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 今日は、江戸時代前期の1659年(万治2)に、比叡山山麓に御水尾上皇の山荘・修学院離宮(下の御茶屋)が完成した日ですが、新暦では6月3日となります。
 修学院離宮(しゅがくいんりきゅう)は、京都府京都市左京区修学院の比叡山麓にある離宮(皇室関連施設)です。江戸時代前期の1655年(明暦元)に、御水尾上皇の山荘として着工され、1659年(万治2)に、下の御茶屋が完成し、完成披露が行われました。
 1661年(寛文元)に、上の御茶屋の大池ができ、1663年(寛文3)に、上の御茶屋の建物が竣工、1668年 (寛文8) に、増築されたものの、1677年(延宝5)には、隣雲亭が焼失しています。1680年(延宝8)に、御水尾上皇が亡くなると、内親王の緋宮光子がその冥福を祈って上と下の御茶屋の中間南に林丘寺を建てました。
 1682年(天和2)に、東福門院(徳川和子)の女院御所奥御対面所が客殿(林丘寺の旧御殿)として移築され、1709年(宝永6)には、止々斎という建物が仙洞御所に移築されています。1824年(文政7)に、光格上皇を迎えるために隣雲亭が再興され、1827年(文政10)には、水野忠邦が屋形を寄進しました。
 1885年(明治18)に、楽只軒(らくしけん)と客殿を含む、林丘寺境内の約半分が宮内省に返還され、修学院離宮の一部となって、中の御茶屋と称されるようになり、1964年(昭和39)には、宮内庁が水田を買い上げています。現在は、宮内庁京都事務所が管理しており、桂離宮(かつらりきゅう)と共に、江戸時代に作られた名庭園として知られてきました。

〇修学院離宮関係略年表

・1655年(明暦元) 御水尾上皇の山荘として、着工される
・1659年(万治2) 下の御茶屋が完成し、完成披露が行われる
・1661年(寛文元) 上の御茶屋の大池ができる
・1663年(寛文3) 上の御茶屋の建物竣工する
・1668年 (寛文8)  増築される
・1677年(延宝5) 隣雲亭が焼失する
・1680年(延宝8) 御水尾上皇が亡くなると、内親王の緋宮光子がその冥福を祈って上と下の御茶屋の中間南に林丘寺を建てる
・1682年(天和2) 東福門院(徳川和子)の女院御所の奥御対面所が客殿(林丘寺の旧御殿)として移築される
・1709年(宝永6) 止々斎という建物が仙洞御所に移築される
・1824年(文政7) 光格上皇を迎えるために隣雲亭が再興される
・1827年(文政10) 水野忠邦が屋形を寄進する
・1885年(明治18) 楽只軒(らくしけん)と客殿を含む、林丘寺境内の約半分が宮内省に返還され、修学院離宮の一部となって、中の御茶屋と称されるようになる
・1964年(昭和39) 宮内庁が水田を買い上げる

☆後水尾天皇(ごみずのおてんのう)とは?

