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 今日は、鎌倉時代の1246年(寛元4)に、鎌倉幕府執権・北條經時が重病の為、弟の北条時頼が第5代執権に就任した日ですが、新暦では4月10日となります。
 執権(しっけん)は、元々は、権力を握ることで、政務を執行する者という意味でしたが、鎌倉時代には、鎌倉幕府で将軍を補佐し、幕政を統轄した職名となります。幕府成立期には政所の別当大江広元のことを執権といっていましたが、3代将軍源実朝の時代には、北条時政も政所別当の地位について2人となり、時政の権力が勝ると共に、執権と称して幕府の実権を掌握するようになります。
 時政の後、北条義時がその地位を継承しますが、1213年(建保元)に侍所別当であった和田義盛を滅亡させ、政所と侍所の両別当を兼ねて幕政を統轄するようになり、事実上幕政の最高権力者となりました。これによって、将軍はまったく名目的な存在となり、以後北条氏が独占的に執権の地位を世襲し、権力を掌握します。
 連署、評定衆、引付衆らを率いて幕政を統轄し、1333年(元弘3/正慶2)の鎌倉幕府滅亡まで続きました。

〇鎌倉幕府の歴代執権(北条家)一覧

【初代】時政(ときまさ)1203年~1205年(建仁3~元久2)
・1203年(建仁32) 源実朝が第3代将軍となる
・1205年(元久2) 藤原定家らが「新古今和歌集」を編さんする

【2代】義時(よしとき)1205年~1224年(元久2~貞応3)
・1219年(承久元) 鶴岡八幡宮で源実朝が甥の公暁に暗殺され、源氏が3代で絶える
・このころ、「保元物語」、「平治物語」ができる
・1221年(承久3) 承久の乱が起きる
・1221年(承久3) 京都に六波羅探題をおく
・1224年(貞応3) 親鸞が浄土真宗を広める

【3代】泰時(やすとき)1224年~1242年(貞応3~仁治3)
・1225年(嘉禄元) 評定衆が設置される
・1227年(安貞元) 道元が宋より帰り、曹洞宗を伝える
・1232年(貞永元) 御成敗式目(貞永式目)がつくられる
・このころ、「平家物語」「小倉百人一首」「源平盛衰記」などが著される

【4代】経時(つねとき)1242年~1246年(仁治3~寛元4)

【5代】時頼(ときより)1246年~1256年(寛元4~康元元)
・1247年(宝治元) 宝治合戦が起きる
・1249年(建長元) 引付衆が設置される
・1252年(建長4) 鎌倉に大仏ができる
・1253年(建長5) 南宋より蘭渓道隆を招いて鎌倉に建長寺を建てる
・このころ、日蓮が法華経(日蓮宗)を広める

【6代】長時(ながとき)1256年~1264年(康元元~文永元)
・1260年(文応元) 日蓮が「立正安国論」を著す
・1261年(弘長元) 日蓮が伊豆に流される

【7代】政村(まさむら)1264年~1268年(文永元~文永5)

【8代】時宗(ときむね)1268年~1284年(文永5~弘安7)
・1268年(文永5) 元の使者を追い返す
・1274年(文永11) 第1回元寇(文永の役)が起きる
・1275年(文永12)  異国警固番役が設置される
・1279年(弘安2) 一遍が踊念仏を始める
・1281年(弘安4) 第2回元寇(弘安の役)が起きる
・1282年(弘安5) このころ、阿仏尼が「十六夜日記」を著す

【9代】貞時(さだとき)1284年~1301年(弘安7~正安3)
・1285年(弘安8) 霜月騒動が起きる
・1293年(永仁元) 鎮西探題が設置される
・1297年(永仁5) 幕府が徳政令を出し、御家人の困苦を救う(永仁の徳政令)

【10代】師時(もろとき)1301年~1311年(正安3~応長元)

【11代】宗宣(むねのぶ)1311年~1312年(応長元~応長2)

【12代】煕時(ひろとき)1312年~1315年(応長2~正和4)

【13代】基時(もととき)1315年~1316年(正和4~正和5)

【14代】高時(たかとき)1316年~1326年(正和5~正中3)
・1317年(文保元) 文保の和談が行われる
・1318年(文保2) 後醍醐天皇が即位する
・1324年(正中元) 正中の変が起きる

【15代】貞顕(さだあき)1326年(正中3)

【16代】守時(もりとき)1326年~1333年(正中3~元弘3)
・1331年(元弘元) 元弘の変が起きる
・1332年(元弘2) 後醍醐天皇が隠岐に流される
・1333年(元弘3) 鎌倉幕府が滅びる

☆北条時頼(ほうじょう ときより)とは?

