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つれづれ11 最近考えている事 無知の自覚

今日も寝付けないのでブログを書いてみましょう。

最近、改めて良く考えている事をこの際に整理してみます。

私は不可知論者に近い考えを持っています。

不可知論者とは主に全能の神という存在について、いるかも分からないし、いないかも知れない、確証を持つ方法がないのでどちらとも言えないと考える立場です。

キリスト教ユダヤ教イスラム教は神の存在を前提しているので不可知論ではありません。

不可知論は無神論とも違います。無神論は神というのは人間が作り出した発明品に過ぎず、実際は存在しないと考える立場の事です。日本人も結構、この考えを前提としている人が多いのではないでしょうか。

 

しかし、冷静に物事を考えてみると、私達が知り得る事は限りがあり、知らない事が膨大にある事に気付かされますよね。してみると、神というのも気付いていないだけで実際には存在するかも分かりません。ですが、それを確認する術がないので否定も肯定もできないというのが不可知論です。

私は不可知論が知的に誠実であると思うので、この立場を採っています。

もしも神は存在するという人がいたら、その人は神を証明する必要があります。論述で証明できなくても良いですが、どこそこに存在すると実際に示してもらう必要があり、誰かの主観的な主張ではなくて客観的な根拠を出してもらう必要があります。

そして、今まで有史以来、様々な人がいましたが、実際に神を証明した人、その存在を明らかに示した人はいないと多くの人が考えています。

口でこれこれこうですよと言っても、実はそれは錯覚であったり論述に穴があったりします。目でも見えないし、触れる事もできないし、五感で感じられないものも駄目です。第六感で感じ取るのだというのも、第六感とはどういうものなのかを明示できないので駄目です。

神の存在証明には大まかに言って4つ、あるいは3つの類型があるとされます。これはカントという哲学者が示しました。ですが、この全てに何らかの穴があります。

 

不可知論は、神の存在を信じ信仰する事を否定しません。しかし、存在を明示できないので、信じないといけないという強制も成り立ちません。人それぞれ様々な立場を採ってもよいという立場です。これは現実を正確に反映しているように思います。

もしも、神の存在が確認可能な「事実」であれば信じない人は、事実を否認している事になりますので。しかし、実際はそうなっていません。

 

キリストと呼ばれるイエス誕生以前にソクラテスという哲学者の祖と言われる人がいました。彼によれば、神は存在し、信じるべきであるという事になります。これはプラトンの著作に登場するソクラテスの弁ですが、では、ソクラテスは神の存在を証明したのでしょうか。

いえ、ソクラテスは一種独特な神観を持っており、それによると当時のギリシャ神話的な多神教を信じていないように見えたらしいです。実際に、神を信じないという罪状で訴えられています。しかし、ソクラテス自身によれば信仰は持っていたそうです。

その神は触れる事も見る事もできず、人間が沈思黙考する時に何か答えを言うような存在だったらしいです。特に何か道を間違えるような事があると警告するような存在だったらしいです。

ソクラテスアポロン神殿で神託を巫女に神託を受けたと信じていました。それによればソクラテスは最も賢い人なのでした。しかし、ソクラテス自身はそう思っていなかった。神殿には汝自身を知れ、とも書かれていました。そこでソクラテスのすごい所は、有名で偉いとされる人々を中心に、何が本当に大切な事なのか真理は何なのか聞き回ったというのです。その結果、誰も何か究極的な存在については明確に答える事ができず、ソクラテスは、この人たちは知りもしないのに知ったふりをしているが、知らないという事を自覚しているぶん、自分の方がましだと思うようになったらしいです。

ソクラテスは真理を知る為ならお金を惜しむなと言って貧乏で良いと考えていたようですし、法律を守る事に命を賭け、死んでも悪い事はしないと考えてもいたようです。又、若者にも自分の考えを広め、何が正しいのかを一緒に考えようとしました。その結果、家庭は大変で妻のクサンティッペからはしょっちゅう怒られていたようですね。ちょっと普通の人には真似できないですし、現代にソクラテスがいたら、Twitterで有名人や政治家、学者相手にクソリプをしまくるレスバトラーのような人だったのではないか等とも言われています。ソクラテスを私は尊敬していますが、現代人は彼が恨まれるのも仕方がないと考える人もいるようです。空気を一切読まずに正しい事を貫こうとする姿勢はすごいと思いますが、妥協を知らない性格なので敵を作りやすいのは確かだと思いますね。