 第108代とされる天皇です。安土桃山時代の1596年(文禄5年6月4日)に、京都において後陽成天皇の第3皇子(母は藤原前子)として生まれましたが、幼称は三宮(名は政仁)と言いました。
 1611年(慶長16)に、後陽成天皇から譲位され16歳で即位し、第108代とされる天皇となります。しかし、1615年(元和元)に江戸幕府により「禁中並公家諸法度」が制定され、所司代、付武家などを通じての干渉が強くなりました。
 1620年(元和6)に江戸幕府第2代将軍徳川秀忠の娘和子を女御とし、外戚となった徳川氏は皇居を造営し、1623年には新たに1万石の御料を進めるなどします。1624年(寛永元)には、和子の皇后宣下が行われ、中宮となりました。
 紫衣事件や前例を無視した春日局の無位無官の身での拝謁強行などによって幕府への不満を募らせ、1629年(寛永6)に、突如わずか7歳の興子内親王(明正天皇)に譲位します。以後明正、後光明、後西、霊元天皇の4代にわたって、約27年間院政を行ないました。
 その中で、学問、詩歌、書道、茶道に深い造詣を示し、智仁親王、烏丸光広らの「伊勢物語」、「源氏物語」などの進講を受け、『伊勢物語御抄』などを著し、古今伝授を受けています。また、宮廷歌壇を確立し、歌集『鴎巣集』を作り、宮廷文化、朝儀復興に強い意欲を示して、『当時年中行事』を著しました。
 仏道にも帰依し、1651年(慶安4)に剃髪、1653~55年に日本屈指の名園として知られる修学院離宮を造営させています。1680年(延宝8年8月19日)に、数え年85歳で亡くなりましたが、陵は京都市東山区今熊野泉山町(月輪陵)に造られました。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1526年(大永6)駿河国守護今川氏親が「今川仮名目録」を制定する(新暦5月25日)詳細
1536年(天文5)奥州の伊達稙宗が分国法の一つである「塵芥集」を制定する(新暦5月5日)詳細
1602年(慶長7)連歌師里村紹巴の命日(新暦6月2日)詳細
1867年(慶応3)倒幕派の志士・長州藩士高杉晋作の命日(新暦5月17日)詳細
1875年(明治8)「立憲政体の詔書」(明治8年4月14日太政官第58号布告)が発布される詳細
1909年(明治42)「種痘法」(明治42年法律第35号)が公布(施行は翌年1月1日)される詳細
1921年(大正10)「軌道法」(大正10年法律第76号)が公布(施行は1924年1月1日)される詳細
大正10年函館大火で、死者1名、焼失1,532戸を出す詳細

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 今日は、江戸時代後期の1808年(文化5)に、間宮林蔵が江戸幕府の命により、樺太探検に出発した日ですが、新暦では5月8日となります。
 間宮林蔵(まみや りんぞう)は、江戸時代後期の探検家・測量家です。1780年(安永9)に常陸国筑波郡上手柳村(現在のつくばみらい市)の農家を営む父・間宮庄兵衛と母・(森田)クマの子として生まれました。
 子供の頃から数学の才能があり、それをを幕吏に認められて、1790年(寛政2)頃に、江戸に出て、地理学を学びます。1796年(寛政8)に普請役雇として幕府に出仕し、1799年(寛政11)に村上島之允に随行し蝦夷地(北海道)に渡り、1800年(寛政12)に、箱館で伊能忠敬に出会って測量術を学びました。
 1806年(文化3年)に択捉(えとろふ)を測量、1808年(文化5)には、カラフト探検を命ぜられ、松田伝十郎と共に北上し、6月20日ラッカに至り、カラフトの離島を確認しています。翌年に再度カラフト探検を命ぜられ北上、5月カラフトの北端ナニオーに至り、カラフトが離島であることを再確認し、6月にはアイヌのコーニらに同行し、海峡を渡り東韃靼に至り、デレンで満州仮府の役人と会いました。
 1810年(文化7)に村上貞助の協力で、『北蝦夷島地図』、『北蝦夷分界余話』、『東韃地方紀行』を著し、1822年(文政5)には、松前奉行廃止伴ない、江戸に帰り普請役となっています。1824年(文政7)に、安房上総御前備掛手付となり、異国船渡来の噂を内偵のため、東北海岸を巡視し、1826年(文政9)には、天文方兼書物奉行高橋景保がシーボルトに対し、クルーゼンシュテルンの航海記と交換に、伊能忠敬の日本地図、間宮林蔵のカラフト地図を贈ることを約束しました。
 1832年(天保3)に、シーボルト著『日本』で日本辺界略図の翻訳図に「間宮の瀬戸」の名を始めてヨーロッパに紹介されます。1842年(天保13)には、江戸幕府からカラフトおよび東韃靼地域の自製図模写を命ぜられましたが、1844年(天保15年2月26日)に、江戸本所外手町の寓居において、数え年65歳で亡くなりました。
 現在、出身地の茨城県つくばみらい市に「間宮林蔵記念館」が建てられ、遺品や事績を知ることができるようになっています。

<間宮林蔵主要な著作>
・『北蝦夷島地図』(1810年)
・『北蝦夷分界余話』(1810年)
・『東韃地方紀行』(1810年)

〇間宮林蔵関係略年表(日付は旧暦です)

