芸術家であるマルセル・デュシャンはインタビューにおいて、神は人間の発明だと述べています。
彼は、ウィーンの論理実証主義に興味を持って調べたようです。論理実証主義とはウィーン学団というグループによって提唱された考えです。
簡単に言うとこのようなものです。以下、AIによる要約ですが、大体正しいと思うので載せます。
主な特徴
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意味の検証可能性: ある文が有意味であるためには、経験によって検証可能であるべきだと主張します。検証不可能な形而上学的主張は「無意味」とされます。
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論理と数学の役割: 論理と数学は経験によって検証されるわけではないが、科学的知識を体系化するための重要な道具と見なされます。
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科学的方法の強調: 科学的手法に基づく知識獲得を重視し、観察と実験を通じて知識を得ることを推奨します。
以上のこのような考えは、ある一人の哲学者によって書かれた書籍の影響を受けたものです。それがルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインによる論理哲学論考です。
しかし、ウィトゲンシュタインは別に形而上学を無意味だと思っていた訳ではないようです。又、形而上的存在である、宗教的信仰の対象である神を信じていた節があります。
ウィトゲンシュタインが論理哲学論考を書いたのは若い頃なので、考え方が変わっていた事はあると思いますが、それを抜きにしても信仰は持っていたようです。彼の思想は前期と後期に大別され、後期の思想は哲学探究という書籍にその一端を見る事ができます。又、信仰に関しては彼が暗号で記していた、後に解読された日記に記されています。
現代でも、論理実証主義者のような考えをする人は多いですね。科学が全てだと思っているような人達です。又、この時代に活躍した哲学者であるカール・ポパーの反証主義の影響も強いと思います。反証主義は以下のこのような概念です。これもAIの要約です。
主な特徴
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反証可能性: 科学的理論は、観察や実験を通じて反証(つまり、誤りを示すこと)が可能であるべきだと主張します。理論が反証不可能であれば、それは科学的ではないとされます。
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仮説検証のプロセス: 科学者は理論を立て、それを実験や観察によって反証しようと試みます。反証されなければ、その理論は一時的に受け入れられますが、将来的に反証される可能性は常に残ります。
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知識の成長: 反証主義は、科学的知識が試行錯誤と誤りの訂正を通じて進化していく過程を強調します。新しいデータや発見が理論に反する場合、その理論は修正されるか、廃棄されるべきとされます。
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科学と非科学の区別: 反証主義は、科学的理論と非科学的理論(形而上学、宗教、占いなど)を区別する基準として反証可能性を用います。
以上。
論理実証主義と、反証主義には通じる部分があります。それは神のような形而上的存在を排除する事です。
この二つの思想には実際的問題があります。それは、倫理などの問題を考える際に、倫理の「法則」を実験によって確証する事が困難である事です。科学の基礎には実験によって確かめられた訳ではないが、自明であると見做されている言わば公理のような概念があると言われており、論理実証主義や反証主義は定義、制約として強すぎるという事です。以下、AIの要約です。
論理実証主義と倫理の問題
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検証可能性の欠如: 倫理的命題や価値判断は経験によって検証できないため、論理実証主義の枠組みでは「無意味」とされることが多いです。たとえば、「盗むことは悪い」という主張は経験的に検証できないため、論理実証主義に基づくと価値がないと見なされる可能性があります。
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倫理的主張の非科学性: 論理実証主義は科学的知識に重点を置くため、倫理的主張は科学の領域外と見なされ、哲学的な議論から除外されることがあります。
反証主義と倫理の問題
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反証可能性の困難: 倫理的命題は通常、反証することが難しいです。たとえば、「人は他者に優しくあるべき」という命題は観察や実験を通じて誤りを示すことが難しいため、反証主義の枠組みで評価するのは困難です。
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価値判断の扱い: 反証主義は科学的理論の成長と修正を強調しますが、倫理的価値判断は科学的理論と異なり、恒常的な反証可能性の枠組みで扱うことができないため、反証主義のアプローチでは限界があります。
共通する問題
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主観性と普遍性の対立: 倫理的主張はしばしば主観的であり、文化や個人の価値観に依存しますが、論理実証主義と反証主義は客観性と普遍性を重視します。この対立が倫理的議論において問題となることがあります。
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科学と倫理のギャップ: 両者とも科学的方法論に基づいていますが、倫理的問題は科学的アプローチでは解決できないことが多いです。たとえば、科学的データは倫理的価値判断を直接導くことはできません。
以上。
若干、ごちゃ付いていますが、これに関連した内容について過去に記事を書いています。リンクは以下です。
倫理を取り扱う際に問題になるのは利害です。
結局、最終的に公平とか完全絶対正義を決める事が人間の能力を超えているので、それを明文化できないという問題に行き当たるように思います。
そこで人は暫定的に、物事を法律で調整し、人々が大体まあまあ生きていけるようにしようという暫定解の中で生きているように思います。
神という尺度を導入すれば人間は楽になれるのかも知れません。
しかし、人間は全能の神ではないので、神の名の元に正義を決める事はむしろ、神を僭称する冒涜ではないかという考えが成り立ちそうです。
神の属性を肯定的に書き出すのではなく、否定によって明らかにするという否定神学的な言い方で言えば、全能ではないものは神(セム系一神教的な唯一神)ではない、故に人間は神ではないという事が成り立ちます。
人は神を信じていないから神を後ろ盾にするような事をしないのではなく、無意識的な領域では恐れを抱いているから、神を僭称する事になるような仕組みを意識的に排除しているのかも知れませんね。
神は人間の発明だというのは一面的には真実だと思います。そうする事で分かりやすく、これが絶対に正しいルールなのだと主張する事が可能です。
しかし、現代では神の存在が疑われていて、人々のやり口によってさんざん手あかがついているので、神の代理人を名乗っても頭のおかしい人だと思われるのが落ちです。
又、宗教組織のトップになるには熾烈な政治的闘争を経ていかなければならず、これも結局、政治家としてのし上がるのに似ています。
宗教を信じている知人にこういう事を聞いてみた事があります。すると、彼らは神は人間が作ったのではなく、神が人間を作ったのだと言います。
では、何故、神はこの世界に悪を生み出したのでしょうか。聖書でも神が反逆した天使である悪魔を生み出した事になっています。神は全能で予知可能なのに何故?
こういうのはフィクションだと言ってしまえばそれまでなのですが、なかなかに不思議です。彼らの世界では、人間という存在が何故か、地上にいるという現存在の不思議さを神の存在で回答している訳ですよね。もし、そうしない場合、我々のような普通の現代人は、何故か知らないがこの世に存在してしまっているという事を受け入れなければいけなくなります。実存主義者サルトルの嘔吐とかの不条理文学は、こういう事を書いている訳です。
精神医学でも人間の生きる意義について色々と論じられます。
生きる意味はないと言えば自由ではありますが、人間が果たしてそのような自由に耐えられるのでしょうか。自由からの逃走という言葉も思い出されますね。
人間には何か「大きな物語」が必要なのでしょうか。
リオタールではないですが、大きな物語が解体された現代において、ポストトゥルースの時代が到来し、又、人々は散り散りになって、さながらバベルの塔の崩壊の混乱のように混迷の時代の中を生きていく事になるのでしょうか…
強権的で、人間の基本的人権を抑圧する神の到来は勘弁願いたいものですが、人々の希望になり得る真の存在、全ての人の幸福を願う善なる神のようなものなら、信じてもいいかなと少しだけ思います。