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 今日は、江戸時代前期の1683年(天和3)に、八百屋お七が鈴ヶ森刑場で火炙りの極刑に処せられた日ですが、新暦では4月25日となります。
 八百屋お七(やおやおしち)は、江戸時代前期の1668(寛文8)に、江戸・本郷追分の八百屋太郎兵衛の娘として生まれたとされています。1682年 (天和2年12月28日) の天和の大火で円乗寺に避難の際、寺小姓山田佐兵衛と情を通じました。
 家に戻った後、吉祥寺門前に住むならず者吉三郎にそそのかされ、火事があれば庄之助と会えると思い込み、翌年3月2日夜放火して捕らえられました。その結果、火付の大罪人として、1683年(天和33月29日)に、鈴ヶ森刑場で火炙りの極刑に処せられます。
 事件後3年目の1686年(天和6)に、井原西鶴の『好色五人女』に書かれて以後、元禄年間(1688~1704年)には歌祭文にうたわれて有名になり、広く劇化されるようになり、浄瑠璃・歌舞伎で上演・脚色されました。

<八百屋お七を取り上げた作品>

・浮世草子『好色五人女』(1686年)井原西鶴著
・浄瑠璃『八百屋お七歌祭文』(1704年)紀海音(きのかいおん)作
・歌舞伎『お七歌祭文』(1706年春)大坂嵐三右衛門座、吾妻三八作
・浄瑠璃『八百屋お七恋緋桜(こいのひざくら)』(1717年)
・浄瑠璃『伊達娘恋緋鹿子(だてむすめこいのひがのこ)』(1773年)
・歌舞伎『其往昔(そのむかし)恋江戸染』(1809年3月)森田座、福森久助作

〇天和の大火(てんなのたいか)とは?

 江戸時代前期の1683年1月25日(天和2年12月28日)正午頃に江戸・駒込の大円寺(現在の東京都文京区向丘一丁目)から出火した大火です。その後、隣の同心屋敷に延焼し、本郷方面に燃え広がり、加賀藩前田家の上屋敷も炎上しました。
 続いて、本郷から湯島・神田方面から、柳原の土手沿いに東に向かい、浅草橋門も焼失し、隅田川を飛び越えて、回向院に飛び火します。そして、回向院もまもなく焼失、さらに隅田川沿いに南下して、霊厳寺、富岡八幡宮も焼失させて、ようやく翌日の午前5時頃に鎮火しました。
 この大火によって、焼失した大名屋敷は73、旗本屋敷166、寺社95にも及び、死者は最大3,500名余と言われ、江戸の十大火事の一つとされています。これにより、両国橋も焼け、本所の開発は中止となり、深川芭蕉庵も焼けて、俳聖・松尾芭蕉は水に潜ってかろうじて助かりました。
 また、井原西鶴著『好色五人女』でも取り上げられ、その登場人物で八百屋の娘お七の名を取って、「お七火事」とも称されています。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

730年(天平2)奈良・薬師寺の三重塔(東塔)が建立されたとされる(新暦4月20日)詳細
1401年(応永8)第101代の天皇とされる称光天皇の誕生日(新暦5月12日)詳細
1897年(明治30)金本位制の「貨幣法」が公布される詳細
1909年〈明治42〉文芸評論家・小説家・劇作家花田清輝の誕生日詳細
1911年(明治44)「工場法」が公布される詳細
1933年(昭和8)「米穀統制法」が公布される詳細
1939年(昭和14)詩人・建築家立原道造の命日詳細
1952年(昭和27)「文化財保護法」で、タンチョウ、トキ、オオサンショウウオ等が初の特別天然記念物に指定される詳細

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 今日は、明治時代後期の1908年(明治41)に、新潟市内で大火「若狭屋火事」が起き、1,198戸が焼失した日です。
 明治41年3月の新潟大火「若狭屋火事」は、明治時代後期の1912年(明治45)3月8日に、新潟県新潟市で起きた大火です。この日の午前6時半頃に、新潟市古町通8番町の芸者置屋「若狭屋」から出火して、信濃川方面に燃え広がりましたが、木造家屋が多く、消火設備や耐火建築が進んでいなかったために、東堀7番町、東堀通7・8番町、本町通6~8番町、上大川前通1~3番町など、下町の繁華街一帯が類焼しました。
 これによって、市内中心部の西三分の二にあたる1,198戸が焼失し、市役所、警察署、郵便局、電話局なども焼け、その余波を受けて萬代橋も類焼しています。このため、二代目萬代橋が完成するまで仮つり橋を掛けて不便をしのぎました。
 また、同年、9月4日にも、再度の大火があり、全焼2,071戸、半焼18戸を出し、この2回の大火にこりて、新潟市は、上水道を整備したと言われています。その後、昭和時代中期の1955年(昭和30)に、昭和新潟大火が起こり、行方不明者1名、負傷者235名、焼失家屋892棟を出しました。

