フェアリー・テール (上)(下) / スティーヴン・キング(著),白石朗(翻訳)
元アルコール依存症の父と暮らしていた17歳のチャーリーはある日、近所の偏屈な老人ボウディッチ氏が怪我をしているのを助け、世話をするうちに親しくなる。そして知ったのはボウディッチ氏の家の裏庭に存在する秘密だった。裏庭から続く地下道の向こうには二つの月が輝く異世界「エンピス」が存在し、そこに住む人々は邪悪な魔王に苦しめられていたのだ。こうしてチャーリーはボウディッチ氏の愛犬レイダーと共にエンピスへと旅立つことになる。
スティーヴン・キング作家生活50周年を飾る長編作『フェアリー・テール』である。タイトルが示す通り今作はキングには珍しいファンタジー小説となる。それは少年と犬とが邪悪な魔王の待つ異世界へと旅立ち、魔術により苦しめられている人々を救おうとするといった内容だ。
これまでキングはファンタジー的な内容の小説を全く書いていなかったわけではない。ただそれは「ダークタワー」シリーズやピーター・ストラウブとの共作『タリスマン』のようなダーク・ファンタジーであったり、『ドラゴンの眼』のようなヤングアダルト向けの作品であったりする。つまり今作『フェアリー・テール』のような王道なファンタジーは初めてだと言えるのだ。この作品の執筆時世界はコロナ禍に襲われており、その中でキングは人々に希望のある物語を送りたいと願ってこの作品を書き上げたのだという。すなわちファンタジー的なハッピーエンドが既にして約束されている物語ということができるのだ。
なにしろ物語の出だしは本当にいい。上巻の半分ほどは主人公チャーリーの亡くなった母の辛い思い出と元アル中の父親への愛情、ハイスクールでのささやかな青春模様が描かれ、そんな境遇の中けなげに生きるチャーリーの姿にどっぷりと感情移入させられるはずだ。そして近所の偏屈老人ボウディッチ氏が怪我をしている現場を発見し、ボウディッチ氏を甲斐甲斐しく介護する中で生まれる信頼関係や、そんな中で生まれるチャーリーの想いに胸を熱くさせられるだろう。なんといってもボウディッチ氏の愛犬であり老犬であるレイダーへの友情には犬好きでなくても心を和まされる筈だ。
キング小説ではお馴染みだが、物語前半におけるサスペンス的なものの何もない「普通な日常の描写」がキングは本当に上手い。それは愛おしいとすら思わせる。この「普通な日常」がずっと続いてくれればいいのに、と思わせてしまうのだ。とはいえそれは「異様な世界」へと旅立つ前の序章に過ぎない。読者は「この普通な日常がこれから壊れてゆく」ことをあらかじめ知っているからこそ、あまりに脆いこの日常が愛おしいものだと感じてしまうのだ。
というわけで少年チャーリーは異世界の門を叩くというわけだが……う~ん、大変申し訳ないのだが、ここからのファンタジー小説展開がオレには実につまらなく感じた。退屈で仕方なかった。ファンタジー小説としても出来が悪いものに思えた。なにより一番苦手だったのは、このファンタジー世界というのが徹頭徹尾不快で汚らしくてどこもかしこもグロテスクだという部分だ。確かに下卑た表現はキングの十八番だし、キングに格調高くしてくれと言っても無理なのは分かるが、フェアリー・テール=メルヘンだと思ったら日野日出志だったので呆れ返ってしまったのだ。
呪いのかけられた異世界の住人は誰もが皆顔や体がとろけ出した異形の相貌をしていて、それが呪いとはわかっていても気色悪くて仕方ない。口のきけない王女が重要なキャラクターとなるが、口がきけないばかりに描写が回りくどいものとなりまだるっこしい。”邪悪なる存在”の皆さんは汚い言葉ばかり使うのでうんざりさせられるばかりか、おつむのほうは弱そうで凄みがない。中盤のハイライトとなるのは死を賭けた闘技場だが、アイディアとして凡庸すぎる。最強の武器が銃とか、ファンタジー関係ないじゃん。そしてなんといってもあちらこちらに糞便の量が多すぎる。
とまあ細かい部分であれこれ辟易させられたのだ。トールキンはかつて評論「妖精物語について(On Fairy-Stories)」の中で、 「私は、成功した「二次世界」の創造の主要な側面は、それが詳細にわたって真実であることだと考えている。つまり、その内部法則に従って、信じられるべきである」と述べたが、キングの妖精世界にあるのは”詳細にわたって真実であること”ではなく俗悪と醜怪と卑語の詰め合わせである。これがキング流ダークファンタジーだと言うならまだしも、仮にも”フェアリー・テール”を標榜するならもう少しどうにかならなかったのか。この辺り、キングには向いてなかったのかなあと思わされた。



