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人生という物語の余白

人生には適度に余白が必要だ。

 

そんな風に思いませんか?

いつも自分が中心でスポットライトが当たっているという考えは疲れてしまいます。

私は、いつの頃からか、自分は世界のモブだと思うようになりました。

もちろん、自分が自分という物語の主人公だと思う人がいるのは否定しません。

しかし、世界に何人も「主人公」がいて、それぞれに自分が正義だと主張するからこそ争いが起きるのではないかと思ったりします。

私にとってはこの世界の歴史という物語は群像劇です。

人々が時には対立し、時には力を合わせながら歴史という壮大な物語が紡がれていきます。そこには語られた物語、歴史に記録が残されている部分と、そうではない部分があるでしょう。

語られなかった歴史に思いを馳せたり、そういう部分が時には大きな働きを持つという事を否定する人はあまりいないと思います。

生活にも陽の部分と、陰の部分があり、どちらかだけではうまくいかないのではないかと思っています。

コンピューターにも余白が必要と言われたりしますね。バッファというやつですが。

人生においても適度に余白を配置する事で、生活が円滑になったり、心が安まったり、あるいは豊かになったりするのではないでしょうか。

 

ミヒャエル・エンデという作家をご存じでしょうか。

はてしない物語」や、「モモ」を書いた作家として有名ですね。

彼の詩もおすすめですよ。

 

丁寧な暮らしという言葉が一時期流行りましたね。

モーニングルーティンやナイトルーティンを公開したり、日常の工夫や、おすすめアイテムを紹介したりするYouTubeチャンネルが増えた事がありました。

その逆に、雑な暮らしをしようなんて言う人もTwitterで現れたりしました。

私は丁寧すぎる暮らしも、雑な暮らしも嫌だなあと思いました。

生活には丁寧にするべき部分と、そうでない部分があるし、又、余白も必要だと思います。

その余白に思わぬ出会いがあったり、想像の余地が残される事によって人は本当の意味での金銭的な力だけではない豊かさを得る事ができるのではないかと思ったりします。

 

例えば、ブログを書く事もそうですし、人のブログを読む事もそうかも知れません。自分が中心では、他人の意見を聞く余地が狭まってしまいます。(脱中心化)もちろん人間は自分が中心にしか見えないし、考えられないような部分もあるのですが(根源的自己中心性)自分がとか、他人がとかではなく、ちょっと「強く握りしめているものを手放す」という事も必要なのではないかと思うのです。抽象的で分かりにくくなってしまったかも知れませんが、時にはそんな時間を過ごす事も大切なのではないかと思います。




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