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 今日は、安土桃山時代の1584年(天正12)に、小牧・長久手の戦いで、小牧山に徳川家康による急造の築塁が完成した日ですが、新暦では5月2日となります。
 小牧・長久手の戦い(こまき・ながくてのたたかい)は、安土桃山時代の1584年(天正12)に、尾張平野を主戦場に羽柴秀吉軍と織田信雄・徳川家康軍によって争われた戦いでした。織田信雄・徳川家康軍は小牧山に陣を固め、犬山城・楽田城を中心に布陣する羽柴秀吉軍と対峙します。
 羽黒の戦いなどがあったものの、3月末には、両軍が小牧付近にて対陣状態に陥入りました。そこで、池田恒興(勝入)は秀吉のもとを訪れて、「兵を三河に出して空虚を襲い各所に放火して脅威すれば徳川は小牧を守ることができなくなるであろう。」と献策します。
 それを受けて、秀吉はこれを許可し、4月6日に岡崎侵攻隊(第一隊池田恒興勢兵5,000人、第二隊森長可勢兵3,000人、第三隊堀秀政勢兵3,000人、第四隊羽柴秀次勢兵9,000人)が出発しました。7日に岡崎侵攻隊は、上条村に入って砦を築いて宿営しましたが、午後4時に篠木の住民が秀吉軍岡崎侵攻隊の駐屯を家康に密告します。
 これを聞いた家康は、午後7時に小牧を先遣隊に出発させ、午後10時に小幡城に入れ、午後8時には家康自身が9,300人の兵を率いて小牧山を出発し、小幡城へ入りました。8日に第四隊の羽柴秀次勢は行軍を再開しましたが、9日未明に白山林で徳川軍に攻撃されて敗走します。
 しかし、第三隊の堀秀政勢が救援に駆け付け、桧ヶ根において徳川軍を撃退したものの、家康の出現を知り後退しました。一方、第一隊の池田恒興勢は丹羽氏重が守備する岩崎城(現在の日進市)を陥落させましたが、徳川軍の出撃を知り、第二隊の森長可勢と共に、長久手付近で迎撃態勢を取ります。
 午前10時頃から両軍が戦端を開き、激戦が2時間余り続いたものの、第二隊長の森長可が狙撃されて討死して、左翼から崩れ始め、徳川軍優勢となる中、第一隊長の池田恒興も討死にし、総崩れとなりました。秀吉は戦況を知り、3万人の軍勢を率いて戦場へと急行しましたが、行く手を阻まれ、夕刻になって、「家康は小幡城にいる」との報を受けます。
 翌朝の攻撃を決めたものの、家康と信雄は夜間に、小幡城を出て小牧山城に帰還してしまったので、秀吉も楽田に退きます。その後、蟹江城合戦や楽田城・岩倉城の戦いなどがあり、尾張以外にも美濃西部、美濃東部、伊勢北部、紀伊、和泉、摂津など全国規模の合戦でしたが、勝敗は決せず、長期戦となったため講和を結んで終結しました。 

〇小牧・長久手の戦い関係略年表(日付は旧暦です)

<天正12年(1584年)>
・3月3日:信雄が秀吉と気脈を通じたとして家来の三老臣を殺害、三老臣の居城である星崎城・松ヶ島城・苅安賀城を攻め落とす
・3月7日:家康が信雄救援のため浜松城を出発する
・3月13日:家康が信雄の居城清須城に入って会談、池田恒興、犬山城を奇襲して奪取する
・3月17日:家康が羽黒の森長可を攻撃(羽黒の戦い)して、勝利をおさめる
・3月18日:家康が榊原康政に小牧山の築塁を命じる
・3月21日:秀吉が大坂城を発つ
・3月22日:小牧山の防御工事完了
・3月23日:蟹清水砦・北外山砦・宇田津砦が完成する
・3月24日:小幡と比良の旧城を修理し、三河と清須への連砦とする
・3月27日:秀吉が犬山城に入り、二重堀・岩崎・小松寺山・青塚・内久保等の砦を築かせる
・3月28日:家康が小牧山へ入る
・3月29日:信雄が小牧山へ入り、家康が田楽砦を築き、小牧山に通じる軍道を開く
・4月2日:秀吉軍が姥ヶ懐へ来襲する
・4月3日:家康軍が二重堀を奇襲する
・4月4日:秀吉が岩崎山と二重堀の間に長さ約2kmの土塁を築く、池田勝入が三河侵攻策を献策する
・4月5日:家康が小牧山北麗と八幡塚の間に土塁を築く
・4月6日:秀吉が犬山城から楽田砦へ本営を移し、秀吉軍の岡崎侵攻隊、尾張東部の丘陵地帯を迂回して岡崎方面への進軍を開始する
・4月7日:岡崎侵攻隊、上条村に入り、砦を築いて宿営、午後4時篠木の住民が秀吉軍岡崎侵攻隊の駐屯を家康に密告、午後7時徳川先遣隊が小牧を出発、午後8時には家康が小牧山を出発、小幡城へ入る
・4月8日:秀次勢は行軍を再開する
・4月9日:岡崎侵攻隊の先鋒池田隊、岩崎城を攻め落とす、三好隊白山林の戦いで敗走、桧ヶ根の戦い、長久手の合戦(昼合戦)において、森長可・池田恒興が戦死、午後5時秀吉が楽田砦を出発し竜泉寺に入る、午後8時家康が小幡城を出発し、小牧山へ戻る
・4月10日:秀吉が楽田に戻る
・4月14日:秀吉軍が羽黒の旧城を修復する
・5月1日:秀吉が青塚・楽田・犬山に一部を残して小牧より撤退する
・6月16日:前田与十郎、家康軍に背き、秀吉軍の滝川一益、九鬼嘉隆等を蟹江・前田・下市場の各城へ迎え入れる
・6月18日:家康軍が前田城を攻める
・6月19日:家康軍が下市場城を攻める
・6月22日:家康軍が蟹江城を攻める
・7月3日:家康軍が蟹江城を再び手中に収める
・8月19日:秀吉軍が小口・羽黒に兵を進める
・8月28日:秀吉軍が小折に兵を進める
・11月11日:信雄単独で秀吉と講和する
・11月16日:家康は大義名分失い、浜松へ戻る。  
・12月:家康が次男秀康を人質として秀吉に送る

