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 今日は、大正時代の1920年(大正9)に、普選運動の高まりの中で、政党関係者、労働団体、学生団体、ジャーナリストなどが集まり、全国普選連合会が結成された日です。
 普選運動(ふせんうんどう)は、日本において、「男子普通選挙法」の獲得を目ざし、明治時代後期の1892年(明治25)~大正時代の1925年(大正14)まで行われた社会運動で、普通選挙運動とも言います。その始まりは、1892年(明治25)に大井憲太郎が普通選挙期成同盟会を設立したこととされてきました。
 紆余曲折を経て、1916年(大正5)1月に吉野作造が民本主義を広め、1918年(大正7)半ばの米騒動と11月11日第一次世界大戦休戦による世界的に民主主義の潮流に刺激された、大正デモクラシーの下で最高潮に達します。1920年(大正9)1月31日に、政党関係者、労働団体、学生団体、ジャーナリストなどが集まって全国普選連合会が結成され、2月11日には、東京で111団体、数万人の普選大示威行進が行われました。
 その後、帝国議会にたびたび法案が出されて、否決されたものの、加藤高明内閣により、「治安維持法」と引きかえに、1925年(大正14)に「普通選挙法」が制定されたことで終焉しました。しかし、女性や植民地人民を除外していたので、女性は「完全普選」を要求し、「普選から婦選へ」をスローガンになおも運動を続け、ようやく太平洋戦争後後の1945年(昭和20)12月17日の選挙法改正公布により、完全普通選挙が実現しています。

〇「全国普選連合会決議」 1920年(大正9)2月22日
 
 吾人ハ協力一致本議会ニ於テ普通選挙ノ達成ヲ期ス

  大正九年二月二十二日

   全国普選連合会

☆衆議院選挙の選挙権の推移

<1889年(明治22)>
「衆議院議員選挙法」制定当初、次の資格を満たす者とされる
 ①日本臣民の男子で年齢満25歳以上
 ②選挙人名簿調製の期日より前満1年以上その府県内に本籍を定め居住し引き続き居住している
 ③選挙人名簿調製の期日より前満1年以上その府県内において直接国税15円以上を納め引き続き納めている

<1900年(明治33)>
改正「衆議院議員選挙法」により、次の資格を満たす者となる
 ①帝国臣民たる男子で年齢満25歳以上
 ②選挙人名簿調製の期日より前満1年以上その選挙区内に住居を有し引き続き有する
 ③選挙人名簿調製の期日より前満1年以上地租10円以上又は満2年以上地租以外の直接国税10円以上若しくは地租とその他の直接国税とを通して10円以上を納め引き続き納めている

<1919年(大正8)> 
改正「衆議院議員選挙法」により、次の資格を満たす者となる
 直接国税3円以上納付の満25歳以上の男子に改められる

<1925年(大正14)> 
改正「衆議院議員選挙法」(通称:普通選挙法)により、次の資格を満たす者となる
 納税資格が撤廃され、満25歳以上の男子となる

<1945年(昭和20)>
改正「衆議院議員選挙法」により、次の資格を満たす者となる
 満20歳以上の男女となる(選挙権が拡大され、婦人参政権が認められる)

<2015年(平成27)>
「公職選挙法等の一部を改正する法律」により、次の資格を満たす者となる
 満18年以上の男女となる(18歳選挙権の実現)

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1883年(明治16)病理学者緒方知三郎の誕生日詳細
1892年(明治25)詩人・随筆家・翻訳家尾崎喜八の誕生日詳細
1893年(明治26)北村透谷・島崎藤村らが文藝雑誌「文学界」を創刊する詳細
1897年(明治30)哲学者・啓蒙思想家・教育者西周の命日詳細
1935年(昭和10)小説家・ノーベル文学賞作家大江健三郎の誕生日詳細
1947年(昭和22)マッカーサーが、翌日から予定されていた「2.1ゼネスト」の中止を命令する詳細
1985年(昭和60)小説家石川達三の命日詳細
2007年(平成19)小説家高橋揆一郎の命日詳細

