みんな違ってみんな良い。金子みすずの「私と小鳥と鈴と」という詩の一節ですね。
結構有名で、色々な所で文脈から離れて使われています。
最近は多様性のメッセージとして使われていたりしますね。
似ている言葉に、世界で一つだけの花という歌の歌詞がありますね。
色々な花があるけれど、どれも綺麗でナンバーワンではなくてもオンリーワンだというものです。
しかし、これについてみんな違ってみんな駄目だとか、多くの人は名もなき綺麗な花ではなく、単なる雑草であるとか言う人もいます。
多くの人は多様性という事を少し勘違いしていると私は思っています。
以前、書きましたが多様性とは、多くの人が仲良くして上手くいっている状態ではなく、別々の主張をしているけれども、全体として一応喧嘩はしていないという状態だと思います。
多様性とは、文化相対主義を前提としている考えです。ですから、それはむしろ棲み分けという概念と近いのです。もしも、皆が同じ考えでまとまって仲良くしなければいけないのならば、それはむしろ多様性とは別の対極にある考えに近いと言えるでしょう。
多様性を重視するのであれば、人はむしろ、違いをこそ尊重しなければなりません。人それぞれ違うけれど、その違いを認めるという事が必要です。自分とは真逆の考えを攻撃するとか批判するという考えと、究極の多様性、自由度という発想は対立しています。正義とか規範を重視すれば、自由度は下がります。ここに難しさがありますね。
簡単に言うと、多様性を尊重したいのであれば、自分が不快なものをある程度、許容する必要があります。どこまで許容するかは簡単には説明できませんが、何でも不快だから消えろとか、自分の価値観を最優先して、好みではないものは無くなれとか言っている人は、多様性とか自由とか言う概念の反対に位置しています。それは偏狭です。
寛容という言葉にも難しい所があり、カール・ポパーによって寛容のパラドクスという言葉が唱えられたりもしていますね。社会には寛容さが必要で、美徳とされるが秩序の為には、不寛容な考えにはある程度、不寛容である必要があるというものです。
ポパーはキリスト教に否定的でしたが、キリスト教の聖書にも似た表現があります。
それは許せという教えで、具体的には「与えなさい。そうすれば、与えられる。~あなたがたは自分が裁く、同じ裁きで裁かれ、同じ秤で量られる」という箇所です。
自分が多めに見てもらう為には、他人を多めに見る必要があります。
これと同じ事をジョン・スチュアート・ミルも他者危害原則という言葉で言い表しています。自分が自由である為に、他人の自由も、自分に危害がない限りは認める。同じように、自分も相手の自由の為に、他人に危害が加わらないように振る舞うというものです。
金子みすずがこれらの事を考えて詩を読んだか分かりませんが、私と小鳥と鈴には、それぞれの役割があって、別々の長所がある訳で、一緒くたにして同じ基準で評価する事はできない訳です。みんな違ってみんな良い、とはこういう意味合いの元でこそ、本当に輝く言葉だと私は思っています。