今日も寝付けないので、ブログを書いてみましょう。
マナー講師が嫌われるという話を聞いた事がある人、まあまあいるのではないでしょうか?マナー講師を失礼クリエイターと呼ぶなんて人もいます。
マナーは大切ですが、無用なルールや非合理なマナーを勝手に作って人に強要する事を嫌ってそう呼ぶのだそうです。
例えば、お猪口に徳利からお酒を注ぐ時に、切れ目が入っている部分から注ぐと、円の切れ目だから良くないみたいなルールを勝手に作ってしまうような人達がいます。
宗教にも同じ傾向が見られます。勝手に宗教のルールを作って人を裁く事を人は嫌います。宣教師しぐさ等と言って、人を啓蒙してやろうという人を警戒する人がいます。宗教のルールには合理的な意味合いがありそうなものもあれば、現代においてはただの迷妄だとしか思えないようなものもあり、全てのルールを神の言葉として遵守しようとするような人を原理主義者と呼んで警戒する向きもありますね。個人的にはそういう人も自分が人に強いるルールと同じルールを自分に適用しているのなら、筋が通っていて尊敬に値すると思うのですが、実際には人には厳しいルールを求めながら、自分達には甘いという人が多いように思います。
ブーメランとかダブルスタンダードという言葉がネットで飛び交うのも、こういう事に人が敏感だからで、自分の所業を棚上げして、人を批判する人が多く、また、そういう人が嫌われているからだと思います。
キリスト教右派、保守派と「ポリコレ」左派とは全然別の概念ですが、こういう風に自分のルールを他人に強制しようとする傾向に関しては似通ったものがあるかも知れませんね。
人に居丈高にルールを説き、倫理を強制しようとする人は嫌われます。
何かをしない方が良いとか、した方が良いというのも、科学的根拠があって健康になるとかならまだしも、自分の好みを人に押しつけるのはむしろ悪だと考える人の方が多いのです。私もいままで、人付き合いに関してはこうすべきだとか、貧困から抜けでる為にはこうした方が良いとか書いてきました。その中には本当にそうだなというものもあれば、人によってはおかしいと思った部分もあるかも知れません。そういう意味で、私もそれなりに考えが合わない人達からは嫌われている事でしょう。
何かを主張する際には、どうしてもこういうリスクを受け入れなければならないですね。
できるだけ、自分の恣意的な判断ではなく客観的な、客観が不可能でも、外部の根拠に基づいた主観的ではないものを元に発言をしていきたいものですね。まあ、自分の好みに過ぎないのだという前提において、何かを言うのはもちろん自由ですが、勝手な基準で人を断罪するのは避けたいものです。
神は何々をこれこれと言っていると聖典に書いてあったとしても、それはその人の解釈が含まれますし、人間は全能の神ではないので、そうした記述を理由に人を断罪するのは間違っているのではないかと私は思います。人を殺害するなというルールが書いてある聖典を採用した宗教の信徒やその共同体が、戦争で大量に人を殺害しているという現実の世界においては、聖典の権威は空しい部分があります。もしも、本当に誰も傷つけないように生きている人がいれば、それは尊いでしょう。その人の言葉には重みがあります。ですが、実際には人間はそんなに綺麗でも清くもないので、自分自身の判断が一点の曇りもない「正義」だと思うような事があれば、むしろそれは疑うべきでしょう。
正しさというものには幅があります。この事については過去に色々書いているので、それを参照して見て下さい。gomiblog.hateblo.jpともかくとして、人に何かを説きたいとか、間違いを指摘したいと思った時にはそれなりに慎重になるべきでしょうね。そして、そういう人を批判したり、考えを変えるように促す警句というのは言葉の重みを意識して、必要最小限にした方が良いのではないかと私は思います。
人間関係のまとめ記事に関しても、あくまで目安として絶対の指標ではないと了解の上で参考にしてみて下さいね。