・1780年(安永9年) 常陸国筑波郡上手柳村(現在のつくば市)の農家を営む父・間宮庄兵衛と母・(森田)クマの子として生まれる
・1790年(寛政2年) この頃、江戸に出て、地理学を学ぶ
・1796年(寛政8年) 普請役雇として幕府に出仕する
・1799年(寛政11年) 20歳の時、村上島之允に随行し蝦夷地(北海道)に渡る
・1800年(寛政12年) 21歳の時、蝦夷地御用雇に任ぜられる
・1806年(文化3年) 択捉(えとろふ)を測量する
・1808年(文化5年) 29歳の時、カラフト探検を命ぜられ、松田伝十郎と共に北上し、6月20日ラッカに至り、カラフトの離島を確認する
・1809年(文化6年) 30歳の時  再度カラフト探検を命ぜられ北上、5月カラフトの北端ナニオーに至り、カラフトが離島であることを再確認する、6月アイヌのコーニらに同行し、海峡を渡り東韃靼に至り、デレンで満州仮府の役人と会う
・1810年(文化7年)  31歳の時、村上貞助の協力で、「北蝦夷島地図」、「北蝦夷分界余話」、「東韃地方紀行」を著す
・1814年(文化11年) 35歳の時、蝦夷地測量をする
・1822年(文政5年) 43歳の時、松前奉行廃止、江戸に帰り普請役となる
・1824年(文政7年) 45歳の時、安房上総御前備掛手付となり,異国船渡来の噂を内偵のため、東北海岸を巡視する
・1826年(文政9年) 47歳の時、天文方兼書物奉行高橋景保がシーボルトに対し、クルーゼンシュテルンの航海記と交換に、伊能忠敬の日本地図、間宮林蔵のカラフト地図を贈ることを約束する
・1832年(天保3年) 53歳の時、シーボルト著「日本」で日本辺界略図」の翻訳図に「間宮の瀬戸」の名を始めてヨーロッパに紹介される
・1842年(天保13年) 63歳の時、幕府、林蔵にカラフトおよび東韃靼地域の自製図模写を命ずる
・1844年(天保15年2月26日) 江戸本所外手町の寓居において、数え年65歳で亡くなる 

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1776年(安永5)南画家・書家池大雅の命日(新暦5月30日)詳細
1818年(文化15)商人・測量家伊能忠敬の命日(新暦5月17日)詳細
1903年(明治36)福井県武生町明治の大火で、死者7名、重傷者2名、全焼1,057戸の被害を出す詳細
「小学校令」が改正され、教科書検定制から国定教科書制になる詳細
1941年(昭和16)「日ソ中立条約」が締結(同年4月25日発効)される詳細
1945年(昭和20)B-29爆撃機330機による城北大空襲(東京西部地域空襲)で、29.5平方kmを焼失、死者2,459人を出す詳細
1950年(昭和25)静岡県の熱海大火で、市街地の4分の1に延焼し、979棟が焼失する詳細
2001年(平成13)「配偶者暴力防止法」(平成13年法律第31号)が公布(施行は同年10月13日)される詳細

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 今日は、江戸時代前期の1683年(天和3)に、八百屋お七が鈴ヶ森刑場で火炙りの極刑に処せられた日ですが、新暦では4月25日となります。
 八百屋お七(やおやおしち)は、江戸時代前期の1668(寛文8)に、江戸・本郷追分の八百屋太郎兵衛の娘として生まれたとされています。1682年 (天和2年12月28日) の天和の大火で円乗寺に避難の際、寺小姓山田佐兵衛と情を通じました。
 家に戻った後、吉祥寺門前に住むならず者吉三郎にそそのかされ、火事があれば庄之助と会えると思い込み、翌年3月2日夜放火して捕らえられました。その結果、火付の大罪人として、1683年(天和33月29日)に、鈴ヶ森刑場で火炙りの極刑に処せられます。
 事件後3年目の1686年(天和6)に、井原西鶴の『好色五人女』に書かれて以後、元禄年間(1688~1704年)には歌祭文にうたわれて有名になり、広く劇化されるようになり、浄瑠璃・歌舞伎で上演・脚色されました。

<八百屋お七を取り上げた作品>

・浮世草子『好色五人女』(1686年)井原西鶴著
・浄瑠璃『八百屋お七歌祭文』(1704年)紀海音(きのかいおん)作
・歌舞伎『お七歌祭文』(1706年春)大坂嵐三右衛門座、吾妻三八作
・浄瑠璃『八百屋お七恋緋桜(こいのひざくら)』(1717年)
・浄瑠璃『伊達娘恋緋鹿子(だてむすめこいのひがのこ)』(1773年)
・歌舞伎『其往昔(そのむかし)恋江戸染』(1809年3月)森田座、福森久助作

〇天和の大火(てんなのたいか)とは?