〇明治・大正時代の大火一覧(焼失1,000戸以上で、戦火・地震によるものを除く)

・1871年(明治4)9月12日 函館の「切見世火事」(焼失1,123戸)
・1872年(明治5)2月26日 東京の銀座大火(焼失4,879戸)
・1873年(明治6)3月22日 函館の「家根屋火災」(焼失1,314戸)
・1873年(明治6)3月22日~23日 横浜の「相生町の大火」(重軽傷者20余名、焼失1,577戸)
・1874年(明治7)4月27日 浜松明治7年の大火「小野組火事」(焼失家数1,318軒)
・1875年(明治8)4月24日 飛騨高山明治8年の大火(死亡者1名、焼失1,032戸)
・1879年(明治12)1月26日~27日 高崎明治13年の大火(消失2,500余戸)
・1879年(明治12)3月3日 高岡明治12年の大火(焼失2,000余戸)
・1879年(明治12)12月6日 明治12年函館大火(焼失2,326戸)
・1879年(明治12)12月26日 東京の日本橋大火(全焼10,613戸)
・1880年(明治13)5月15日 弘前明治13年の大火(焼失1,000余戸)
・1880年(明治13)5月21日 三条の大火「糸屋万平火事」(死者34名、焼失2,743戸)
・1880年(明治13)8月7日 新潟明治13年の大火(死者3名、負傷名37名、焼失6,175戸)
・1880年(明治13)12月24日 明治13年大阪南の大火「島の内出火」(死者8名、負傷者350~60名、焼失3,388戸)
・1881年(明治14)1月26日 東京の神田の大火(全焼10,673戸)
・1881年(明治14)2月11日 東京の神田区の大火(全焼7,751戸)
・1881年(明治14)4月25日 福島明治の大火「甚兵衛火事」(死者7名、焼失1,785戸)
・1882年(明治15)5月15日 富山県氷見明治の大火(焼失1,600余戸)
・1884年(明治17)5月13日 水戸明治17年「下市の大火」(焼失1,200余戸)
・1884年(明治17)11月7日~8日 盛岡明治17年の大火(焼失1,432戸)
・1885年(明治18)5月31日~6月1日 富山明治18年の大火「安田焼」(死者9名、焼失5,925戸) 
・1886年(明治19)4月30日~5月1日 秋田明治19年の大火「俵屋火事」(死者17名、負傷者186名、焼失3,554戸) 
・1886年(明治19)12月30日 水戸明治19年「上市の大火」(焼失1,800余戸)
・1888年(明治21)1月4日 松本明治21年南深志の大火(死者5名、焼失1,553戸)
・1888年(明治21)1月31日 横浜明治21年野毛の放火による大火(重軽傷者数10人、焼失1,121戸)
・1889年(明治22)2月1日~2日 静岡明治22年の大火(焼失1,100余戸) 
・1890年(明治23)2月27日 東京の浅草大火(全焼1,469戸)
・1890年(明治23)9月5日 明治23年大阪大火「新町焼け」(死者1名、軽傷者206名、全焼2,023戸、半焼60戸)
・1893年(明治26)3月17日~18日 川越大火(焼失1,302戸、土蔵60棟焼失)
・1893年(明治26)3月29日~30日 松阪明治の大火(焼失1,460戸)
・1894年(明治27)5月26日 山形明治27年「市南の大火」(死者15名、負傷者69名、焼失1,284戸) 
・1895年(明治28)4月29日 石川県七尾の大火(焼失1,000余戸)
・1895年(明治28)6月2日~3日 新潟県新発田明治28年の大火(死者4名、負傷者24名、焼失2,410戸)
・1895年(明治28)10月3日 根室明治28年の大火(焼失1,334戸)
・1896年(明治29)4月13日~14日 福井県勝山町明治29年の大火(死者5名、負傷者2名、焼失1,124戸) 
・1896年(明治29)8月26日 函館の「テコ婆火事」(焼失2,280戸)
・1897年(明治30)4月3日 柏崎明治30年の大火「日野屋火事」(焼失1,230戸)
・1897年(明治30)4月22日 八王子大火(死者42名、焼失3,500余戸)
・1898年(明治31)3月23日 東京の本郷大火(死者2名、負傷者42名、焼失1,478戸)
・1898年(明治31)6月4日 直江津(上越市)明治31年の大火「八幡火事」(焼失1,595戸)
・1899年(明治32)8月12日 富山明治32年の大火「熊安焼」(全焼4,697戸、半焼9戸) 
・1899年(明治32)8月12日~13日 横浜明治32年の大火(死者14名、全焼3,124、半焼49戸)
・1899年(明治32)9月15日 明治32年函館大火(焼失2,294戸)
・1900年(明治33)4月18日 福井「橋南大火」(死者11名、負傷者131名、全焼1891軒、半焼3軒)
・1900年(明治33)6月27日 高岡明治33年の大火(死者7名、負傷者46名、全焼3,589戸、半焼25戸)
・1902年(明治35)3月30日 福井明治35年「橋北の大火」(焼失3,309戸)
・1903年(明治36)4月13日 福井県武生町明治の大火(死者7名、重傷者2名、全焼1,057戸)  
・1904年(明治37)5月8日 小樽明治37年「稲穂町の火事」(焼失2,481戸)
・1906年(明治39)7月11日 直江津町(上越市)明治39年の大火「ながさ火事」(焼失1,041戸)  
・1907年(明治40)8月25日 明治40年函館大火(死者8名、負傷者1,000名、焼失12,390戸)
・1908年(明治41)3月8日 新潟明治41年3月の大火「若狭屋火事」(焼失1,198戸)
・1908年(明治41)9月4日 新潟明治41年再度の大火(全焼2,071戸、半焼18戸)
・1909年(明治42)7月31日~8月1日 大阪明治42年「北の大火」(焼失11,365戸)
・1910年(明治43)4月16日 輪島町の大火(全焼1,055軒、半焼15軒)    
・1910年(明治43)5月3日~4日 明治43年青森大火(死者26名、負傷者163名、焼失7,519戸、半焼5戸)
・1911年(明治44)4月9日 東京の吉原大火(全焼6,189戸、半焼69戸)
・1911年(明治44)5月8日 山形明治44年「市北の大火」(全焼1,340戸)
・1911年(明治44)5月16日 小樽明治44年の大火(焼失1,251戸)
・1912年(明治45)1月16日 大阪明治45年「南の大火」(死者4名、全焼4,750戸、半焼等29戸)   
・1912年(明治45)3月21日 東京の州崎大火(全焼1,149戸、半焼11戸)
・1912年(明治45)4月22日 松本明治「北深志の大火」(死者5名、焼失1,341戸)
・1914年(大正3)2月20日 東京神田大正2年三崎町の大火(全焼2,376戸、半焼54戸)
・1917年(大正6)5月22日 大正6年米沢大火(死者11名、負傷者80余名、焼失2,294戸)
・1919年(大正8)5月19日 大正8年米沢大火(死者1名、焼失1,071戸)
・1921年(大正10)4月6日 東京の大正浅草大火(全焼1,227戸、半焼73戸)
・1924年(大正13)5月21日 八戸大火(死者4名、被災戸数1,393棟)
・1925年(大正14)3月18日  大正日暮里大火(全半焼約2,100戸)