 鎌倉幕府第5代執権です。鎌倉時代の1227年(安貞元年5月14日)に、鎌倉において、六波羅探題北方に任じられた父・北条時氏(鎌倉幕府3代執権・北条泰時の長男)の次男(母は安達景盛の娘)として生まれましたが、幼名は戒寿と言いました。
 1230年(寛喜2)に3歳で父が亡くなったため、祖父・北条泰時に養育されることになります。1237年(嘉禎3)に11歳で元服して、五郎時頼を名乗り、左兵衛少尉に任官しました。
 1243年(寛元元)に左近将監従五位下となり、1246年(寛元4)には兄経時の病気隠退のあとを受け、第5代執権に就任しました。その直後、同族名越光時らの陰謀を押えて一味を追放、翌年には、安達氏と協力して、光時と意を通じた三浦一族を挑発してこれを滅ぼします(宝治合戦)。
 さらに、1252年(建長4)に第5代将軍藤原頼嗣を廃して宗尊親王を迎える(親王将軍の始まり)など、北条氏の権力確立に努めました。1249年(建長元)に相模守となり、引付衆を置き裁判の迅速公平を図るなど、幕政の刷新を図ります。
 一方、1253年(建長5)には、13ヶ条の新制で撫民のことを定め農民の保護に努めるなど善政を敷いたとされてきました。また、禅宗にも深い関心を抱き、同年に宋僧蘭渓道隆を招いて、鎌倉に建長寺を建てています。
 1256年(康元元)に病により、家督を6歳の時宗に譲り、最明寺で出家、法名を覚了房道崇としたものの、出家後も幕政に参与しました。その後、諸国を回り民政を視察したという伝説が生じましたが、1263年(弘長3年11月22日)に、鎌倉の最明寺北亭において、数え年37歳で亡くなっています。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1238年(暦仁元)僧・浄光が鎌倉大仏(木造仏)の建立を開始する(新暦5月8日)詳細
1883年(明治16)陶芸家・篆刻家・料理研究家・書家・画家北大路魯山人の誕生日詳細
1898年(明治31)東京市本郷区で本郷大火があり、1,478戸を焼失する詳細
1945年(昭和20)小磯国昭内閣が「国民義勇隊」結成を閣議決定する詳細
1950年(昭和25)世界気象機関(WMO)が設立される(世界気象デー)詳細
1979年(昭和54)漫画家近藤日出造の命日詳細
1981年(昭和56)国語審議会が当用漢字表に代わる「常用漢字表」を答申する詳細
2013年(平成25)全国10種類の交通系ICカードで、交通系ICカード全国相互利用サービスが開始される詳細

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 今日は、鎌倉時代の1268年(文永5)に、鎌倉幕府が蒙古来襲(元寇)に備えて西国御家人らに防備を命じた日ですが、新暦では4月10日となります。
 元寇(げんこう)は、鎌倉時代中期に、当時大陸を支配していたモンゴル帝国およびその属国である高麗王国によって2度にわたり行われた日本への侵攻のことで、蒙古襲来ともいいます。1回目の1274年(文永11)のを文永の役、2回目の1281年(弘安4)のを弘安の役と呼ばれてきました。
 台風の襲来によるモンゴル軍側の損害もあって、2度とも撤退しています。2回の元寇の後、鎌倉幕府は博多湾の防備を強化しましたが、この戦いで日本側が物質的に得たものは無く、恩賞は御家人たちに満足のいくものではありませんでした。
 モンゴル軍の再度の襲来に備えて御家人の統制が進められましたが、戦費で窮迫した御家人達は借金に苦しむようになります。やむを得ず幕府は「永仁の徳政令」などを発布して御家人の困窮対策にしようとしましたが、御家人の不満は解消されず、鎌倉幕府に対して不信感を抱くものが増えていきました。
 これらの動きはやがて大きな流れとなり、鎌倉幕府滅亡の原因の一つになったと言われています。

〇元寇関係略年表(日付は旧暦です)