 江戸時代前期の1683年1月25日(天和2年12月28日)正午頃に江戸・駒込の大円寺(現在の東京都文京区向丘一丁目)から出火した大火です。その後、隣の同心屋敷に延焼し、本郷方面に燃え広がり、加賀藩前田家の上屋敷も炎上しました。
 続いて、本郷から湯島・神田方面から、柳原の土手沿いに東に向かい、浅草橋門も焼失し、隅田川を飛び越えて、回向院に飛び火します。そして、回向院もまもなく焼失、さらに隅田川沿いに南下して、霊厳寺、富岡八幡宮も焼失させて、ようやく翌日の午前5時頃に鎮火しました。
 この大火によって、焼失した大名屋敷は73、旗本屋敷166、寺社95にも及び、死者は最大3,500名余と言われ、江戸の十大火事の一つとされています。これにより、両国橋も焼け、本所の開発は中止となり、深川芭蕉庵も焼けて、俳聖・松尾芭蕉は水に潜ってかろうじて助かりました。
 また、井原西鶴著『好色五人女』でも取り上げられ、その登場人物で八百屋の娘お七の名を取って、「お七火事」とも称されています。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

730年(天平2)奈良・薬師寺の三重塔(東塔)が建立されたとされる(新暦4月20日)詳細
1401年(応永8)第101代の天皇とされる称光天皇の誕生日(新暦5月12日)詳細
1897年(明治30)金本位制の「貨幣法」が公布される詳細
1909年〈明治42〉文芸評論家・小説家・劇作家花田清輝の誕生日詳細
1911年(明治44)「工場法」が公布される詳細
1933年(昭和8)「米穀統制法」が公布される詳細
1939年(昭和14)詩人・建築家立原道造の命日詳細
1952年(昭和27)「文化財保護法」で、タンチョウ、トキ、オオサンショウウオ等が初の特別天然記念物に指定される詳細

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 今日は、江戸時代後期の1864年(元治元)に、攘激派藩士・郷士・神官・村役人ら60余人が、筑波山に挙兵し、天狗党の乱が始まった日ですが、新暦では5月2日となります。
 天狗党の乱(てんぐとうのらん)は、幕末明治維新期に、水戸藩尊攘激派(天狗党)による筑波山挙兵とそれを契機に起った一連の争乱のことで、元治甲子の乱(げんじかっしのらん)とも呼ばれています。1863年(文久3年8月18日)の八月十八日政変を機に、水戸藩では、保守派の諸生(しょせい)党が実権を握りますが、これと対立する天狗党はついに朝廷の攘夷延期不満を掲げて、1864年(元治元年3月27日)に、藤田小四郎をはじめとする尊攘激派藩士・郷士・神官・村役人ら60余人は、徳川斉昭の神位を奉じて筑波山に挙兵しました。
 この天狗党には、全国から尊攘運動有志が集まり、1000人以上を数えたといわれていますが、当初は攘夷祈願のため日光に向います。その後、下野国太平山に屯集し、5月には再び筑波山に戻りましたが、軍資金不足から、近在の諸藩や豪農商に金穀を強要して嫌われました。
 幕府が諸藩に追討を命ずると、諸生党の天狗党攻撃も激化し、水戸藩内の党争が泥沼化したものの、それに敗北します。窮地に陥った天狗党は、在洛中の一橋慶喜を頼って、武田耕雲斎を総大将として大挙西上したものの、中山道を経て、越前国敦賀で、同年12月17日に、金沢藩に降伏して、終結しました。
 その後、敦賀の鯡倉に監禁されましたが、翌年2月4日、幕命によって武田耕雲斎ら幹部24名が来迎寺境内において斬首され、2月23日までに、天狗党の乱関係者計324名が斬刑に処せられています。

〇天狗党の乱関係略年表

<安政五年(1858年)>
・7月 水戸藩前藩主徳川斉昭が将軍継嗣・通商条約調印の二問題をめぐって大老井伊直弼と対立し、謹慎処分を受ける
・8月8日 孝明天皇から戊午の密勅が水戸藩に降下される