 

話が若干逸れましたが、私はソクラテスは不可知論者だったと思っています。但し、不可知論者は即ち無神論ではないので彼自身が言っていたように神を信じていたのだとも思います。ただ、ソクラテスは神を自分の都合良く利用していたのではなく、何か自分には捉えがたいが、確かに存在するこの世の法則のようなものと思っていたのではないでしょうか。当時の人は自分の祖先を神だと称し、それを根拠に威張っていたようです。ソクラテスはそういう虎の威を借る狐のような様を批判しました。

そして、ここからが肝で私が良く考える事なのですが、その法則というのは具体的に何々をどうするというのではなく、人間が何かを勝手に作り出す度に、本当にそれはそうなのだろうか?何故?と疑問を投げかけ、根拠がなければ撤回を促すというようなものなのではないかと思っています。

以前、勝手にマナーを作り出すマナー講師の事を書きましたが、丁度そういう風に自分ルールを勝手に作る事をいちいちその都度、突っ込みを入れて却下していくような感じです。

無根拠なルールを全部除去する事によって人は自由になる事ができます。ルールを除去しても欲求は残るので個人の生活は成り立ちます。問題は秩序で、人と人との関係を良好に保ったまま社会を成り立たせるルールに根拠を見いだすのが困難ですね。

きっと、ソクラテスはこういう問題について四六時中悩んでいたのではないでしょうか。

 

昨今ポピュリズムと言って、衆愚政治が問題になっていますが、人々は欲望のままに自分に得になる政策を掲げる人を支持する傾向にあります。しかし、中には実現不可能な政策を掲げて人気を集めたり、多数派の利益の為に少数派を弾圧する人もいるので、そういう事がないようにバランスを取る必要がありますよね。全ての人が全ての分野に高い教養を持っている訳ではないので、政治家の政策を完璧に正しく評価し、間違った政策を採用しないようにするのは困難です。何かの著名な専門家でも専門外については良く分かっていない場合もあります。

「全ての人が得をする」という構造はなかなかないものですが、誰かが犠牲にならなくて済むような構造を目指す事は大切ではないかと思います。ソクラテスも「博愛」を説いていたようなので、人々の生活をできるだけ自由に保ったまま、この関係において対立や紛争が起こらないように調整しようとしていたのかも知れません。

その結果、無根拠に自分勝手に自分の主張を押し通そうとする人々を批判していく事になり、最終的に処刑されるに至ったのではないか?と私は考えています。

この構造と似ているのがキリストと呼ばれたイエスの生涯なのではないかとも思っています。

 

正しさと愛というのは時に相反します。愛と言っても色々な解釈がありますが、許しを愛とした場合、罪を許すのは良い事とされますが、正義ではありません。

正義を曲げずに人を許すには自分の被害を水に流す必要があったりして、犠牲を伴います。正しさが人を傷つける場合もあります。

正しさ…完璧な正義は人間には不可能なのかも知れないと思う事があります。

だとしても、生きていく以上、何らかの正しさは必要になります。

そこで多くの人が様々な形で妥協しながら生きている訳ですが、きっとソクラテスは勝手に自分ルールを作って正義を知りもしないのに知ったふりをする人々が許せなかったのでしょうね。ちょっとだけ気持ちが分かる気がします。

 

このナンセンスな事をいちいち指摘して、根拠をはっきりさせるべきだと言う主張をした哲学者にルートヴィッヒ・ヴィトゲンシュタインがいます。彼によれば殆どの哲学者は無意味なおしゃべりをしているそうです。そうかも知れないし、そうではないかも知れないですが、めちゃくちゃなルールを勝手に作り出す存在を黙らせようと思う気持ちも少しだけ分かる気がします。




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