<1266年(弘長元)>
・11月 第1回の蒙古の使節が日本を訪れ国書(蒙古国牒状)を持参したが、高麗から帰国する

<1268年(文永5)>
・1月 第2回の蒙古の使節が日本を訪れ国書(蒙古国牒状)を持参し、大宰府で渡す
・2月27日 鎌倉幕府が蒙古来襲(元寇)に備えて西国御家人らに防備を命じる

<1269年(文永6)>
・2月 第3回の蒙古の使節が日本を訪れるが幕府は入国を許さず、使節は対馬の住民を拉致して帰国した
・9月 第4回の蒙古の使節が拉致した対馬の住民を護送する使者が大宰府を訪れる

<1271年(文永8)>
・9月 第5回の蒙古の使節が日本の大宰府を訪れ国書を持参した

<1272年(文永9)
・2月または4月 第6回の蒙古の使節が日本を訪れ国書を持参した

<1274年(文永11)>
・10月3日 蒙古軍が大小900の船団を率いて出航する
・10月5日 蒙古軍が対馬に上陸して、多くの島民を殺害する
・10月14日 蒙古軍が壱岐に上陸して、多くの島民を殺害する
・10月16-17日 蒙古軍が肥前沿岸に襲来する
・10月20日 蒙古軍が博多湾に襲来するが、激戦の末に蒙古軍を撃退する(文永の役終了)

<1275年(建治元)>
・9月7日 服属を求めに来た元の使者を北条時宗は鎌倉で処刑し、元の襲来に備え博多湾岸に石築地を築かせる
・11月 鎌倉幕府は元の襲来を防ぐ目的での朝鮮出兵、高麗遠征計画を立てて、金沢実政が九州に下向する

<1276年(建治2)>
・3月10日 鎌倉幕府が、蒙古再来に備えて築前の海岸に石塁(石築地)を築かせるように指示する
・8月 元寇防塁(石築地)が、ほぼ完成する

<1281年(弘安4)>
・5月3日 蒙古軍が日本に向けて朝鮮を出発する
・5月21日 蒙古軍が対馬に上陸したものの、日本軍の激しい抵抗を受ける
・5月26日 蒙古軍が壱岐に上陸する
・6月8日 志賀島に上陸した蒙古軍を日本軍が攻撃して、蒙古軍は敗走する
・6月14日 蒙古軍が長門に襲来する
・6月29日 壱岐島に駐留する蒙古軍に対して日本軍が攻撃する
・7月2日 壱岐島に駐留する蒙古軍に対して日本軍が再度攻撃し、蒙古軍は平戸島に退却する
・7月27日 鷹島の沖合に停泊していた蒙古軍船に対して日本軍が攻撃する
・7月30日 台風が襲来し、蒙古軍の軍船の多くが沈没・損壊する
・閏7月5日 蒙古軍は撤退を決定する
・閏7月7日 鷹島に残留する蒙古軍10万に対して、日本軍は総攻撃しこれを壊滅する(弘安の役終了)

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1594年(文禄3)豊臣秀吉による吉野の花見が開宴される(新暦4月17日)詳細
1657年(明暦3)徳川光圀が『大日本史』の編纂に着手する(新暦4月10日)詳細
1754年(宝暦4)江戸幕府の命で薩摩藩が木曾川の治水工事(宝暦治水)に着手(新暦3月20日)詳細
1875年(明治8)日本初の近代的植物園・小石川植物園が開園する詳細
1890年(明治23)東京の明治浅草大火が起き、死者1名、負傷者7名、全勝1,469戸を出す詳細
1946年(昭和21)GHQより「社会救済に関する覚書」(SCAPIN-775)が出される詳細
1983年(昭和58)歴史学者・文学博士井上光貞の命日詳細
1987年(昭和62)東京で開催された環境と開発に関する世界委員会(WCED)で、「東京宣言」が採択される詳細