<万延元年(1860年)>
・3月 桜田門外の変が起きる

<文久元年(1861年)>
・5月 東禅寺事件が起きる

<文久2年(1862年)>
・1月 坂下門外の変が起きる

<文久3年(1863年)>
・5月 藤田小四郎は一橋慶喜に追従して江戸に戻る
・8月18日 八月十八日の政変により長州藩系の尊攘派が京都から一掃され、急進的な尊王攘夷運動は退潮に向かう

<元治元年(1864年)>
・3月27日 藤田小四郎をはじめとする尊攘激派藩士・郷士・神官・村役人ら60余人は、斉昭の神位を奉じて筑波山に挙兵し、天狗党と呼ばれる
・4月3日 天狗党が野州日光山へ向かって出発する
・5月30日 太平山を下り、再び筑波山に戻る
・6月 真鍋宿をはじめ、足利・桐生・大間々・結城などの町で放火・略奪・殺戮を働き、天狗党が暴徒集団として明確に認識される原因を成し、幕府は筑波勢追討令を出して常陸国・下野国の諸藩に出兵を命じ、直属の幕府陸軍なども動員する
・7月7日 幕軍・諸藩軍・諸生党は、高道祖(たかさい)村(現在の茨城県下妻市)、下妻多宝院などで、天狗党と交戦したが敗退する
・7月24日 水戸に向かったが城下に入れなかった
・7月25日 茨城郡鯉淵村(現在の水戸市鯉淵)など近隣四十数か村が幕府軍に呼応して挙兵する
・月26日 諸生党が激派追討のため水戸城周辺の村々へ足軽の動員をかけると、領民が続々と参加を願い出る
・7月29日 幕府軍と諸生党は合流してに茨城郡下土師(現在の茨城町下土師)で田中愿蔵の部隊を攻撃し、これを撃破する
・8月4日 水戸藩主徳川慶篤は、争乱鎮静化のため、連枝の宍戸藩主松平頼徳を名代として水戸に遣わす
・10月5日 幕命により、松平頼徳が切腹する
・10月23日 那珂湊の合戦で榊原ら千人余が投降する
・11月1日 天狗党は、武田耕雲斎を総大将として京都に上るため、大子を出発する
・11月11日 武蔵国岡部藩は、天狗党の接近を察し、藩兵数十人および大砲二門を配備して領内に本陣を構える
・11月13日 中瀬村(現在の深谷市中瀬)に渡河してきた天狗党に対し、岡部藩は夜襲を仕掛けて撃退し、佐藤長次郎を捕縛し数名を討取る
・11月14日 この日の戦闘も岡部藩が勝利し、天狗党は逃走する
・11月16日 上州下仁田において、天狗党は追撃して来た高崎藩兵200人と交戦し、天狗党死者4人、高崎藩兵は死者36人を出して敗走する(下仁田戦争)
・11月20日 信州諏訪湖近くの和田峠において高島藩・松本藩兵と交戦し、双方とも10人前後の死者を出したが天狗党が勝利する(和田峠の戦い)
・12月2日 圓勝寺(現在の岐阜県本巣市金原)に宿泊した際には、薩摩藩士の中村半次郎と面会する
・12月11日 天狗党一行は越前国新保宿(現在の福井県敦賀市)に至る
・12月17日 追討軍に追われて敦賀で武装解除して降伏し、天狗党の乱は終結する

<慶応元年(1865年)>
・1月 敦賀の鯡倉に監禁される
・2月4日 武田耕雲斎ら幹部24名が来迎寺境内において斬首される
・2月23日 天狗党の乱関係の斬首が終わる(計324名)

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1689年(元禄2)松尾芭蕉が曾良と共に深川から『おくのほそ道』の旅に出発(新暦5月16日)詳細
1837年(天保8)元大坂東町奉行所与力・陽明学者大塩平八郎が市中潜伏中に幕吏に囲まれ、自刃する(新暦5月1日)詳細
1918年(大正7)「市町村義務教育国庫負担法」が公布(施行は同年4月1日)される詳細
1919年(大正8)「結核予防法」(大正8年法律第26号)が公布される詳細
1926年(大正15)歌人島木赤彦の命日(赤彦忌)詳細
1933年(昭和8)昭和天皇が「国際連盟脱退ノ詔書」を出し、日本政府が国際連盟事務局に国際連盟脱退の通告を行なう詳細
1968年(昭和43)厚生省が「イタイイタイ病の原因に関する研究」を発行、カドミウム汚染の状況が明らかにされる詳細
1998年(平成10)小説家・ノンフィクション作家山本茂実の命日詳細

