最近、書くべき事と書くべきでない事を意識していて、文章を気楽に書くのが難しくなってきました。これはタブー的な問題の話ではなく、文章の検索性とか分かりやすさに関する話です。そこで、カテゴリを見直してもっと読みやすくしようと思いました。
過去の閲覧数が少ない記事を削除して、コンパクトにする他、勢いで書いた文章、いわば習作のようなものを「手すさび」というカテゴリにまとめようと思います。
こうすれば気分転換に何かを書きたくなった時にも手すさびカテゴリで文章を書けますし、それによって自分のサイトがごちゃつくのを避ける事ができるかも知れません。
さて、手すさびで最近良く考える内容について整理しながら書いてみましょう。
今回は学習に関する話題です。
私は基礎教養というものを学びたいと良く思います。これには色々な動機があるのですが、複雑なので割愛します。ですが、強いて一つ挙げるならば、それは「安心」を得たいからです。
しかし「基礎教養」というジャンルの「学問」はありません。そういう講座はあるかも知れませんが。
それぞれの分野の基礎となる部分に関してはもちろん整理されて体系立っている事もあるでしょうが、オールジャンルのこれを学ぶべきという部分だけが整理されている事はないと言って良いと思います。もし、そういう手引きがあるのであれば是非教えて欲しいです。
良く、何かの決定版の事を○○のバイブルなどと言いますが、聖書に全ての事柄が網羅されている訳ではないし、又、聖書を読んだからと言って、学問全体に通底する極意のようなものが学べる訳ではないでしょう。
これは人間生活の基礎に倫理があるという事とは全く別の話です。
基礎という言葉には、色々な含みがあります。元々、基礎は建築の言葉です。建築における基礎とは建物を支える地面との間、もしくは地面に深く埋め込まれた構造物の事を指します。基礎がしっかりしていなければ、建物は脆弱で倒壊の恐れがある事から、基礎は大切だと言われます。
同じように、学問を構造物と見立てた場合、基礎がしっかりしていなければ、学問全体の信憑性、堅実性が怪しくなる事から基礎研究は重要な役割を果たします。
基礎とか基本は、入門とは別であり、むしろ基礎が分かるという事はその分野における勘所が分かるという事にも通じていて、応用ですらあります。基礎から応用なんて言いますが、実際は基礎自体が応用的要素を持っています。要素という言葉の要という部分にも、建物などの構造体を支える重要な部分と言う意味が含まれています。
学習において、基礎とか基本がしっかりしていないと、その分野の理解が浅くなるばかりか「デタラメな知識」を得てしまう恐れがあります。今回、私が書きたかったのはその事であり、この事について様々に考え、又、読者の方々と学びを深めていきたいからです。
もし、基礎というものが無かったら、幾ら情報を得ても「知識」は流出してしまうのではないでしょうか。
これは丁度、底抜けのバケツとか、船体を損傷した船に似ています。幾ら、水を入れても底抜けのバケツは水を貯められません。この水は情報であり、その重みが知識を指します。
あるいは逆に、船が沈没するのを避ける為に水をくみ出しても、船の底に穴が開いていれば水が染み込み、流れ込んできます。船は目的地に移動する手段です。船に穴が開いている場合、目的地に到達するのが難しくなります。この場合、目的地とは、知識を用いて行う事を表し、船とはその方法を表します。船が損傷していれば、方法論の成功率は低くなります。水は、方法を阻害する要素ですから、不正確な情報とかになるでしょうか。
何かを学ぶ際には「知識」を得るだけではなく、その知識が正確であるかを見極める必要があります。知識が正確であると確証されない時点では、それはまだ知識ではなく情報です。情報から知識をより分ける篩が必要です。この篩、あるいは基準を一般的にはリテラシーと呼びます。
先ず、人間が学ぶべき事は、このリテラシーです。では、あらゆる情報を選り分ける事ができる「簡単なコツ」のようなものはあるのでしょうか。
これは残念ながら無さそうです。そこで、人は文字を学び、文字列の意味を学び、経験を蓄え、様々な情報を読み解きながら論理を学び、複数の篩を組み合わせて目当ての価値ある知識を得ようとしています。
底が抜けていれば、何を学んでも無意味です。多読とか、速読はそれ単体では意味を為さないと私は思っています。情報の中には虚偽や不正確なものも混じっているからで、この世の情報を全て網羅しても、それだけでは世界の実像を知る事はできないと思います。
学問の根本、あるいは哲学において重要な事は疑う事だと言われたりします。しかし、疑いは遂には「底」を食い破ってしまい、何も確証できないという可能性もあります。
すると疑いがどこまで有効なのかという「基準・ものさし・尺度」の問題が浮上してくる訳です。疑うという方法は何故、有効なのか、疑いはどこまでが健全で意義があるのかという「疑い」こそが学問には必須です。
「底」として仮に挙げられそうなものの一つは「人間の素朴な現実感」で「感覚」に依拠しています。しかし、人間は「錯覚」する事もあり、又、個人の感覚は普遍ではなさそうなので、複数人で確認する必要がある、などと条件が付きます。
この複数人の確証プロセスにおいても「多数派の言っている事が絶対確実ではない」のではないかという反論ができます。人間は集団で錯覚するからです。又、集団の利害が少数の排斥に至る時に、その正当性を多数決に求めると、いとも簡単に少数派の弾圧が正当化できてしまうという問題があり、複数の人間による合意だけでは、物事を確証する事はできないのではないかという主張もできそうです。
ここで人は客観性というものを人間の判断の外部に求めますが、人間の主義主張はどこまで行っても主観によるものだという反論がありそうです。例えば、神という概念がありますが、これは人間の発明であるという批判が考えられます。よって、神は判断基準になり得ないと言われるでしょう。
それとは、別にもっと期待され「信奉」されてもいる分野として「科学」という概念もありますが、科学の条件については、極めて複雑な議論が為されており、これも簡単な基準を明示する事はできていません。
客観とは如何なる概念なのかという事を色々な文献を通して、今、勉強中です。
- 価格: 6930 円
- 楽天で詳細を見る
まだ、正直言って良く分かっていないことだらけなので、この事については結論を出す事はできません。ただ、人間はどこかで「現実」に妥協する必要があると思います。理想は尊いですし、重要だと思いますが、現実と理想を「正しく」調整する事ができなければ、有害だと思います。
現実主義という現状追認主義に堕する事なく、又、机上の空論を振り回す妄言家になってしまわないように、地に足がついた生き方をしていきたいものです。可能性という言葉がありますが、可能な事について、堅実に話をしていける知恵のある人間に成長すべく、勉強を頑張りたいと思います。