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 今日は、鎌倉時代の1207年(承元元)に、鎌倉幕府が、法然を土佐に、親鸞を佐渡に流し、専修念仏を禁止した日ですが、新暦では3月18日となります。
 専修念仏(せんしゅうねんぶつ)は、他の行をせず、極楽に往生するためにひたすら念仏を称えることです。主として、法然やその門流の宗教的立場を示す語で、法然流の念仏をさすことが多く、「南無阿弥陀仏」とただひたすらに念仏を唱えることとされてきました。
 鎌倉時代の1204年(元久元)に、延暦寺の衆徒が専修念仏の停止を座主に訴え、1205年(元久2)には、興福寺衆徒が八宗の人々とともに念仏の禁断を後鳥羽院に訴えています。1207年(建永2)には、諸宗の嫉視により、鎌倉幕府は、法然を土佐国、親鸞を佐渡国へ流罪としました。
 その後、法然は、1211年(建暦元)に許されて、吉水の禅房に帰ったものの、翌年1月25日に、京都において78歳で亡くなります。親鸞は、1211年(建暦元)に赦免されましたが、法然の死を知って京都に帰らず、信濃・下野・常陸の各地を遍歴して教化に努めました。

〇法然(ほうねん)とは?

 平安時代後期から鎌倉時代初期に活躍した僧侶で、浄土宗の開祖です。1133年(長承2年4月7日)に、美作国久米南条稲岡荘(現在の岡山県久米郡久米南町)に、押領使の父・漆間時国、母・秦氏君(はたうじのきみ)清刀自との子として生まれましたが、本名は源空と言いました。
 稲岡荘の預所明石定明の夜襲を受けて父が亡くなり、菩提寺にいた叔父の観覚にひきとられて剃髪します。1147年(久安3)に比叡山に登り源光、皇円、叡空に師事し、天台および諸宗を学び、黒谷で法然房源空と称しました。
 1175年(安元元)に称名念仏に専念する立場を確立し、比叡山を下り、浄土教に帰し洛東吉水に庵居して念仏を称えますが、これが浄土宗開宗の年とされています。1186年(文治2)に、勝林院で浄土の法義を談論(大原問答)しました。
 信者の増加に伴って迫害され、1207年(建永2)に諸宗の嫉視により、土佐国への流罪となります。その後、許されて1211年(建暦元)に吉水の禅房に帰りましたが、翌1212年(建暦2年1月25日)に、京都において78歳で亡くなりました。

〇親鸞(しんらん)とは?

 鎌倉時代に活躍した僧侶・浄土真宗の開祖です。平安時代後期の1173年(承安3)4月1日に、京都の日野(現在の京都市伏見区日野)において、父・皇太后宮大進日野有範の長男として生まれましたが、幼名は松若磨(松若丸とも)と呼ばれました。
 幼時に母を失い、1181年(治承5)に数え年9歳で出家して、京都青蓮院に入り、慈円について得度し、範宴(はんえん)と号したとされます。その後、比叡山で堂僧として20年ほど天台宗などを学びましたが、安心が得られず、1201年(建仁元)には、源空(法然)の門にはいり、専修念仏(浄土教)に帰依しました。
 1207年(建永2)に旧仏教の讒訴によって、念仏停止の法難に遭い、法然は土佐に、親鸞は越後に流され、現地の豪族の娘恵信尼と結婚し、善鸞と覚信尼をもうけたとされます。4年後の1211年(建暦元)に赦免されましたが、法然の死を知って京都に帰らず、信濃・下野・常陸の各地を遍歴して教化に努め、『教行信証』 (6巻) をまとめて、浄土真宗を開き、阿弥陀による万人救済を説きました。
 数え年62,3歳の頃京都に戻り、著作活動に重きを置き、『三帖和讃』、『唯信鈔文意』などを著わします。また、門弟の指導にも注力し、門下に真仏・性信・唯円などを輩出しましたが、1262年(弘長2年11月28日)に、京都において、数え年90歳で亡くなりました。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1212年(建暦2)第86代の天皇とされる後堀河天皇の誕生日(新暦3月22日)詳細
1796年(寛政8)稲村三伯らが、日本最初の蘭和辞典『ハルマ和解』(江戸ハルマ)を完成する(新暦3月26日)詳細
1825年(文政8)江戸幕府が「異国船打払令」を出す(新暦4月6日)詳細
1889年(明治22)日本画家奥村土牛の誕生日詳細
1908年(明治41)米国移民に関する「日米紳士協約」第七号が締結され、日本からの移民が制限される詳細
1929年(昭和4)写真家田沼武能の誕生日詳細
1935年(昭和10)貴族院で菊地武夫議員が美濃部達吉の「天皇機関説」を非難し、天皇機関説問題の端緒となる詳細
1938年(昭和13)石川達三著の南京従軍記『生きてゐる兵隊』を掲載した雑誌『中央公論』3月号が発禁処分となる詳細