<1586年(天正14年)>
・5月:秀吉が異父妹の旭姫(あさひひめ)を離縁させ、家康の正室として送り込む
・10月:家康が大阪城で秀康に謁見し臣従する

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

646年(大化2)「薄葬令」が発布される(新暦4月12日)詳細
1898年(明治31)『時事新報』に、福沢諭吉が執筆したとされる、社説「支那人親しむ可し」が掲載される詳細
1925年(大正14)東京放送局(現在のNHK東京放送局)がラジオ仮放送を開始する(放送記念日)詳細
1943年(昭和18)童話作家新見南吉の命日詳細
1997年(平成9) 新潟県の北越急行ほくほく線(六日町駅~犀潟駅)が開業し、北陸と東京を結ぶ最短ルートになる詳細
秋田新幹線・盛岡~秋田が開業し、「こまち」が運転開始される詳細
2005年(平成17)建築家・都市計画家・工学博士丹下健三の命日詳細
2007年(平成19)小説家・経済学者城山三郎の命日詳細

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 今日は、安土桃山時代の1586年(天正14)に、天正遣欧少年使節がポルトガルのリスボンを出港し、日本への帰途についた日ですが、新暦では4月13日となります。
 天正遣欧少年使節(てんしょうけんおうしせつ)は、宣教師バリニャーノの勧めによって、九州のキリシタン大名大村純忠、有馬晴信、大友宗麟の名代としてローマ教皇のもとに派遣された少年使節団です。織田信長の晩年に来日したイエズス会日本巡察師アレッサンドロ・バリニャーノは、インド、ローマへの帰還に当たり、日本人少年をキリシタン大名の使節としてヨーロッパに派遣することを勧めました。
 島原半島の有馬のセミナリヨに学んでいた少年4名(14~15歳)が選ばれ、正使には大友宗麟の名代として伊東マンショ、有馬晴信と大村純忠の名代として千々石(ちぢわ)ミゲルとし、中浦ジュリアン、原マルチノ両人を副使に任じます。1582年(天正10年1月28日)に、長崎港を出帆し、中国のマカオ、インドのゴアを経由し、1584年(天正12年7月5日)にポルトガルの首都リスボンに到着、サン・ロッケ教会が宿舎となりました。
 その後、スペインのマドリード、イタリアのフィレンツェを経て、1585年(天正13年2月)にローマ入りしました。同年3月23日に、使節らはローマ教皇グレゴリウス13世に謁見し、ローマ市民権を与えられるなど大歓迎を受け、援助を得ることに成功します。それからは、北イタリアの旅を続け、スペイン、ポルトガルを経て、翌年2月25日にリスボンを出港し、帰途につきました。
 1590年(天正18年6月20日)に使節団が帰国し、長崎港に到着します。前年には、大友宗麟、大村純忠が亡くなり、豊臣秀吉が「バテレン追放令」を発布するなどキリスト教に関する風向きが変わってきていました。
 しかし、翌年閏1月に一行はゴアから再来したバリニャーノとともに聚楽第で豊臣秀吉に謁見し、西洋音楽(ジョスカン・デ・プレの曲)を演奏しています。正副4使節はイエズス会に入りましたが、キリスト教に対する圧力が強まる中で、千々石ミゲルは棄教し、他の3名は司祭になったものの、伊東マンショは病死、中浦ジュリアンは殉教死、原マルティノは追放先のマカオで死去しました。
 この使節によって、ヨーロッパ・キリスト教世界に日本と日本人を知らしめた功績は大きく、彼らの持ち帰ったグーテンベルク印刷機によって、日本語書物の活版印刷が初めて行われ、キリシタン版と呼ばれています。