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

702年(大宝2)文武天皇が初めて全国的に統一された度量(物差しと枡)を定め、諸国に頒布する(新暦4月9日)詳細
1708年(宝永5)京都で「宝永の大火」が起こり、1万軒以上を焼失する(新暦4月28日)詳細
1842年(天保13)日本画家川端玉章の誕生日(新暦4月18日)詳細
1919年(大正8)小説家水上勉の誕生日詳細
1922年(大正11)「史蹟名勝天然紀念物保存法」で、初の国の名勝として天橋立、三保松原、偕楽園等9件が指定される詳細
1923年(大正12)赤瀾会が東京・神田で日本初の国際婦人デー集会を開催する詳細
1940年(昭和15)津田事件によって、津田左右吉・岩波茂雄が出版法違反で起訴される詳細
1954年(昭和29)「日本国とアメリカ合衆国との間の相互防衛援助協定」(MSA協定)が締結される詳細

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 今日は、江戸時代中期の1714年(正徳4)に、大奥年寄の絵島が「絵島生島事件」の処分で信州高遠へ追放された日ですが、新暦では4月18日となります。
 江島生島事件(えじま いくしま じけん)は、江戸時代中期の1714年(正徳4)に、江戸城大奥で起こった風紀紊乱事件です。この年の1月14日に、江戸城大奥御年寄の江島(絵島)が、芝の増上寺へ参詣した帰途、山村座に立寄って芝居見物をし、桟敷および座元の居宅で遊興して帰城し際、大奥の門限に遅れました。
 このことから、役者生島新五郎と密通を疑われ、「風紀の乱れを正す」として江島・生島新五郎の2人をはじめ大奥の女中や出入りの医者・商人など、1,500人近くが処罰されます。江島は、同年3月5日に信州高遠藩主内藤清枚に預けられ、山村長太夫・歌舞伎俳優生島新五郎も遠島となり、山村座は解散を命じられました。
 江島は、高遠藩の江島囲屋敷に幽閉されましたが、1722年(享保7年)に、高遠藩主内藤頼卿が江戸家老の野木多宮に絵島の赦免嘆願書を届けさせ、翌年には、月番老中安藤信友から内藤家の江戸藩邸に「非公式ながらこれを許可する」という達しがあり、高遠城内での起居が比較的自由になり、囲い屋敷の周囲の散歩が認められます。しかし、1741年(寛保元年4月10日)に、囲屋敷において、数え年61歳で亡くなりました。
 一方、生島新五郎は、三宅島に流刑となりましたが、1742年(寛保2年2月)に、徳川吉宗により赦免され江戸に戻り、翌年1月5日に、江戸・小網町において、数え年73歳で亡くなったとされるものの、1733年(享保18年)に三宅島で亡くなったたという説もあります。

