだと思います。確か、フィヒテが、人間は悪を行う自由があるという事を主張して大いに批判されたのですが、これはある意味では全く正しく、人間は善なるものに従わない自由が与えられているのだと思います。だから、善を選択して生きる事に価値が出てくるのです。さっきと言っている事が矛盾するようですが、この場合、人間に許されているのは神に従う自由だけであるという事です。

もしも、全ての人間が善なる存在で間違いがないのだとしたら、そこには誰もいないのと同じでしょう。全てが神の操り人形になります。そう考えると人間の本質とは、絶対的な存在を拒絶する自由が与えられているという事なのではないかと思います。

 

結論

人間が自由に様々な事柄を選択できるという考えは近代では自然に認められています。そうでないと人に道徳的責任や法的責任を問う事ができないからですね。ここに疑問を抱かない人も多いです。確かに、人間は日々、様々な事を選び取っているように見えます。例えば、何かを食べたいという欲求があり、それを満たす為に、何かを選択して洋食にしようか和食にしようかなどと考えます。ですが、ちょっと待って下さい。人間は実は、欲求を満たす正解を求めているのではないでしょうか。

こう考えると、人間は欲求に従属しています。人間が欲求を持って生まれてくるのは人間の意志でしょうか?違いますね。理性と呼ばれる人間の思考の機能は、人間が破滅しないように欲求を調整する役割を持っていますが、欲求を超越しているのでしょうか?いいえ、そんな事はないでしょう。

私が考えるに人間は何かを求めるように作られていて、それを作ったのを神と呼ぶならば辻褄が合います。人間は、欲求の乗り物です。本質的には、人間とは欲求、欲望ではないかと思います。欲求、欲望が人間を動かし、神を作ったのも人間だと考える事もできますし、逆に、その欲求を持つ人間が何故生まれたのか?その根本原因は何かと問うて、それを神と呼ぶのならば、神はいるのでしょう。どう考えるかは人間に委ねられています。

しかし、一つ言える事は、その問いもまた、人間の欲求から生まれたという事です。ちょうど頭の後ろを見る事はできないように、人間は前方にしか視野がない訳ですが、哲学とは鏡のようなものであり、道具を通して裏側を垣間見ようとするのが人情なのかも知れません。

そろそろ眠くなってきました。詳しく検討すれば齟齬があり、襤褸が出てくるかも知れませんが、今日はこの辺りにしておきましょう。それでは、おやすみなさい。良い夢が見られますように。




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