〇天正遣欧使節関係略年表

<1579年(天正7)>
・7月25日(新暦8月17日) アレッサンドロ・バリニャーノが口之津港へ来日する

<1581年(天正9)>
・2月23日(新暦3月27日) アレッサンドロ・バリニャーノとルイス・フロイスが織田信長に謁見する

<1582年(天正10)>
・1月28日(新暦2月20日) 天正遣欧使節が長崎港を出港する
・2月15日(新暦3月9日) マカオに到着し、風を待つ

<1583年(天正11)>
・11月7日(12月20日) マラッカ・コチンをへてインドのゴアに到着する

<1584年(天正12)>
・7月5日 (新暦8月10日) ポルトガルの首都リスボンに到着し、サン・ロッケ教会が宿舎となる
・10月23日(新暦11月25日) スペインの首都マドリードでスペイン国王フェリペ2世の歓待を受ける

<1585年(天正13)>
・1月30日(新暦3月1日) スペインのマヨルカ島を経由しイタリアのリヴォルノに到着、トスカーナ大公国に入る
・2月1日(新暦3月2日) ピサに到着し、ピサ宮殿にてトスカーナ大公フランチェスコ1世・デ・メディチに謁見する
・2月5日(新暦3月6日) カヴァリエーリ広場にあるサント・ステファノ・デイ・カヴァリエーリ教会にて聖ステファノ騎士団を見学する
・2月6日(新暦3月7日) フィレンツェに到着し、シニョーリア広場にあるヴェッキオ宮殿に宿泊する
・2月10日(新暦3月11日) フィレンツェ近郊にあるプラトリーノの別荘ヴィッラ・デミドフで過ごす
・2月22日(新暦3月23日) ローマでローマ教皇グレゴリウス13世に謁見し、ローマ市民権を与えられる
・4月2日(新暦5月1日) グレゴリウス13世の後を継いだシクストゥス5世の戴冠式に出席する
・5月6日(新暦6月3日) ローマを出発し、以後ヴェネツィア、ヴェローナ、ミラノなどの諸都市を訪問する

<1586年(天正14)>
・2月25日(新暦4月13日) ポルトガルのリスボンを出港し、帰途につく

<1587年(天正15)>
・4月23日(新暦5月29日) インドのゴアに到着し、ヴァリニャーノに再会、コレジオにおいて原マルティノの演説が行われる
・5月6日(新暦6月11日) 豊後において大友宗麟が死去する
・5月18日(新暦6月23日) 長崎で大村純忠が死去する
・6月19日(新暦7月24日) 豊臣秀吉が「バテレン追放令」を発布する

<1590年(天正18)>
・6月20日(新暦7月21日) 天正遣欧使節が帰国し、長崎港に到着する

<1591年(天正19)>
・閏1月8日(新暦3月3日) 聚楽第において豊臣秀吉を前に、西洋音楽(ジョスカン・デ・プレの曲)を演奏する

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

681年(天武天皇10)天武天皇が律令の制定(飛鳥浄御原令)を命じる(新暦3月19日)詳細
1415年(応永22)僧侶・浄土真宗中興の祖蓮如の誕生日(新暦4月13日)詳細
1902年(明治35)数学者・第6代大阪大学総長・武蔵学園学園長正田建次郎の誕生日詳細
1942年(昭和17)「戦時災害保護法」(昭和17年法律第71号)が公布される詳細
1944年(昭和19)東条英機内閣により、「決戦非常措置要綱」が閣議決定される詳細
1946年(昭和21)「金融緊急措置令」に基づいて新円を発行し、旧円と新円の交換が開始される詳細
1947年(昭和22)八高線高麗川駅付近で買い出しで満員の列車が転覆、死者184人を出す(八高線列車脱線転覆事故)詳細
1953年(昭和28)医師・歌人斎藤茂吉の命日(茂吉忌)詳細

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 今日は、安土桃山時代の1569年(永禄12)に、織田信長が「殿中御掟9か条」を室町幕府第15代将軍足利義昭に示した日ですが、新暦では1月30日となります。
 「殿中御掟」(でんちゅうおんおきて)は、織田信長が室町幕府第15代将軍足利義昭に承認させた掟です。1569年(永禄12年1月14)に9か条、2日後の16日に追加7か条が出されましたが、制定した後も義昭はこれを守ることをしなかったので、新たに、1570年(永禄13年1月23日)に5か条が追加され、計21か条となりました。
 これによって、義昭が勝手に諸大名へ書状を送ることがないようにして、必ず信長の副状をつけることや義昭がこれまで下した命令はいったん破棄し、再検討すべきことなどを定め、将軍としての権限を大幅に制約するものとなります。しかし、その後も義昭がこれらの殿中御掟を遵守した形跡もありませんでした。
 「殿中御掟」の追加を含めた21か条を現代語訳付で掲載しておきますからご参照下さい。