〇江島生島事件関係略年表(日付は旧暦です)

・1671年(寛文11年) 生島新五郎が、大坂で生まれる
・1681年(天和元年) 江島(本名疋田みき)が、三河国において、甲府藩士・疋田彦四郎の娘として、生まれる
・1684年(貞享元年) 生島新五郎が、野田蔵之丞の名で木挽町の芝居小屋・山村座の舞台に立つ
・1691年(元禄4年)、野田蔵之丞が生島新五郎と改名し、当時を代表する人気役者となる
・1714年(正徳4年1月12日) 江戸城大奥年寄役・絵島が俳優生島新五郎らとの宴会により大奥の門限に遅れ、絵島生島事件の発端となる
・1714年(正徳4年) 江島が、信濃国高遠藩の江島囲屋敷に幽閉され、生島新五郎が、三宅島に流刑となる
・1722年(享保7年) 高遠藩主内藤頼卿が江戸家老の野木多宮に絵島の赦免嘆願書を届けさせる
・1723年(享保8年) 月番老中安藤信友から内藤家の江戸藩邸に「非公式ながらこれを許可する」という達しがあり、高遠城内での起居が比較的自由になり、囲い屋敷の周囲の散歩が認められる
・1741年(寛保元年4月10日) 江島が、信濃国高遠藩の江島囲屋敷で、数え年61歳で亡くなる
・1742年(寛保2年2月) 生島新五郎が、徳川吉宗により赦免され江戸に戻る
・1743年(寛保3年1月5日) 生島新五郎が、江戸・小網町において、数え年73歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

765年(天平神護元)称徳天皇が「墾田永年私財法」の停止(加墾禁止令)を勅する(新暦3月30日)詳細
1870年(明治3)日本3番目の洋式灯台である品川灯台が初点灯する(新暦4月5日)詳細
1897年(明治30)法学者・中国現代史研究者・平和運動家平野義太郎の誕生日詳細
1926年(大正15)「労働農民党」(委員長:杉山元治郎)が結成される詳細
1929年(昭和4)社会運動家・政治家・生物学者山本宣治の命日詳細
1951年(昭和26)無着成恭編『山びこ学校』が刊行される詳細
1966年(昭和41)英国海外航空(BOAC)911便が富士山上空で山岳波により空中分解(英国海外航空機空中分解事故)する詳細
1970年(昭和45)「核拡散防止条約」(略称:NPT)が発効する詳細

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 今日は、明治時代後期の1897年(明治30)に、足尾鉱毒事件に関して、鉱毒被害民が、第1回大挙押出しをし、農民800人が農商務省を取り囲み足尾銅山の操業停止を請願した日です。
 足尾鉱毒事件(あしおこうどくじけん)は、明治時代前期から栃木県と群馬県の渡良瀬川周辺で起きた足尾銅山を原因とする公害事件です。銅山の開発により排煙、鉱毒ガス、鉱毒水などの有害物質が周辺環境に著しい影響をもたらし、1885年(明治18)には渡良瀬川における魚類の大量死が始まりました。
 1890年(明治23)7月1日の渡良瀬川での大洪水では、上流の足尾銅山から流出した鉱毒によって、稲が立ち枯れる現象が起きて、流域各地で騒ぎとなります。この頃より栃木の政治家であった田中正造が中心となり国に問題提起し、1896年(明治29)には、有志と共に雲龍寺に栃木群馬両県鉱毒事務所が設けられました。
 1897年(明治30)3月には、鉱毒被害民が、大挙押出しをし、農商務省を取り囲み足尾銅山の操業停止を請願、1900年(明治33)2月、鉱毒被害民が集結し、請願のため上京する途中、警官隊と衝突した川俣事件がおこり、農民67名が逮捕されましたが、この事件の2日後と4日後、正造は国会で事件に関する質問を行っています。1901年(明治34)に正造は衆議院議員を辞職し、明治天皇に足尾鉱毒事件について直訴も試みました。
 1902年(明治35)、時の政府は、鉱毒を沈殿させるという名目で、渡良瀬川下流に遊水池を作る計画を立て、紆余曲折を経て、谷中村に遊水地がつくられることになります。しかし、この村の将来に危機を感じた正造は、1904年(明治37)から実質的に谷中村に移り住み、村民と共に反対運動に取り組みました。
 1907年(明治40)に政府は「土地収用法」の適用を発表し、村に残れば犯罪者となり逮捕するという脅しをかけ、多くの村民が村外に出ることとなります。その後も、正造を含む一部村民が残って、抵抗を続けたものの、1913年(大正2)に正造は71歳で没し、運動は途切れることになりました。
 以後も足尾銅山は1973年(昭和48)の閉山まで、精錬所は1980年代まで稼働し続けます。それからも、2011年(平成23)に発生した東北地方太平洋沖地震の影響で渡良瀬川下流から基準値を超える鉛が検出されるなど、現在でも影響が残っています。