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 今日は、鎌倉時代の1275年(建治元)に、鎌倉幕府第8代執権北条時宗が、入貢を要求した元の使者5人を斬殺し、第2回元寇(弘安の役)の要因となった日ですが、新暦では9月27日となります。
 弘安の役(こうあんのえき)は、鎌倉時代の1281年(弘安4)にあった、元寇の第2回目のことです。第1回目(文永の役)は、1274年(文永11)にあり、激戦の末に蒙古軍を撃退しました。
 しかし、その6年半後に第2回目(弘安の役)があり、再び対馬(現在の長崎県)への来襲に始まります。この時、蒙古軍は対馬沖に到着し、対馬の世界村大明浦に上陸しましたが、日本側の激しい抵抗を受け、郎将の康彦、康師子等が戦死しました。
 また、5月26日に蒙古軍は壱岐に襲来、6月8日には志賀島にも上陸したものの、日本軍が攻撃して、蒙古軍は敗走します。さらに、6月14日に蒙古軍が長門に襲来、6月29日には、壱岐島に駐留する蒙古軍に対して日本軍が攻撃、7月2日にも再度攻撃し、蒙古軍は平戸島に退却しました。
 その後、7月27日に鷹島の沖合に停泊していた蒙古軍船に対して日本軍が攻撃、7月30日には、台風が襲来し、蒙古軍の軍船の多くが沈没・損壊します。そこで、閏7月5日に蒙古軍は撤退を決定、同月7日には鷹島に残留する蒙古軍10万に対して、日本軍は総攻撃しこれを壊滅して、弘安の役が終わりました。

〇元寇(げんこう)とは?

 鎌倉時代中期に、当時大陸を支配していたモンゴル帝国およびその属国である高麗王国によって2度にわたり行われた日本への侵攻のことで、蒙古襲来ともいいます。1回目の1274年(文永11)のを文永の役、2回目の1281年(弘安4)のを弘安の役と呼んできました。
 台風の襲来によるモンゴル軍側の損害もあって、2度とも撤退しています。2回の元寇の後、鎌倉幕府は博多湾の防備を強化しましたが、この戦いで日本側が物質的に得たものは無く、恩賞は御家人たちに満足のいくものではありませんでした。
 モンゴル軍の再度の襲来に備えて御家人の統制が進められましたが、戦費で窮迫した御家人達は借金に苦しむようになります。やむを得ず幕府は「永仁の徳政令」などを発布して御家人の困窮対策にしようとしましたが、御家人の不満は解消されず、鎌倉幕府に対して不信感を抱くものが増えていきました。
 これらの動きはやがて大きな流れとなり、鎌倉幕府滅亡の原因の一つになったと言われています。

☆元寇関係略年表

<1266年(弘長元)>
・11月 第1回の蒙古の使節が日本を訪れ国書(蒙古国牒状)を持参したが、高麗から帰国する

<1268年(文永5)>
・1月 第2回の蒙古の使節が日本を訪れ国書(蒙古国牒状)を持参し、大宰府で渡す

<1269年(文永6)>
・2月 第3回の蒙古の使節が日本を訪れるが幕府は入国を許さず、使節は対馬の住民を拉致して帰国した
・9月 第4回の蒙古の使節が拉致した対馬の住民を護送する使者が大宰府を訪れる

<1271年(文永8)>
・9月 第5回の蒙古の使節が日本の大宰府を訪れ国書を持参した

<1272年(文永9)>
・2月または4月 第6回の蒙古の使節が日本を訪れ国書を持参した

<1274年(文永11)>
・10月3日 蒙古軍が大小900の船団を率いて出航する
・10月5日 蒙古軍が対馬に上陸して、多くの島民を殺害する
・10月14日 蒙古軍が壱岐に上陸して、多くの島民を殺害する
・10月16-17日 蒙古軍が肥前沿岸に襲来する
・10月20日 蒙古軍が博多湾に襲来するが、激戦の末に蒙古軍を撃退する(文永の役終了)