〇「殿中御掟9か条」 1569年(永禄12年1月14日)

・不断可被召仕輩、御部屋集、定詰衆同朋以下、可為如前々事
・公家衆、御供衆、申次御用次第可参勤事
・惣番衆、面々可有祗候事
・各召仕者、御縁へ罷上儀、為当番衆可罷下旨、堅可申付、若於用捨之輩者、可為越度事
・公事篇内奏御停事之事
・奉行衆被訪意見上者、不可有是非之御沙汰事
・公事可被聞召式目、可為如前々事
・閣申次之当番衆、毎事別人不可有披露事
・諸門跡、坊官、山門集、従医陰輩以下、猥不可有祗候、付、御足軽、猿楽随召可参事

    「仁和寺文書」

<現代語訳>

・御用係や警備係、雑用係などの同朋衆など下級の使用人は前例通りとする
・公家衆・御供衆・申次の者は、将軍の御用があれば直ちに伺候すること。
・惣番衆は、呼ばれなくとも出動しなければならない。
・幕臣の家来が御所に用向きがある際は、当番役のときだけにすること、それ以外に御所に近づくことは禁止する。
・訴訟は奉行人(幕臣)の手を経ずに幕府・朝廷に内々に挙げてはならない(従来のやり方の通りとする)。
・奉公衆が出した結論を将軍が一存で決めてはならない(従来のやり方の通りとする)。
・訴訟規定は従来通りとする。
・当番衆は、申次を経ずに何かを将軍に伝えてはならない。
・門跡や僧侶、比叡山延暦寺の僧兵、医師、陰陽師をみだりに殿中に入れないこと。足軽と猿楽師は呼ばれれば入ってもよい。

〇「殿中御掟追加7か条」 1569年(永禄12年1月16日)

・寺社本所領、当知行之地、無謂押領之儀堅停止事
・請取沙汰停止事
・喧嘩口論之儀被停止訖、若有違乱之輩者、任法度旨、可有御成敗事、付、合力人同罪
・理不尽入催促儀堅停止事
・直訴訟停止事
・訴訟之輩在之者、以奉行人可致言上事
・於当知行之地者、以請文上可被成御下知事

    「仁和寺文書」

<現代語訳>

・(幕臣が)寺社本所領を押領することを停止すること
・請取沙汰を停止する事
・喧嘩口論の禁止、違反する者は法をもって成敗する。これに合力するものは同罪
・理不尽に催促する事の禁止
・将軍が訴訟を直接取り扱う事を禁止
・もし訴訟をしたいのであれば奉行人を通すこと
・占有地については関係を把握して差配すること

〇「殿中御掟追加5か条」1570年(永禄13年1月23日)

・諸国へ御内書を以て仰せ出さる子細あらば、信長に仰せ聞せられ、書状を添え申すべき事
・御下知の儀、皆以て御棄破あり、其上御思案なされ、相定められるべき事
・公儀に対し奉り、忠節の輩に、御恩賞・御褒美を加えられたく候と雖も、領中等之なきに於ては、信長分領の内を以ても、上意次第に申し付くべきの事
・天下の儀、何様にも信長に任置かるるの上は、誰々によらず、上意を得るに及ばず、分別次第に成敗をなすべきの事
・天下御静謐の条、禁中の儀、毎時御油断あるべからざるの事

<現代語訳>

・諸国の大名に御内書を出す必要があるときは、必ず信長に報告して、信長の書状(副状)も添えて出すこと。
・これまでに義昭が諸大名に出した命令は全て無効とし、改めて考えた上でその内容を定めること。
・将軍家に対して忠節を尽くした者に恩賞・褒美をやりたくても、将軍には領地がないのだから、信長の領地の中から都合をつけるようにすること。
・天下の政治は何事につけてもこの信長に任せられたのだから、(天下静謐のための軍事的行動について信長は)誰かに従うことなく、将軍の上意を得る必要もなく、信長自身の判断で成敗を加えるべきである。
・天下が泰平になったからには、宮中に関わる儀式などを将軍に行って欲しいこと。

  「ウィキペディア」より

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

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1866年(慶応2)兵法家・砲術家・高島流砲術の創始者高島秋帆の命日(新暦2月28日)詳細
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1943年(昭和18)米国のF・ルーズベルトと英国のW・チャーチルによる、カサブランカ会談(~23日)が始まる詳細
1953年(昭和28)人類学者・考古学者・民族学者鳥居龍蔵の命日詳細
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1996年(平成8)法学者・弁護士於保不二雄の命日詳細