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 今日は、江戸時代前期の1616年(元和2)に、徳川家康が太政大臣に任ぜられた日ですが、新暦では5月2日となります。
 徳川家康(とくがわ いえやす)は、戦国時代の1542年(天文11年12月26日)に、三河国岡崎(現在の愛知県岡崎市)で、岡崎城主だった父・松平広忠の長男(母は於大の方)として生まれましたが、幼名は竹千代と言いました。6歳のとき、人質として駿府の今川義元のもとへ行く途中を織田方に捕らえられて尾張に送られ、広忠の死後、今川・織田間の捕虜交換協定によって駿府に赴きます。
 1555年(弘治元)に今川義元の館で元服し、義元に偏諱をもらい元信(もとのぶ)と名のりますますが、1558年(永禄元)に初陣し、この頃元康と改名しました。1560年(永禄3)の桶狭間の戦いでは、大高城兵糧入で武名を挙げたものの、義元が敗死すると、岡崎城に帰り、今川氏から自立します。
 翌年に織田信長と同盟、1563年(永禄6)に名を家康と改めますが、三河一向一揆に悩まされました。翌年これを鎮圧、同年三河一国を平定し、1567年(永禄9)に松平を徳川と改姓、東方への進出を図り、1570年(元亀元)には浜松に本拠を移します。
 同年の姉川の戦いで信長とともに浅井・朝倉連合軍を撃破し、その後、武田信玄と絶って上杉謙信と同盟したものの、1572年(元亀3)の三方原の戦で信玄に大敗しました。しかし、1575年(天正3)の長篠の戦いで家康・信長連合軍は武田勝頼の軍に大勝し、1582年(天正10)に信長が武田氏を滅ぼすと家康は駿河を手に入れます。
 同年に本能寺の変において信長が死亡すると、天正壬午の乱を制して甲斐・信濃を手中に収め、5ヶ国を領有する大大名となりました。1584年(天正12)には、羽柴(のち豊臣)秀吉と小牧・長久手の戦いで対峙しましたが、和睦して臣下となり、駿府に本拠を移します。
 1590年(天正18)に秀吉の小田原征伐に従軍、後北条氏滅亡後はその旧領(関八州)に移封されて江戸城に入りました。1596年(慶長元)に正二位内大臣となり、五大老の筆頭として、秀吉政権下で重きをなします。
 秀吉の死後は朝鮮からの諸大名の撤兵を指揮、石田三成と反目して、1600年(慶長5)の関ヶ原の戦いに至ったものの、これに勝利し、1603年(慶長8)に征夷大将軍となって江戸幕府を開きました。1605年(慶長10)に将軍職を秀忠に譲りましたが、大御所として実権を握りつづけます。
 1614年(慶長19)から翌年にかけての大坂冬・夏の陣で豊臣氏を滅ぼし、名実共に天下を統一して幕府の基礎を固めました。1616年(元和2年3月17日)には、太政大臣となったものの、翌年4月17日に、駿府(現在の静岡県静岡市)において、数え年75歳で亡くなっています。

〇徳川家康関係略年表(日付は旧暦です)

