結論から言えば、私は人間が何かを選択できるというのは一種の錯覚であると思っている。これは(硬い)決定論という事ではないが、広い意味では決定論的ではあるので柔らかい決定論という言葉で表現される考えの範疇だと思う。柔らかい決定論などと言うとふざけているように聞こえるかも知れないが、これは正式な名称である。この考えは哲学者だとホッブズなどが採用している。
人間は、ある程度の範囲内では外部の制約なしに行動する事ができると思う。尤も、人間は無意識に支配されているとか、行動する前に脳が何かを決定しているというような、良く引用される受動意識仮説とかそういう事を踏まえると、人間の意志と言うのも怪しくはなってくるが。自由意志という言葉の定義が曖昧だと私は思う。
完全な自由は人間には存在しない。せいぜい選択の自由しかない。しかも、それはある程度以上は外部からの制約を受ける。活動の動機も人間の意志とは別個の欲動による影響があるだろうし、純粋に自由に(自由という言葉が曲者だ。どの範囲での自由なのか?)意志するという事が私には殆ど不可能に思える。
金曜日のTwitterの哲学スペースで、自由意志と幸福についての話がされた。それを受けて私が思った事を書いておく。
スペース主はキリスト教徒である。尤も、彼はキリスト教の主張にただただ従って物を語る訳ではなく、神を信じてはいるけれどもそれとは別に哲学を通して物事を捉え、語る事を目指しているようだ。カントやドゥルーズ、セネカ、エピクテトスやハイデガーなどの哲学者が過去に取り上げられた。
自由意志を否定したいならば、人間が制約されているという根拠を挙げれば良い。これは簡単で、遺伝や環境や他の人間の干渉などを挙げる事ができる。人間の生命活動も欲求に支配されていると見る事もできるだろう。又、社会の動きを一つの大きな流れとして見る事もできる。この巨大なうねりは全体的には混沌としているが、個々人の活動を容易に押しつぶす事ができる程に大きく、何かのきっかけでこの流れに逆らえば死んでしまう事もあるだろう。往年の名曲に川の流れのようにという歌があるが、ああいうイメージを私は人生に抱いている。
このように、人間が意志するという事は何らかの形で制約を受けるという点では特に意見は分かれないと思う。問題は、主に道徳的責任における意志の自由だ。もし、全てが決まっていて人間には意志を働かせて悪い事態を回避する事ができないとしたら刑罰の根拠はなくなる。だから、私は人間が最悪の事態を回避する事ができないとは思わない。人は罪を犯さないように行動する事がある程度は可能だ。
だが、人間が善い選択を積み重ねて幸福になる事ができるという言説にはかなり胡散臭さを感じてしまう。善い選択を積み重ねると幸福になれるという主張に対する反証はすぐに思いつく。
というのも、例えばホロコーストにおいて、ユダヤ人はキリスト教に改宗した人もいたようだが、そうした人も含めて強制収容所送りになりガス室で殺されたからである。ここから幾つかの事が分かる。一つは、キリスト教の神は人を現世的な意味では救ってくれないという事である。来世の約束はあるかも知れないが、信仰を持っても死ぬ場合は死ぬ。二つ目は、ナチスは信条を無視して人種で人を殺害したという事である。このように社会がある属性を悪であると決めた場合、できるのは国外逃亡位のもので、この方法も運よく誰かの助けがなければできない。例えば、杉原千畝のような人物がいて、ビザを発給して外国への逃亡を援助してくれなければ、やはり殺されるだろうという事だ。人間は生まれを選べない。ユダヤ人の中にも道徳的に正しく生きようとしていた人は大勢いた筈である。そして、そういう傾向を持っている人だからこそ、キリスト教徒に改宗した可能性もある。それでも、当時の社会はそういう人を殺害した。
このように、信仰や行動で人間は救われない事が明らかである。そもそも聖書にはヨブ記という信仰を持っていたのに酷い目に遭う人の話がある。キリストその人も、又、殉教者ステパノや洗礼者ヨハネもあまり良い死に方はしていないように見える。
キリスト教の信仰は現世での幸福を必ずしも約束してくれない。現代でもガザ地区に生まれたクリスチャンは空爆されている。
善く生きれば、幸福になれる。悪い人間は不幸になる。こういうのを公正世界仮説とか公正世界信念と呼ぶ。これは社会学の用語だが、正しく生きても酷い目に遭う人はいるし、悪い事をしてもそこそこ幸せに暮らしている人もいる。そもそも聖書にはダビデという王が出てくる。彼は若い頃に偉業を成し遂げるが、自分の部下の妻を寝取り、その部下を嘘の命令で死地に送っている。それでもダビデは聖書の中では罪を悔い改めたので赦され、偉大な王として描写されている。(そもそもユダヤの教えでは王を立てる事が好ましくないと言われていたようではあるが)
不幸に襲われた人に、あなたは悪い事をしたのだという人がいたりする。これはキリスト教に限らず、仏教にも前世の罪業という考えがあるが、特に科学的な根拠はない。
人間は善く生きても悪く生きても何らかの理由(それが運命なのか、それとも偶然なのかは神のみぞ知る訳だが…これは信仰がどうのというのではなく、人間存在は神の視座を持つ事ができないという意味である)で急に酷い目に遭って死ぬ可能性はある。東日本大震災で被災した人が全員罪人だったとでも言うのだろうか?
人は何かを選ぶ事ができる。しかし、ここには錯覚が含まれている。私達は結果を選ぶ事はできないのかも知れない。科学的方法では、条件を揃えれば実験は再現する。しかし、人間の世界では、そんなに簡単にいかない。同じ条件で同じように行動するのは殆ど不可能である。
カントが霊魂不滅の要請という現代人には理解しがたい事を言ったのも、ヤスパースのようなタイプの哲学者が、限界状況において人が神を見出すという事を主張したのも、人が善く(そもそも究極善について人は知り得るのか?この時点で不可解である)行動しても、善い結果が導かれるかは分からないからではないか。これはヒュームが主張しそうな事である。私もそう思う。人間は因果という事を理解している訳ではない。人が知っているのはごくごく限られた範囲の安定した状況における、現象の再現性という所だ。
正しく行動しても、人は死ぬかも知れない。だから天国の報いを信じろという事と、霊魂不滅が要請されるという事は殆ど同じ事を言っているように見える。そしてカントは死ぬかも知れないが、人間は道徳法則に従って死ぬべきだと言っているように読める。
私は死んでも正しい事をすべきだと断言するのはちょっと避けたい。というのも生き残る事が正しいかも知れず、正しいという事がどの程度の次元で証明可能かもあやふやだからである。と言っても、誰かが車に轢かれそうになっている時には、そんな悠長な事は言っていれないので助けに飛び込むかも知れない。哲学にはトロッコ問題とか、カルネアデスの板のジレンマの逸話とか、様々なこれに類する話があるが、明確な答えというものは簡単には出せないだろう。
誰かが死にそうになっている時、自分の身を犠牲にしてでも助けられるか?
カントなら助けろというかも知れないし、キリスト教の殉教者もそう言いそうだ。
そしてそういう行動が大河の一滴のように、大きな流れを変えるかも知れない。
しかし、それは容易な事ではない。私は以上の理由から人間の自由という事に大変懐疑的な見解を持っている。逆に言えば、自由はとても大切で全ての人がある程度、自由であるべきだとも思っている。最初に結論を書いたが、人間が自由に幸福を選択できるという事には大いなる錯覚が含まれていると私は思う。むしろ、自由とは、人間が何がしかの点で運命を受け入れるという点にあるのではないかとさえ思えてくる。これこそが信仰ではないだろうか。