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 今日は、安土桃山時代の1588年(天正16)に、室町幕府最後の将軍・足利義昭が官職を辞し、准三宮の待遇を受け、室町幕府が名目上も滅亡した日ですが、新暦では2月9日となります。
 足利 義昭】(あしかが よしあき)は、室町幕府第15代将軍です。戦国時代の1537年(天文6年11月3日)に、京都において、室町幕府第12代将軍の父・足利義晴の次男(母は近衛尚通の娘)として生まれました。
 1562年(永禄5)に、尚通の子稙家の猶子として奈良一乗院門跡となり覚慶(かくけい)と称します。1565年(永禄8)に第13代将軍であった兄・義輝らが、三好三人衆に暗殺されると同院内に軟禁されました。
 しかし、細川藤孝(幽斎)らの活躍で一乗院を脱出し、近江の和田惟政を頼り、翌年還俗して義秋と称します。その後、若狭を経て越前に移り、1568年(永禄11)に一乗谷の朝倉義景の館で元服して義昭と改名しました。
 同年7月には美濃に入り織田信長の食客となり、同年9月信長に擁立されて入京し、室町幕府第15代将軍に就任します。しかし、信長としばしば対立するようになり、1569年(永禄12)に、信長は「殿中御掟」という9ヶ条の掟書を認めさせ、さらに翌年には5ヶ条を追加して、政治行動を規制されました。
 1572年(元亀3)には信長との手切れを決意し、浅井長政、朝倉義景、武田信玄らの力をかりて、近江に挙兵します。翌年に正親町天皇の調停でいったん講和が成りましたが、再び山城槇島城に挙兵しました。
 すぐに信長に攻められ、子義尋を質として降伏し、京都を追われて河内若江城に移り、室町幕府は崩壊します。以後も紀伊由良、備後鞆と流寓し、毛利氏を頼って再起を図るも果たせませんでした。
 それでも、1582年(天正10)の本能寺の変で信長が明智光秀に討たれた後は、後継者の豊臣秀吉によって帰京を認められ、1588年(天正16)に、山城国(京都)に帰還、出家して准三宮の宣下を受け皇族と同等の待遇を得ます。1万石の知行を与えられ、1592年(文禄元)の文禄の役では、肥前名護屋に従軍しましたが、病を得て、1597年(慶長2年8月28日)に大坂において、数え年61歳で亡くなりました。

〇足利義昭関係略年表(日付は旧暦です)

・1537年(天文6年11月3日) 京都において、室町幕府第12代将軍の父・足利義晴の次男として生まれる
・1562年(永禄5年) 近衛尚通の子稙家の猶子として奈良一乗院門跡となり覚慶と称する
・1565年(永禄8年) 第13代将軍であった兄・義輝らが、三好三人衆に暗殺されると一乗院内に軟禁される
・1565年(永禄8年7月) 細川藤孝(幽斎)らの活躍で、一乗院を脱出する
・1565年(永禄8年11月21日) 近江国野洲郡矢島村に進出し、在所(矢島御所)とする
・1566年(永禄9年2月17日) 矢島御所において還俗し、義秋と称する
・1566年(永禄9年4月21日) 従五位下に叙し、左馬頭に任官する
・1568年(永禄11年4月) 一乗谷の朝倉義景の館で元服し、義昭と改名する
・1568年(永禄11年7月) 近江を経て美濃立政寺に入る
・1568年(永禄11年9月) 織田信長に奉じられて入京する
・1568年(永禄11年10月18日) 従四位下に昇叙し、参議に補任、左近衛中将を兼任、室町幕府第15代将軍となる
・1569年(永禄12年1月14日) 信長により「殿中御掟」という9ヶ条の掟書を認めさせられる
・1569年(永禄12年6月22日) 従三位に昇叙し、権大納言に栄進する
・1570年(永禄13年1月) 信長により、5ヶ条を追加されて、さらに政治行動を規制される
・1571年(元亀2年) 上杉輝虎(謙信)や毛利輝元、本願寺顕如や甲斐国の武田信玄、六角義賢らに御内書を下しはじめる
・1572年(元亀3年10月) 近江にて挙兵する
・1573年(元亀4年4月5日) 正親町天皇の調停でいったん講和する
・1573年(元亀4年7月3日) 南山城の要害・槇島城で再び挙兵する 
・1573年(元亀4年7月18日) 織田軍の攻撃により、槇島城は落城し、京都より追放されて河内若江城に移り、室町幕府が実質的に滅ぶ
・1574年(天正2年) 紀伊国の興国寺に移り、ついで田辺の泊城に移る
・1576年(天正4年) 毛利輝元を頼り、その勢力下であった備後国の鞆に移る
・1587年(天正15年) 備後国沼隈郡津之郷の田辺寺で、九州平定に向かう途中の豊臣秀吉と対面する
・1588年(天正16年1月13日) 山城国(京都)に帰還、出家して准三宮の宣下を受け皇族と同等の待遇を得ることで、室町幕府が名目上も滅亡する
・1592年(文禄元年) 文禄の役では、肥前名護屋に従軍する
・1597年(慶長2年8月28日) 大坂において、数え年61歳で亡くなる

☆室町幕府(むろまちばくふ)とは?