〇足尾銅山】(あしおどうざん)とは?

 栃木県上都賀郡足尾町(現在の日光市足尾地区)にあった銅山です。室町時代に発見されたと伝えられていますが、江戸時代に幕府直轄の鉱山として本格的に採掘が開始されることになりました。
 銅山は大いに繁栄し、江戸時代のピーク時には、年間1,200トンもの銅を産出していたとのことです。その後、採掘量が減少し、幕末から明治時代初期にかけては、ほぼ閉山状態となっていました。しかし、1877年(明治10)に古河市兵衛が足尾銅山の経営に着手し、数年後に有望鉱脈が発見され、生産量が増大します。1905年(明治38)に古河鉱業の経営となり、急速な発展を遂げ、20世紀初頭には日本の銅産出量の約40%の生産を上げるまでになりました。
 ところが、この鉱山開発と製錬事業の発展のために、周辺の山地から坑木・燃料用として、樹木が大量伐採され、製錬工場から排出される大気汚染による環境汚染が広がることになります。禿山となった山地を水源とする渡良瀬川は、度々洪水を起こし、製錬による有害廃棄物を流出し、下流域の平地に流れ込み、水質・土壌汚染をもたらし、足尾鉱毒事件を引き起こしました。
 1890年代より栃木の政治家であった田中正造が中心となり国に問題提起をして、鉱毒事件の闘いの先頭に立ったことは有名です。1973年(昭和48)2月28日で閉山しましたが、今でも銅山跡周辺に禿山が目立っています。その後、1980年(昭和55)に、坑道を使用した足尾町「足尾銅山観光」がオープンしました。
 尚、2007年(平成19)には、足尾銅山が日本の地質百選に選定され、経済産業省が取りまとめた近代化産業遺産群33に「足尾銅山関連遺産」としても認定されています。さらに、2008年(平成20)には、通洞坑と宇都野火薬庫跡が国の史跡に指定されました。

☆足尾鉱毒事件関係略年表

<1877年(明治10)> 
・古河市兵衛が足尾銅山製錬所を操業する

<1881年(明治14)> 
・足尾銅山、鷹の巣直利を発見する

<1884年(明治17)> 
・横間歩大直利を発見する

<1890年(明治23)>
・8月 渡良瀬川大洪水で、栃木・群馬両県に鉱毒被害が発生する

<1891年(明治24)>
・12月 田中正造が、第2回帝国議会で鉱業停止を要求する

<1892年(明治25)>
・この頃 被害農民と古河の示談契約が進展する

<1893年(明治26)
・第1回示談契約が完結する
・6月30日 足尾銅山、粉鉱採集器を設置、3年間をその試験期間とする

<1895年(明治28)>
・3月 鉱毒被害民と古河市兵衛との間に永久示談契約が進展する

<1896年(明治29)>
・3月25日 正造、第9帝国議会において永久示談の不当性を追及する
・7月~9月 渡良瀬川で、三たび大洪水が起こり、1府5県に鉱毒被害が及ぶ
・10月  正造、有志と雲竜寺に群馬栃木両県鉱毒事務所を設置する

<1897年(明治30)>
・3月2日(~3月5日) 鉱毒被害民が、第1回大挙押出し
・3月20日 谷干城・津田仙・栗原彦三郎、被害地を視察する
・3月23日 農商務大臣榎本武揚、被害地を視察する
・3月23日(~3月30日) 鉱毒被害民、第2回大挙押出し、内閣に足尾銅山鉱毒事件調査委員会が設置される
・5月27日 東京鉱山監督署長、足尾銅山に対して鉱毒除防工事命令をする

<1898年(明治31)>
・4月30日 大蔵省、鉱毒被害民に対して地祖条例による普通荒地免租処分を通達、該当者は公民権を喪失する
・6月30日 大隅重信内閣設立(10月31日、崩壊)する
・9月6日 渡良瀬川の大洪水が起きる
・9月26日 鉱毒被害民、第3回大挙押出し
・9月28日 正造、東京府下南足立郡淵江村保木間において、総代50名を残して帰村するよう説得する

