
修学院離宮(しゅがくいんりきゅう)は、京都府京都市左京区修学院の比叡山麓にある離宮(皇室関連施設)です。江戸時代前期の1655年(明暦元)に、御水尾上皇の山荘として着工され、1659年(万治2)に、下の御茶屋が完成し、完成披露が行われました。
1661年(寛文元)に、上の御茶屋の大池ができ、1663年(寛文3)に、上の御茶屋の建物が竣工、1668年 (寛文8) に、増築されたものの、1677年(延宝5)には、隣雲亭が焼失しています。1680年(延宝8)に、御水尾上皇が亡くなると、内親王の緋宮光子がその冥福を祈って上と下の御茶屋の中間南に林丘寺を建てました。
1682年(天和2)に、東福門院(徳川和子)の女院御所奥御対面所が客殿(林丘寺の旧御殿)として移築され、1709年(宝永6)には、止々斎という建物が仙洞御所に移築されています。1824年(文政7)に、光格上皇を迎えるために隣雲亭が再興され、1827年(文政10)には、水野忠邦が屋形を寄進しました。
1885年(明治18)に、楽只軒(らくしけん)と客殿を含む、林丘寺境内の約半分が宮内省に返還され、修学院離宮の一部となって、中の御茶屋と称されるようになり、1964年(昭和39)には、宮内庁が水田を買い上げています。現在は、宮内庁京都事務所が管理しており、桂離宮(かつらりきゅう)と共に、江戸時代に作られた名庭園として知られてきました。
1661年(寛文元)に、上の御茶屋の大池ができ、1663年(寛文3)に、上の御茶屋の建物が竣工、1668年 (寛文8) に、増築されたものの、1677年(延宝5)には、隣雲亭が焼失しています。1680年(延宝8)に、御水尾上皇が亡くなると、内親王の緋宮光子がその冥福を祈って上と下の御茶屋の中間南に林丘寺を建てました。
1682年(天和2)に、東福門院(徳川和子)の女院御所奥御対面所が客殿(林丘寺の旧御殿)として移築され、1709年(宝永6)には、止々斎という建物が仙洞御所に移築されています。1824年(文政7)に、光格上皇を迎えるために隣雲亭が再興され、1827年(文政10)には、水野忠邦が屋形を寄進しました。
1885年(明治18)に、楽只軒(らくしけん)と客殿を含む、林丘寺境内の約半分が宮内省に返還され、修学院離宮の一部となって、中の御茶屋と称されるようになり、1964年(昭和39)には、宮内庁が水田を買い上げています。現在は、宮内庁京都事務所が管理しており、桂離宮(かつらりきゅう)と共に、江戸時代に作られた名庭園として知られてきました。
〇修学院離宮関係略年表
・1655年(明暦元) 御水尾上皇の山荘として、着工される
・1659年(万治2) 下の御茶屋が完成し、完成披露が行われる
・1661年(寛文元) 上の御茶屋の大池ができる
・1663年(寛文3) 上の御茶屋の建物竣工する
・1668年 (寛文8) 増築される
・1677年(延宝5) 隣雲亭が焼失する
・1680年(延宝8) 御水尾上皇が亡くなると、内親王の緋宮光子がその冥福を祈って上と下の御茶屋の中間南に林丘寺を建てる
・1682年(天和2) 東福門院(徳川和子)の女院御所の奥御対面所が客殿(林丘寺の旧御殿)として移築される
・1709年(宝永6) 止々斎という建物が仙洞御所に移築される
・1824年(文政7) 光格上皇を迎えるために隣雲亭が再興される
・1827年(文政10) 水野忠邦が屋形を寄進する
・1885年(明治18) 楽只軒(らくしけん)と客殿を含む、林丘寺境内の約半分が宮内省に返還され、修学院離宮の一部となって、中の御茶屋と称されるようになる
・1964年(昭和39) 宮内庁が水田を買い上げる
☆後水尾天皇(ごみずのおてんのう)とは?