 足利氏が京都に開いた幕府による武家政権です。1336年(建武3)に、足利尊氏が建武式目を制定して武家政権開設の方向を示し、1338年(建武5)に征夷大将軍の宣下を受けて、名実ともに幕府の発足となりました。
 しかし、南北朝の対立が起こって、不安定だったものの、3代将軍義満に至って、南北朝の統一を果たし、全国政権となったのです。しかし、守護の台頭により動揺が絶えず、1441年(嘉吉元)赤松満祐が6代将軍足利義教を殺害する事件(嘉吉の乱)も起こりました。
 その後も、1467年(応仁元)に起こった応仁の乱以降戦乱が続いて、著しく幕府は弱体化したのです。そして、1573年(天正16)に織田信長によって、15代将軍足利義昭が追放されて、室町幕府は滅ぶことになりました。

☆室町幕府の歴代将軍(足利家)一覧

【初代】尊氏(たかうじ)1338年(建武5)~1358年(延文3)
・1338年 足利尊氏が征夷大将軍となり室町幕府を開く
・1341年 天龍寺船を元へ送る
・1348年 四条畷の戦いが起こる
・1350年 観応の擾乱が起こる
・1352年 観応半済令が出される

【2代】義詮(よしあきら)1358年(貞治6)~1367年(延文3) 
・1366年 貞治の変が起こる

【3代】義満(よしみつ)1368年(応安元)~1394年(応永元)
・1368年 応安半済令が出される
・1391年 明徳の乱が起こる
・1392年 南北朝が合一する

【4代】義持(よしもち)1394年(応永元)~1423年(応永30)
・1397年 義満が京都の北山に金閣寺を建てる
・1399年 応永の乱がおこる
・1404年 勘合貿易が始まる

【5代義量(よしかず)1423年(応永30)~1425年(応永32)
 空白 4代義持が代理 1425年(応永32)~1428年(応永35)

【6代】義教(よしのり)1429年(正長2)~1441年(嘉吉元)
・1428年 正長の土一揆が起こる
・1429年 播磨の土一揆が起こる
・1438年 永享の乱が起こる
・1440年 結城合戦が起こる
・1441年 赤松満祐が6代将軍足利義教を殺害する

【7代】義勝(よしかつ)1442年(嘉吉2)~1443年 (嘉吉3)
【8代】義政(よしまさ)1449年(文安6)~1473年(文明5)
・1467年 応仁の乱がおこる

【9代】義尚(よしひさ)1473年(文明5)~1489年(長享3)
・1485年 山城国一揆が起こる
・1488年 加賀の一向一揆が起こる
・1489年 義政が京都東山に銀閣寺を建てる
 空白 8代義政が代理 1489年(長享3)~1490年(延徳2)

【10代】義稙(よしたね)1490年(延徳2)~1493年(明応2)

【11代】義澄(よしずみ)1494年(明応3)~1508年(永正5)
・1495年 北条早雲が小田原城を奪取する
 (再) 義稙(よしたね)1508年(永正5)~1521年(大永元)
・1510年 朝鮮三浦の日本人が富山浦を攻略(三浦の乱)

【12代】義晴(よしはる)1521年(大永元)~1546年(天文15)
・1523年 寧波の乱が起こる
・1543年 ポルトガル人が九州の種子島に鉄砲を伝える(鉄砲伝来)

【13代】義輝(よしてる)1546年(天文15)~1565年(永禄8)
・1549年 フランシスコ・ザビエルが鹿児島に来る
・1550年 ポルトガル船、肥前平戸に入港する
・1553年 第4次川中島の戦いが起こる
・1555年 厳島の戦いが起こる
・1560年 桶狭間の戦いが起こる
・1567年 織田信長が美濃加納に楽市令を出す

【14代】義栄(よしひで)1568年(永禄11)~1568年(永禄11)

【15代】義昭(よしあき)1568年(永禄11)~1573年(天正16)
・1568年 織田信長の後押しで義昭が将軍に就く
・1570年 姉川の戦いが起こる
・1571年 比叡山の焼き討ちが起こる
・1572年 三方ヶ原の戦いが起こる
・1573年 織田信長に義昭が追放され、室町幕府が実質的に滅ぶ
・1588年 足利義昭が官職を辞し、准三宮の待遇を受け、室町幕府が名目上も滅亡する