<1899年(明治32)> 
・12月22日 鉱毒議会が結成される

<1900年(明治33)>
・2月13日 未明に被害民が、第4回大挙押出しをし、川俣事件が発生する
・2月14日 正造、第14回議会において川俣事件に関連して政府を追及する
・7月9日 川俣事件で、前橋地方裁判所の予審終結、51名が起訴される
・11月28日 正造、川俣事件第15回公判で、検事論告に憤慨して欠伸をし、官吏侮辱罪に問われる
・12月22日 前橋地方裁判所、川俣事件に判決。被告51名中、有罪29名、無罪22名。検事・被告双方より控訴する

<1901年(明治34)>
・10月13日 川俣事件控訴審での、判事、検事、弁護士らによる被害地臨検が行われる
・10月23日 正造、衆議院議員を辞職する
・11月29日 神田基督教青年会館において鉱毒地救済婦人会発会式(会長・潮田千勢子)が行われる
・12月10日 正造、議会開院式より帰途の天皇に直訴状を提出しようとしてさえぎられ、麹町警察署にて取り調べ、夕刻釈放される
・12月27日 東京学生1100余名が、大挙鉱毒地視察を行う

<1902年(明治35)>
・内務省、秘密裡に栃木県谷中村、埼玉県利島・川辺両村の遊水池計画推進する
・1月 利島・川辺両村に遊水池反対運動起こる
・3月17日 内閣に鉱毒調査委員会が設置される
・6月16日 欠伸事件で有罪確定し、正造は巣鴨監獄に服役する
・9月28日 関東大洪水が起きる
・10月 埼玉県、利根川火打沼の決壊堤防を放置し、川辺・利島両村の買収を計画する
・10月16日 両村民は、自力修復して納税・兵役の義務拒絶を宣言する
・12月25日 川俣事件再審理公判、宮城控訴院にて控訴棄却・公訴不受理により消滅する
 
<1903年(明治36)>
・1月 栃木県議会、遊水池化のための谷中村買収案否決する
・6月3日 政府、鉱毒調査委員会の調査報告書を発表、谷中村瀦水池案浮上する

<1904年(明治37)>
・7月 正造、谷中村問題に専念のため、以後、同村川鍋岩五郎方に寄留する
・12月10日 災害復旧費名の谷中村買収案、栃木県会(秘密会)を通過する

<1905年(明治38)>
・3月24日 原敬、古河鉱業副社長に就任する

<1906年(明治39)>
・6月8日 正造、栃木県知事白仁武より予戒令を受ける
・7月1日 谷中村村長職務管掌鈴木豊三、村会決議を無視して同村を藤岡村に合併する

<1907年(明治40)>
・2月4日 (?2月7日) 足尾銅山暴動事件が起きる
・6月29日 (?7月5日) 栃木県、谷中堤内残留民家屋16戸を強制破壊する
・7月29日 谷中堤内地権者、東京救済会の勧告に従い土地収用補償金額裁決不服訴訟を提起する

<1909年(明治42)> 
・9月 渡良瀬川改修案、関係四県の県議会を通過する

<1911年(明治44)> 
・4月 谷中村民16戸137人、北海道サロマベツ原野に移住(第1次)する

<1913年(大正2)> 
・9月4日 田中正造が亡くなる

<1917年(大正6)>  
・2月 谷中残留民、渡良瀬川改修工事にともなう埋立地に移転する

<1921年(大正10)>   
・1月 萱刈り事件が起きる

<1937年(昭和12)>  
・4月 北海道移住した旧谷中村民、帰郷請願書を栃木県知事に提出する

<1947年(昭和22)> 
・9月 渡良瀬川大洪水(カスリン台風)で被害甚大となる

<1956年(昭和31)>  
・2月 足尾銅山、自溶製錬設備が完成する

<1958年(昭和33)> 
・5月 源五郎沢堆積場が決壊し、水田6,000haが鉱毒被害を受ける
・8月 群馬県の三市三郡による渡良瀬川鉱毒根絶期成同盟会(会長・恩田正一)が結成される

<1968年(昭和43)>  
・3月 経済企画庁が、渡良瀬川の流水の水質基準を銅0.06ppmと決定する

<1971年(昭和46)>
・2月 群馬県毛里田地区産出米からカドミウムを検出する

<1972年(昭和47)> 
・3月 毛里田同盟会(第2代会長・板橋明治)政府の中央公害審査会(のちに公害等調整委員会に改組)に、損害賠償を求める調停を申請する
・11月 足尾銅山が、閉山計画を発表する