第108代とされる天皇です。安土桃山時代の1596年(文禄5年6月4日)に、京都において後陽成天皇の第3皇子(母は藤原前子)として生まれましたが、幼称は三宮(名は政仁)と言いました。
1611年(慶長16)に、後陽成天皇から譲位され16歳で即位し、第108代とされる天皇となります。しかし、1615年(元和元)に江戸幕府により「禁中並公家諸法度」が制定され、所司代、付武家などを通じての干渉が強くなりました。
1620年(元和6)に江戸幕府第2代将軍徳川秀忠の娘和子を女御とし、外戚となった徳川氏は皇居を造営し、1623年には新たに1万石の御料を進めるなどします。1624年(寛永元)には、和子の皇后宣下が行われ、中宮となりました。
紫衣事件や前例を無視した春日局の無位無官の身での拝謁強行などによって幕府への不満を募らせ、1629年(寛永6)に、突如わずか7歳の興子内親王(明正天皇)に譲位します。以後明正、後光明、後西、霊元天皇の4代にわたって、約27年間院政を行ないました。
その中で、学問、詩歌、書道、茶道に深い造詣を示し、智仁親王、烏丸光広らの「伊勢物語」、「源氏物語」などの進講を受け、『伊勢物語御抄』などを著し、古今伝授を受けています。また、宮廷歌壇を確立し、歌集『鴎巣集』を作り、宮廷文化、朝儀復興に強い意欲を示して、『当時年中行事』を著しました。
仏道にも帰依し、1651年(慶安4)に剃髪、1653~55年に日本屈指の名園として知られる修学院離宮を造営させています。1680年(延宝8年8月19日)に、数え年85歳で亡くなりましたが、陵は京都市東山区今熊野泉山町(月輪陵)に造られました。
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
1611年(慶長16)に、後陽成天皇から譲位され16歳で即位し、第108代とされる天皇となります。しかし、1615年(元和元)に江戸幕府により「禁中並公家諸法度」が制定され、所司代、付武家などを通じての干渉が強くなりました。
1620年(元和6)に江戸幕府第2代将軍徳川秀忠の娘和子を女御とし、外戚となった徳川氏は皇居を造営し、1623年には新たに1万石の御料を進めるなどします。1624年(寛永元)には、和子の皇后宣下が行われ、中宮となりました。
紫衣事件や前例を無視した春日局の無位無官の身での拝謁強行などによって幕府への不満を募らせ、1629年(寛永6)に、突如わずか7歳の興子内親王(明正天皇)に譲位します。以後明正、後光明、後西、霊元天皇の4代にわたって、約27年間院政を行ないました。
その中で、学問、詩歌、書道、茶道に深い造詣を示し、智仁親王、烏丸光広らの「伊勢物語」、「源氏物語」などの進講を受け、『伊勢物語御抄』などを著し、古今伝授を受けています。また、宮廷歌壇を確立し、歌集『鴎巣集』を作り、宮廷文化、朝儀復興に強い意欲を示して、『当時年中行事』を著しました。
仏道にも帰依し、1651年(慶安4)に剃髪、1653~55年に日本屈指の名園として知られる修学院離宮を造営させています。1680年(延宝8年8月19日)に、数え年85歳で亡くなりましたが、陵は京都市東山区今熊野泉山町(月輪陵)に造られました。
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
| 1526年(大永6) | 駿河国守護今川氏親が「今川仮名目録」を制定する(新暦5月25日) | 詳細 |
| 1536年(天文5) | 奥州の伊達稙宗が分国法の一つである「塵芥集」を制定する(新暦5月5日) | 詳細 |
| 1602年(慶長7) | 連歌師里村紹巴の命日(新暦6月2日) | 詳細 |
| 1867年(慶応3) | 倒幕派の志士・長州藩士高杉晋作の命日(新暦5月17日) | 詳細 |
| 1875年(明治8) | 「立憲政体の詔書」(明治8年4月14日太政官第58号布告)が発布される | 詳細 |
| 1909年(明治42) | 「種痘法」(明治42年法律第35号)が公布(施行は翌年1月1日)される | 詳細 |
| 1921年(大正10) | 「軌道法」(大正10年法律第76号)が公布(施行は1924年1月1日)される | 詳細 |
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