
夏が終わって、天気予報士もそんなことを言っていた。台風はじじいのファックくらいのろのろしていて、おれは暴風雨が待ちきれなかった。おれは田んぼの様子を見に行くのが我慢できない。でも、横浜市中区に田んぼはあるのか? 立ちんぼはいても田んぼはない。民衆は米を求めているのに、そこに米はない。今や一揆のときだろう。飢えたるものよ立ち上がれ。いや、飢えている人間は立ち上がる必要はない。飢えているのに立ち上がるなんてたいへんだ。飢えたるものは座っていていい。寝込んでいていい。心配するな、おれも8月の給料が出なかった。そのうえ、会社は400万円の税金を払わなくてはいけなくて、もう潰れるだろう。おれは家賃を払えなくなって、路上で生きることになるだろう。生きる? 生きる必要があるのか? 死んだほうがいいのではないか? まったく、その通り。
胃の調子が悪い。生野菜を消化するのに手間取っている。胃カメラを飲むべきなのだろうか?
— 黄金頭 (@goldhead) August 31, 2024
胃カメラ? そんなものを飲む前に、生きるためのカロリーを飲まなければならない。死ぬからだ。
インターネットで行われているいろいろの論争は、生きられることを前提にしている。おれのように、金がなくなって食うものもなくなって、住むところもなくなって、死ぬしかない人間が入り込む余地がない。おまえらは食える。おれは食えない。それが絶対的な断絶であって、その断絶は男だとか女だとかそれ以外だとか、健常者だとか障害者だとか、それ以外だとか、既婚者だとか、子持ちだとか、チー牛だとか、喪女だとか、そんなものの前ではなんてことないのだ。
おれは弱者のマウントを恥も知らずにする。おまえらよりおれが苦しい。精神障害者で手帳も持っているけれど、年金をもらえるほどではなくて、今の職場がなくなったら雇用されることもない。おれは食えるものもなくなって、住める場所もなくなって、路上で惨めに、汚くなって、飢えて、死ぬだけだ。
おまえらはすべて恵まれている。完全に恵まれている。食えることを、屋根のある部屋の下で生きられることを感謝しろ。だれに感謝するべきかは知らない。好きにしろ。おまえらは恵まれているし、おれは恵まれていない。おまえらは強いし、おれは弱い。おれはおれの弱さを隠さない。恥じることもない。ただの事実だ。ただの現実だ。
おまえらは幸福の上にあぐらをかいて、ちょっとした不幸を嘆いていればいい。その間におれは食えなくて死ぬ。おれは食えなくて死ぬ。おれはだれにも救われないし、おれはだれも救わない。だれもおれを救うものはいない。おれは食えなくて死ぬ。人間は食わないと死ぬ。暑さで死ぬかもしれないし、寒さで死ぬかもしれない。おれに頼れる人間はいないし、おれを頼る人間もとうぜんいない。おれは一人で死ぬが、おまえはどうだろうか。死ぬときに周りにだれか人間がいるからといって、ともに死ぬといえるだろうか。死ぬときは一人だ。それはおれもおまえもかわらないなあ。
おれは脳も胃も酒で焼かれてもう消失の寸前だ。先に見えるものもないし、後悔すらもうない。おれはおまえらより先に死ぬだろうが、おまえらも死ぬ。死なない人間はいないらしい。同じく、一人で死ぬのだ。おれは確実に一人で死ぬが、まわりに人間がいてほしいとも思わない。できればおれは酒で脳が焼かれた状況で死にたいと思うし、最期にアルコール度の高いアルコールがあることを願うだけだ。せめて酩酊の中で死なせてくれ。こんな人生は生きたくなかった。そのうえに死ぬなんて、なんて面倒くさいことだろう。不安はもう嫌だ。死なせてくれ、死んでくれ。死ぬしかない。それだけが救いなのだし、おまえらはべつの救いを求めればいい。おれの救いだけがおれの救いだという事実にはまったくかわりはないのだが。