<1973年(昭和48)>  
・2月 足尾銅山の採掘中止(閉山)、ただし製錬事業は拡大の方針となる

<1974年(昭和49)>  
・5月11日 毛里田同盟会と古河、第12回調定で農作物減収補償調停が成立して調印、損害賠償額は15億5,000万円となる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1854年(嘉永7)江戸幕府と米国使節ペリーが横浜で「日米和親条約」に調印する(新暦3月31日)詳細
1860年(安政7)桜田門外の変で大老井伊直弼が水戸浪士らに襲われ殺される(新暦3月24日)詳細
1922年(大正11)部落解放運動の全国組織である全国水平社が結成される詳細
1933年(昭和8)昭和三陸地震が起こり、津波によって死者・行方不明者3,064名を出す詳細
1944年(昭和19)東条英機内閣で、「決戦非常措置要綱」に基づき、「一般疎開促進要綱」が閣議決定される詳細
東条英機内閣で、「決戦非常措置要綱ニ依ル大都市国民学校児童学校給食ニ関スル件」が閣議決定される詳細
1946年(昭和21)「物価統制令」が公布される詳細
1973年(昭和48)アメリカ合衆国のワシントンD.C.で、「ワシントン条約」が採択される詳細

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 今日は、明治時代後期の1901年(明治34)に、愛国婦人会の発会式が行われた日です。
 愛国婦人会(あいこくふじんかい)は、出征軍人の家族、遺族および傷痍軍人の援護を目的とした婦人団体でした。奥村五百子が、1900年(明治33)の義和団事件(北清事変)の戦地(北京、天津等)を慰問使として従軍した時、兵士に後顧の憂いをもたせてはいけないと感得したことが契機となります。
 奥村五百子が主唱し、下田歌子が趣意書を起草、39名の発起人が名を連ね、1901年(明治34)の創立時には、岩倉久子が会長となり、愛国婦人会規則が決定され、3月2日に発会式が行われました。当初は、戦死者の遺族と重傷痍軍人の救護を目的とし、婦人が半衿(はんえり)一掛を節約して会費を出し合い、それを弔慰金として寄贈することを主事業とします。
 1902年(明治35)に機関誌『愛国婦人』の発行が始まり、1903年(明治36)には、皇族妃の載仁親王妃智恵子を総裁に推戴しました。1904年(明治37)‎に、愛国婦人会定款が定められ、翌年には、会員を一般婦人にも拡張し、会員数は46万人に達します。
 1907年(明治40)に会員数が70万人となり、1917年(大正6)には、軍事救護活動だけでなく、広く社会的な事業を行えるよう定款を改正しました。その後、1923年(大正12)の関東大震災後の救済その他救護館の設立、婦人職業紹介、花嫁紹介など、幅広い活動を行います。
 1920年(大正9)に下田歌子が会長へ就任、1924年(大正13)には、総裁に東伏見宮妃周子が推戴され、会員数が129万人となりました。1931年(昭和6)に満州事変が起こり、会の活性化が課題となり、翌年には、組織改革により、支部の下にさらに分団や分会を設置し、婦人報国の趣旨に合致する社会的事業、愛国精神の涵養、公民訓練、会員の修養、娯楽の向上を行うようになり、未成年の女子を集めて愛国少女団や愛国処女団を結成します。
 1932年(昭和17)に軍部の作った「大日本国防婦人会」に対抗して婦人報国運動をおこし、地久節(皇后誕生日)奉仕や愛国貯金運動を行うようになり、戦時体制づくりに積極的に協力しました。1937年(昭和12)に、軍事扶助中央委員会の加盟団体となり、会員数は311万人余に達します。
 1938年(昭和13)の定款の改正で、「本会は軍事後援を為すを目的とす。前項の外本会は婦人報国の実を挙ぐるに必要なる事項を行ふことを得」となりました。1942年(昭和17)2月2日に、「大日本婦人会(日婦)」に統合され、発展的解消(解消時の会員は約400万人)をとげます。

〇愛国婦人会規則(抄)