・1542年(天文11年12月26日) 三河国岡崎で、岡崎城主だった父・松平広忠の長男(母は於大の方)として生まれる
・1544年(天文13年9月) 広忠は於大の方を離別し、3歳で母と別れることとなる
・1547年(天文16年8月) 駿府へ送られる途中、織田方に捕らわれる
・1549年(天文18年11月) 今川・織田間の捕虜交換協定によって、今川義元の庇護下におかれる
・1555年(弘治元年3月) 義元の館で元服し、義元に偏諱をもらい元信(もとのぶ)と名のる
・1557年(弘治3年1月) 16歳で今川氏一門の女築山殿と結婚する
・1558年(永禄元年) 初陣し、この頃元康と改名する
・1560年(永禄3年5月) 桶狭間の戦いで大高城兵糧入で武名を挙げたものの、義元が敗死すると、岡崎城に帰り、今川氏から自立する
・1561年(永禄5年1月15日) 織田信長と同盟を結ぶ
・1563年(永禄6年) 名を家康と改める
・1564年(永禄7年2月) 三河一向一揆を鎮圧
・1564年(永禄7年6月) 三河一国を平定する
・1567年(永禄9年12月29日) 勅許を得て徳川と改姓し、従五位下三河守に叙任される
・1568年(永禄10年) 遠江を占領する
・1570年(元亀元年) 遠江引馬(浜松)に本拠を移す
・1570年(元亀元年6月28日) 姉川の戦で信長とともに浅井・朝倉連合軍を撃破する
・1570年(元亀元年10月8日) 武田信玄と絶って、上杉謙信と同盟する
・1572年(元亀3年12月22日) 三方原の戦で信玄に大敗する
・1575年(天正3年5月21日) 長篠の戦で家康・信長連合軍は武田勝頼の軍に大勝する
・1579年(天正7年) 信長の命により築山殿との間にもうけた長子信康を自殺させ、築山殿を処刑する
・1582年(天正10年3月) 信長が武田氏を滅ぼすと家康は駿河を手に入れる
・1582年(天正10年6月) 本能寺の変において信長が死亡すると、旅先の堺から岡崎へ逃げかえる
・1582年(天正10年9月) 天正壬午の乱を制して甲斐・信濃を手中に収める
・1584年(天正12年2月27日) 従三位の参議に叙任される
・1584年(天正12年) 羽柴(のち豊臣)秀吉と小牧・長久手の戦で対峙したが、和睦して臣下となる
・1586年(天正14年) 秀吉の妹朝日姫が家康の正室となって浜松に赴く
・1589年(天正17年) 7ヶ条の定書を領内の村々に公布して、年貢や夫役について規定する
・1590年(天正18年) 秀吉の小田原征伐に従軍する
・1590年(天正18年8月1日) 後北条氏滅亡後はその旧領(関八州)に移封されて江戸城に入る
・1591年(天正19年) 九戸政実の乱鎮定のため陸奥岩手沢に出陣する
・1592年(文禄元) 文禄の役では、肥前名護屋に駐留する
・1596年(慶長元年) 正二位内大臣となり、五大老の筆頭として、秀吉政権下で重きをなす
・1598年(慶長3年8月) 秀吉が亡くなると、朝鮮からの諸大名の撤兵を指揮する
・1599年(慶長4年) 五大老の一人前田利家の死後、秀吉の築いた伏見城本丸に入る
・1600年(慶長5年9月15日) 関ヶ原の戦で勝利する
・1602年(慶長7年) 京都二条城の造営を命じる
・1603年(慶長8年2月12日) 征夷大将軍の宣旨を受け、江戸幕府を開く
・1605年(慶長10年4月16日) 将軍職を秀忠に譲り、大御所として実権を掌握する
・1607年(慶長12年) 駿府城に引退する
・1614年(慶長19年) 大坂冬の陣が起こる
・1615年(元和元年5月8日) 大坂夏の陣で豊臣氏を滅ぼす
・1615年(元和元年7月7日) 武家諸法度が定められる
・1615年(元和元年7月17日) 禁中並公家諸法度が定められる
・1616年(元和2年3月17日) 太政大臣となる
・1616年(元和2年4月17日) 駿府において、数え年75歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

806年(延暦25)第50代天皇である桓武天皇の命日(新暦4月9日)詳細
1880年(明治13)国会期成同盟が発足する詳細
1893年(明治26)埼玉県入間郡川越町(現在の川越市)において、川越大火が発生する詳細
1898年(明治31)小説家・俳人・評論家横光利一の誕生日詳細
1945年(昭和20)B29爆撃機309機が神戸へ来襲(最初の神戸大空襲)し、神戸の西半分が焼失、死者2,598名を出す詳細
1953年(昭和28)「麻薬取締法」(現在の「麻薬及び向精神薬取締法」)が公布(同年4月1日施行)される詳細
1985年(昭和60)筑波研究学園都市で、国際科学技術博覧会(略称:科学万博、つくば '85)が開幕する詳細
1988年(昭和63)日本初の全天候型ドームである東京ドームが完成し、オープニングセレモニーが行われる詳細



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