<1275年(建治元)>
・9月7日 服属を求めに来た元の使者を鎌倉幕府第8代執権北条時宗は鎌倉で処刑し、元の襲来に備え博多湾岸に石築地を築かせる
・11月 鎌倉幕府は元の襲来を防ぐ目的での朝鮮出兵、高麗遠征計画を立てて、金沢実政が九州に下向する

<1281年(弘安4)>
・5月3日 蒙古軍が日本に向けて朝鮮を出発する
・5月21日 蒙古軍が対馬に上陸したものの、日本軍の激しい抵抗を受ける
・5月26日 蒙古軍が壱岐に上陸する
・6月8日 志賀島に上陸した蒙古軍を日本軍が攻撃して、蒙古軍は敗走する
・6月14日 蒙古軍が長門に襲来する
・6月29日 壱岐島に駐留する蒙古軍に対して日本軍が攻撃する
・7月2日 壱岐島に駐留する蒙古軍に対して日本軍が再度攻撃し、蒙古軍は平戸島に退却する
・7月27日 鷹島の沖合に停泊していた蒙古軍船に対して日本軍が攻撃する
・7月30日 台風が襲来し、蒙古軍の軍船の多くが沈没・損壊する
・閏7月5日 蒙古軍は撤退を決定する
・閏7月7日 鷹島に残留する蒙古軍10万に対して、日本軍は総攻撃しこれを壊滅する(弘安の役終了)

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1751年(寛延4)浄瑠璃作者並木宗輔(千柳)の命日(新暦10月25日)詳細
1816年(文化13)浮世絵師・戯作者山東京伝の命日(新暦10月27日)詳細
1858年(安政5)尊攘派の小浜藩士・梅田雲濱が京都で捕縛され、安政の大獄が始まる(新暦10月13日)詳細
1871年(明治4)「田畑夫食取入ノ余ハ諸物品勝手作ヲ許ス」が出され、田畑勝手作許可がされる(新暦10月2日)詳細
1901年(明治34)清朝と日本を含む諸外国間で、義和団事件収拾のための最終議定書「北京議定書」に調印する詳細
1908年(明治41)建築家吉村順三の誕生日詳細
1939年(昭和14)小説家泉鏡花の命日(泉鏡花忌)詳細
1973年(昭和48)長沼ナイキ訴訟で、第1審の札幌地裁が「自衛隊は違憲」との初の判断を示す詳細

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 今日は、鎌倉時代の1281年(弘安4)に、翌日にかけて激しい風雨(台風)があり、第2回元寇(弘安の役)の蒙古軍が壊滅した日ですが、新暦では8月15日となります。
 弘安の役(こうあんのえき)は、鎌倉時代の1281年(弘安4)にあった、元寇の第2回目のことです。第1回目(文永の役)は、1274年(文永11)にあり、激戦の末に蒙古軍を撃退しました。
 しかし、その6年半後に第2回目(弘安の役)があり、再び対馬(現在の長崎県)への来襲に始まります。この時、蒙古軍は対馬沖に到着し、対馬の世界村大明浦に上陸しましたが、日本側の激しい抵抗を受け、郎将の康彦、康師子等が戦死しました。
 また、5月26日に蒙古軍は壱岐に襲来、6月8日には志賀島にも上陸したものの、日本軍が攻撃して、蒙古軍は敗走します。さらに、6月14日に蒙古軍が長門に襲来、6月29日には、壱岐島に駐留する蒙古軍に対して日本軍が攻撃、7月2日にも再度攻撃し、蒙古軍は平戸島に退却しました。
 その後、7月27日に鷹島の沖合に停泊していた蒙古軍船に対して日本軍が攻撃、7月30日には、台風が襲来し、蒙古軍の軍船の多くが沈没・損壊します。そこで、閏7月5日に蒙古軍は撤退を決定、同月7日には鷹島に残留する蒙古軍10万に対して、日本軍は総攻撃しこれを壊滅して、弘安の役が終わりました。

〇元寇(げんこう)とは?