第一条 本会は戦死及び準戦死者の遺族を救護する事、及び重大なる負傷者にして、廃人に属するを救護するを以て目的とす。
第二条 本会は愛国婦人会と称し、本部を東京に置き、支部を各地に置くものとす。
第三条 本会会員を分ちて下記の三種とす、
 一 名誉会員は皇族を推載す。
 二 特別会員は会費として、十ヶ月間毎年二円を納むるか、若しくは一時金十五円を納むるもの。
 三 通常会員は会費として、十ヶ月間毎年一円を納むるか、若しくは一時金七円を納むるもの。
   一時金二十銭以上納むるものを賛助員とす。
第四条 本会は多少に係わらず、有志者の寄付金を希望す。
第五条 本会に収入したる金円は、確実なる銀行に保管せしむものとす。
第六条 本会に収入したる金円は、総裁の允許を経て、被救護者へ贈与するものとす。
第七条 本会に下記の職員を置く。
    総裁 一名  会長 一名  理事 若干名  評議員 若干名
    各支部に下記の職員を置く。
    幹事長 一名  副幹事長 一名  幹事 若干名
第八条 本会は上記職員の外、有給事務職員若干名を置く。
第九条 会長及び理事は、評議員会に於て選挙し、総裁の允許を仰ぐものとす。但し任期は三年にして、再任することを得。評議員、幹事長、副幹事長、幹事は、会長及び理事推薦とし、総裁の允許を仰ぐものとす。
第十条 本会は毎年一回大会を開く。

 ※縦書きの原文を横書きにし、旧字を新字に直してあります。

〇愛国婦人会の発起人(39名)

公爵夫人一条悦子・公爵夫人岩倉久子・公爵二条洽子・公爵世継夫人九条恵子・公爵夫人近衛貞子・公爵夫人島津田鶴子・伯爵夫人大山捨松・伯爵夫人板垣絹子・伯爵世継夫人大谷章子・伯爵夫人大隅綾子・伯爵夫人松平充子・子爵夫人伊東美津子・子爵夫人岡辺?子・子爵夫人小笠原秀子・子爵夫人谷玖満子・子爵夫人松前藤子・男爵夫人花房千鶴子・男爵夫人千家俊子・伊集院千世子・鳩山春子・原礼子・濱尾作子・河野関子・片岡美游子・嘉納須磨子・武田錦子・山脇房子・山本たほ子・後閑菊野・江原縫子・跡見花蹊・佐藤猶子・佐方鎮子・相馬陸子・三輪田真佐子・島田信子・下田歌子・森村菊子

☆愛国婦人会関係略年表

・1901年(明治34)2月24日 奥村五百子(おくむらいおこ)により、愛国婦人会(会長:岩倉久子)が創立し、愛国婦人会規則が定められる
・1901年(明治34)3月2日 発会式が行われる
・1902年(明治35) 機関誌『愛国婦人』の発行が始まる
・1903年(明治36)3月20日 皇族妃の載仁親王妃智恵子を総裁に推戴する
・1904年(明治37)10月 愛国婦人会定款が定められる
・1905年(明治38) 会員を一般婦人にも拡張し、会員数は46万人に達する
・1907年(明治40) 会員数が70万人となる
・1917年(大正6) 軍事救護活動だけでなく、広く社会的な事業を行えるよう定款を改正する
・1920年(大正9) 会長に下田歌子が就任する
・1924年(大正13) 総裁に東伏見宮妃周子が推戴される、会員数が129万人となる
・1927年(昭和2) 会長に本野久子が就任する
・1931年(昭和6) 満州事変が起こり、愛国婦人会の活性化が課題となる
・1932年(昭和7) 組織改革により、支部の下にさらに分団や分会を設置し、婦人報国の趣旨に合致する社会的事業、愛国精神の涵養、公民訓練、会員の修養、娯楽の向上を行うようになり、未成年の女子を集めて愛国少女団や愛国処女団を結成する
・1936年(昭和11) 会員数が260万人となる
・1937年(昭和12) 愛国婦人会は軍事扶助中央委員会の加盟団体となり、会員数311万人余に達する
・1938年(昭和13)5月6日 愛国婦人会定款の改正で、「本会は軍事後援を為すを目的とす。前項の外本会は婦人報国の実を挙ぐるに必要なる事項を行ふことを得」となる
・1941年(昭和16)6月10日 定例閣議において、大日本連合婦人会および大日本国防婦人会の婦人3団体の統合要項が決められる
・1942年(昭和17)2月2日 「大日本婦人会(日婦)」に統合され、発展的解消(解消時の会員は約400万人)をとげる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

959年(天徳3)第64代の天皇とされる円融天皇の誕生日(新暦4月12日)詳細
1392年(元中9/明徳3)武将・守護大名・室町幕府管領細川頼之の命日(新暦3月25日)詳細
1884年(明治17)岡山県が旧藩主・池田家から買い取った岡山後楽園で一般公開が開始される詳細
1886年(明治19)「帝国大学令」が公布される詳細
1899年(明治32)北海道アイヌの「保護」を名目として、「北海道旧土人保護法」が公布(同年4月1日施行)される詳細
1943年(昭和18)敵性語をやめ、野球用語も全面日本語化することを職業野球の理事会で決定する詳細
1976年(昭和51)入換え仕業用の追分機関区の9600形が使用を終了、国鉄の営業用蒸気機関車(SL)の日常使用が終了する詳細
1997年(平成9)歴史学者竹内理三の命日詳細



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