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1199年(建久10)鎌倉幕府初代将軍源頼朝の命日(新暦2月9日)詳細
1653年(承応2)町人清右衛門が建議した多摩川から江戸への導水路(玉川上水)着工が許可される(新暦2月10日)詳細
1943年(昭和18)ジャズなど英米の音楽が「敵性音楽」とされ演奏・レコード発売が禁止になる詳細
1945年(昭和20)東海地方で三河地震(M6.8)が起き、死者・行方不明者2,306人を出す詳細
1966年(昭和41)「古都における歴史的風土の保存に関する特別措置法」(古都保存法)が公布される詳細
1976年(昭和51)小説家・劇作家舟橋聖一の命日詳細
1992年(平成4)共和汚職事件で自民党の阿部文男衆議院議員(元北海道・沖縄開発庁長官)が逮捕される詳細
2001年(平成13)文芸評論家本多秋五の命日詳細
 

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 今日は、安土桃山時代の1592年(文禄元)に、豊臣秀吉が、朝鮮を経て明へ出兵する為の出陣令(朝鮮出兵・文禄の役)を発布した日ですが、新暦では2月17日となります。
 文禄の役(ぶんろくのえき)は、安土桃山時代の豊臣秀吉による二度にわたる朝鮮への侵攻の最初の戦い(2度目は慶長の役)のことで、朝鮮では壬辰の倭乱(2度目は丁酉の倭乱)と呼んでいます。1587年(天正15)に、秀吉は、対馬の宗氏を通じて、朝鮮に対し入貢と明出兵の先導を求めるものの、朝鮮側は拒否をしました。
 そこで、1592年(天正20年1月5日)に、秀吉が、朝鮮を経て、明国への出兵指令を諸大名に下します。同年3月、肥前名護屋を本営として小西行長・加藤清正・小早川隆景ら15万余の大軍を渡海させ、漢城(現在のソウル)を陥落させ、さらに北上して、碧蹄館の戦で明軍を破りました。
 しかし、明の援軍と朝鮮義兵の抵抗により戦局は膠着し、同年4月に、竜山停戦協定の成立に伴い撤退します。秀吉は、同年6月に明帝の娘を后妃に迎えること、勘合船を復活すること、朝鮮を割譲することなどの「和議七か条」を講和条件として決定させましたが、遵守されないで終わりました。
 そこで、1597~98年(慶長2~3年)の慶長の役が起こることとなります。

〇朝鮮出兵(文禄・慶長の役)とは?
 
 安土桃山時代の豊臣秀吉による二度にわたる朝鮮への侵攻のことで、文祿・慶長の役とも呼ばれ、朝鮮では壬辰・丁酉の倭乱と呼んでいます。1592~93年(天正20/文禄元~2)と1597~98年(慶長2~3)の2度にわたる朝鮮侵略があり、前者を文禄の役、後者を慶長の役と分けて、呼ばれてきました。
 1587年(天正15)に、秀吉は、対馬の宗氏を通じて、朝鮮に対し入貢と明出兵の先導を求めるものの、朝鮮側は拒否をします。そこで、1592年(天正20年1月5日)に、秀吉が、朝鮮を経て、明国への出兵指令を諸大名に下しました。
 同年3月、肥前名護屋を本営として小西行長・加藤清正・小早川隆景ら15万余の大軍を渡海させ、漢城(現在のソウル)を陥落させ、さらに北上して、碧蹄館の戦で明軍を破ります。しかし、明の援軍と朝鮮義兵の抵抗により戦局は膠着し、同年4月に、竜山停戦協定の成立に伴い撤退しました。
 秀吉は、同年6月に明帝の娘を后妃に迎えること、勘合船を復活すること、朝鮮を割譲することなどの「和議七か条」を講和条件として決定させましたが、遵守されないで終わります。1596年(慶長元)に、大坂城に来た明使の書中に秀吉を日本国王に封じるという言があり、秀吉は大いに怒って、翌年に、和議を破って、再度の出兵を命じ、慶長の役が始まりました。
 14万の軍兵をもって再征しましたが、明軍の出動と朝鮮民衆の抵抗に苦しみ、水軍を率いた李舜臣の活躍などもあって苦戦が続きます。1598年(慶長3年8月)の秀吉の死により、停戦協定が結ばれ、同年11月の島津勢の撤退を最後に、7年間にわたる戦争は終結しました。
 これによって、戦場となった朝鮮では耕地が3分の1に減少し、人口の減少や文化財の略奪がみられ、朝鮮を援助した明の国力も衰え、明朝衰退の一因ともなります。日本では、豊臣政権の崩壊が進んだものの、文化的には、強制連行された多数の朝鮮人により印刷・陶業の新技術が発達し、多くの典籍ももたらされました。