 鎌倉時代中期に、当時大陸を支配していたモンゴル帝国およびその属国である高麗王国によって2度にわたり行われた日本への侵攻のことで、蒙古襲来ともいいます。1回目の1274年(文永11)のを文永の役、2回目の1281年(弘安4)のを弘安の役と呼んできました。
 台風の襲来によるモンゴル軍側の損害もあって、2度とも撤退しています。2回の元寇の後、鎌倉幕府は博多湾の防備を強化しましたが、この戦いで日本側が物質的に得たものは無く、恩賞は御家人たちに満足のいくものではありませんでした。
 モンゴル軍の再度の襲来に備えて御家人の統制が進められましたが、戦費で窮迫した御家人達は借金に苦しむようになります。やむを得ず幕府は「永仁の徳政令」などを発布して御家人の困窮対策にしようとしましたが、御家人の不満は解消されず、鎌倉幕府に対して不信感を抱くものが増えていきました。
 これらの動きはやがて大きな流れとなり、鎌倉幕府滅亡の原因の一つになったと言われています。

☆元寇関係の年表(日付は旧暦です)

<1266年(弘長元)>
・11月 第1回の蒙古の使節が日本を訪れ国書(蒙古国牒状)を持参したが、高麗から帰国する

<1268年(文永5)>
・1月 第2回の蒙古の使節が日本を訪れ国書(蒙古国牒状)を持参し、大宰府で渡す

<1269年(文永6)>
・2月 第3回の蒙古の使節が日本を訪れるが幕府は入国を許さず、使節は対馬の住民を拉致して帰国した
・9月 第4回の蒙古の使節が拉致した対馬の住民を護送する使者が大宰府を訪れる

<1271年(文永8)>
・9月 第5回の蒙古の使節が日本の大宰府を訪れ国書を持参した

<1272年(文永9)>
・2月または4月 第6回の蒙古の使節が日本を訪れ国書を持参した

<1274年(文永11)>
・10月3日 蒙古軍が大小900の船団を率いて出航する
・10月5日 蒙古軍が対馬に上陸して、多くの島民を殺害する
・10月14日 蒙古軍が壱岐に上陸して、多くの島民を殺害する
・10月16-17日 蒙古軍が肥前沿岸に襲来する
・10月20日 蒙古軍が博多湾に襲来するが、激戦の末に蒙古軍を撃退する(文永の役終了)

<1275年(建治元)>
・9月7日 服属を求めに来た元の使者を北条時宗は鎌倉で処刑し、元の襲来に備え博多湾岸に石築地を築かせる
・11月 鎌倉幕府は元の襲来を防ぐ目的での朝鮮出兵、高麗遠征計画を立てて、金沢実政が九州に下向する

<1276年(建治2)>
・3月10日 鎌倉幕府が、蒙古再来に備えて築前の海岸に石塁(石築地)を築かせるように指示する
・8月 元寇防塁(石築地)が、ほぼ完成する

<1281年(弘安4)>
・5月3日 蒙古軍が日本に向けて朝鮮を出発する
・5月21日 蒙古軍が対馬に上陸したものの、日本軍の激しい抵抗を受ける
・5月26日 蒙古軍が壱岐に上陸する
・6月8日 志賀島に上陸した蒙古軍を日本軍が攻撃して、蒙古軍は敗走する
・6月14日 蒙古軍が長門に襲来する
・6月29日 壱岐島に駐留する蒙古軍に対して日本軍が攻撃する
・7月2日 壱岐島に駐留する蒙古軍に対して日本軍が再度攻撃し、蒙古軍は平戸島に退却する
・7月27日 鷹島の沖合に停泊していた蒙古軍船に対して日本軍が攻撃する
・7月30日 台風が襲来し、蒙古軍の軍船の多くが沈没・損壊する
・閏7月5日 蒙古軍は撤退を決定する
・閏7月7日 鷹島に残留する蒙古軍10万に対して、日本軍は総攻撃しこれを壊滅する(弘安の役終了) 

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1502年(文亀2)連歌師・古典学者宗祇の命日(新暦9月1日)詳細
1907年(明治40)日本とロシアとの間で、「第一次日露協約」が締結される詳細
1913年(大正2)歌人・小説家伊藤左千夫の命日(左千夫忌)詳細
1958年(昭和33)冶金学者俵国一の命日詳細
1965年(昭和40)小説家谷崎潤一郎の命日(潤一郎忌)詳細
1971年(昭和46)全日空機雫石衝突事故が起き、乗員乗客162人全員が死亡する詳細
1976年(昭和51)内閣が「人名用漢字追加表」を告示し、「人名用漢字別表」に28字を追加する詳細
1988年(昭和63)北陸自動車道の朝日IC~名立谷浜ICが開通し、新潟黒埼IC~米原JCTが全通する詳細



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