☆朝鮮出兵(文禄・慶長の役)関係略年表

<1587年(天正15)>
・秀吉、対馬の宗氏を通じて、朝鮮に対し入貢と明出兵の先導を求めるものの、朝鮮側は拒否をする

<1592年(天正20/文禄元)>
・1月5日 豊臣秀吉が、朝鮮を経て、明国へ出兵指令を諸大名に下す
・4月中旬 日本軍のおびただしい日本の兵船が釜山に至り上陸する
・4月末 朝鮮国王宣祖が、明の援軍を仰ぐことにして首都ソウル(漢城)を脱出する
・5月初旬 第一軍の小西行長小西行長、第二軍の加藤清正加藤清正と共に漢城に入り、玉浦海戦では、李舜臣李舜臣と藤堂高虎藤堂高虎水軍が戦う
・5月下旬 泗川海戦:李舜臣、秘蔵の亀甲船で日本水軍を撃破する
・6月初旬 第一軍の行長・宗義智宗義智と第三軍の黒田長政黒田長政、平壌に侵入し、栗浦海戦で、李舜臣、来島兄弟水軍を撃破する
・6月中旬 第二軍の清正・鍋島直茂鍋島直茂、咸鏡道に侵入する
・7月初旬 錦山の戦いで、権慄・郭再祐・金誠一ら朝鮮連合軍、第六軍の小早川隆景小早川隆景の全羅道侵入を阻止、 閑山島海戦で、李舜臣と脇坂安治脇坂安治水軍が戦い、安骨浦海戦では、李舜臣が、九鬼嘉隆九鬼嘉隆・加藤嘉明加藤嘉明水軍を撃破する
・7月中旬 明の祖承訓が、行長籠る平壌城を攻めるが敗退する
・7月下旬 大政所(秀吉の母)が死去する
・9月 釜山浦海戦で、李舜臣が、日本軍本陣を襲撃し、明軍到来に危機を感じた小西行長、明の沈惟敬と交渉し50日間の停戦協定を締結する
・10月 第一次晋州城の戦いで、金時敏朝鮮軍と細川忠興細川忠興ら日本軍が戦う
・12月8日 文禄に改元される

<1593年(文禄2)>
・1月初旬 平壌の戦いで明の李如松と行長軍が戦い、これにより交渉が決裂する
・1月下旬 碧蹄館の戦いで、明の李如松と小早川隆景・立花宗茂立花宗茂ら日本軍が戦う
・2月 幸州山城の戦いで、朝鮮軍の権慄と宇喜多秀家宇喜多秀家ら日本軍が戦い、熊川の戦いではね李舜臣が、5回に渡り、脇坂・九鬼・加藤嘉明水軍ら襲撃する
・3月 日本軍、窮地に陥り撤退を決定し、小西行長と沈惟敬の交渉が再開される
・5月 明使節が初来日し、秀吉、明の皇女を日本の天皇の妃にするなどの「和議七ヶ条」を示す
・6月 第二次晋州城の戦いで、日本軍、城内の軍民六万を虐殺する
・7月 一時休戦に入る
・8月 日本軍の帰国が相次ぎ、李舜臣、慶尚・全羅・忠清三道水軍統制使となる
・10月 行長と沈惟敬、秀吉の「和議七か条」が理不尽な内容だったので秀吉の降伏文書を勝手に作成する

<1594年(文禄3)>
・3月 秀吉、大坂城を秀頼に与えるため、伏見(桃山)に城を築く
・12月 行長の家臣・内藤如安が、「秀吉の降伏文書」を携えて、北京で明皇帝に拝謁する

<1596年(文禄5/慶長元)>
・9月 大坂城に来た明使の書中に秀吉を日本国王に封じるという言があり、秀吉は大いに怒る
・10月27日 慶長に改元される

<1597年(慶長2)>
・1月 豊臣秀吉秀吉が、諸将に朝鮮再派兵を命ずる
・2月 明も朝鮮へ再派兵する
・7月 漆川梁海戦で、元均が、李舜臣なしで日本水軍に挑む、李舜臣、三道水軍統制使に復帰する
・8月 南原の戦いで、日本軍による、大量殺戮と鼻切りが行われる
・9月 稷山の戦いで、経略・楊鎬の指令により明軍が、首都ソウル(漢城)侵入を企む黒田長政黒田長政・毛利秀元らを迎え撃ち、鳴梁海戦で李舜臣率いる一三隻と藤堂高虎藤堂高虎・脇坂安治脇坂安治ら133隻の戦いが起きる
・12月 蔚山の戦いで、明・朝鮮軍が、蔚山倭城を包囲し、加藤清正加藤清正・浅野幸長ら籠城戦を展開する

<1598年(慶長3)>
・8月18日 秀吉が亡くなる
・10月1日 泗川の戦いで、明軍と島津義弘島津義弘軍が戦う
・10月15日 秀吉の死は秘匿されたまま、五大老による帰国命令が発令される
・11月10日 順天の戦いで、明の劉綖・陳璘と朝鮮の権慄・李舜臣連合軍、陸海から小西行長小西行長の順天倭城を囲み、帰国の退路を押さえる
・11月18日 露梁海戦で、李舜臣と陳璘と島津義弘・立花宗茂立花宗茂・宗義智宗義智水軍が戦う
・11月25日 島津勢の撤退を最後に、7年間にわたる戦争は終結する

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

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