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 今日は、昭和時代後期の1970年(昭和45)に、日本の公衆電話の市内通話料金が、10円無制限から、3分10円になった日です。
 公衆電話(こうしゅうでんわ)は、不特定多数の人々が利用することを目的とし、街頭、店頭等の公衆が利用しやすい場所に設置された電話のことです。明治時代後期の1900年(明治33)に、日本初の街頭用公衆電話が、東京の新橋駅(中等待合室前)と上野駅(駅長室前)に1台ずつ設置され、「公衆電話の日」とも呼ばれてきました。
 また、翌10月には最初の公衆電話ボックスが京橋のたもとに建てられています。しかし、当時の方式は、交換手を呼びだしてからお金を入れて相手に繋いでもらうもので、「自動電話」と呼ばれていました。
 1925年(大正14)10月1日には、交換手が要らないダイヤル自動方式が採用され名称に混乱を来たすとして「自働電話」が「公衆電話」と改称されています。以前は、(1) 街頭公衆電話(駅前や繁華街など街頭にあり,ボックス式やポール式のもので、青電話ともいわれ、後に黄電話も登場した)、 (2) 店頭公衆電話(NTTが設置場所を選定し,取扱者を委託するもので、赤電話ともいわれた)、 (3) 局内公衆電話(郵便局,電報局などの局内にあるもの)、 (4) 特殊簡易公衆電話(加入電話を NTTと契約して,一般にも利用させるものでピンク電話ともいわれた)この他、列車公衆電話、航空機公衆電話などがありました。
 しかし、1990年(平成2)からアナログ回線にかわり、ISDN回線を使用したデジタル公衆電話も登場し、1995年(平成7)には、ピンク電話をのぞくすべての公衆電話が磁気カード式公衆電話(緑電話)にかわり、青電話、赤電話、黄電話は姿を消したのです。尚、1984年(昭和59)度末には、934,903台あった公衆電話も、家庭電話や携帯電話の普及等により、2015年(平成27)度末には、171,179台にまで激減しました。

〇「公衆電話」の歴史年表

・1890年(明治23)12月16日 東京と横浜での電話業務開始にともない初めて電話局内に「電話所」が設置される
・1900年(明治33)9月11日 東京の新橋駅(中等待合室前)と上野駅(駅長室前)に1台ずつ、街頭にて初めて設置され「自働電話」と呼ばれた
         10月 最初の公衆電話ボックスが京橋(現在の東京都中央区)のたもとに建てられる
・1903年(明治36) 共電式公衆電話機の設置を開始する
・1925年(大正14)10月1日 交換手が要らないダイヤル自動方式が採用され、「自働電話」が「公衆電話」と改称される
・1951年(昭和26)12月 委託公衆電話が登場する
・1953年(昭和28)1月 ボタン付き硬貨後納式の「青電話」の設置が開始される
         8月 「赤電話」(店頭公衆電話)が登場する
・1955年(昭和30) 10円硬貨前納式の「青電話」の設置が開始される
・1957年(昭和32) 近畿日本鉄道の特急2250系に日本初の列車公衆電話が設置される
・1959年(昭和34) 「ピンク電話」(特殊簡易公衆電話)が登場する
・1965年(昭和40) 東海道新幹線で列車公衆電話サービスが開始される 
・1968年(昭和43) ダイヤル市外通話可能な10円硬貨前納式の大型青電話の設置が開始される
・1970年(昭和45)1月30日 市内通話料金が10円無制限から、3分10円になる
・1972年(昭和47)12月 100円硬貨にも対応した「黄電話」の設置が開始される
・1975年(昭和50) プッシュ式黄電話の設置が開始される
・1982年(昭和57)12月 磁気カード式公衆電話(磁気テレホンカード使用可)の設置が開始される
・1986年(昭和61) 航空機公衆電話サービスが開始される 
・1993年(平成5) 公衆電話の通話料金が大幅に値上げされる
・1995年(平成7)3月 公衆電話のカード化が完了し、青電話、赤電話、黄電話が姿を消す 
・1999年(平成11)3月 ICカード対応公衆電話の設置が開始される
・2002年(平成14)11月 新規機種の開発の停止
・2005年(平成17) ICカード対応公衆電話の廃止に伴い、磁気テレホンカード式公衆電話の新機種DMC-8Aが出される
・2006年(平成18)3月31日 ICカード対応公衆電話のすべてのサービス終了する
・2007年(平成19) NTTが老朽化している公衆電話約2000台を新型公衆電話DMC-8Aに交換することを決定する
・2012年(平成24)6月29日 NTT東西が公式サイトにて全国の公衆電話の設置場所を公開する
・2016年(平成28年) DMC-8A公衆電話後継機種MC-D8のサービスが開始される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1788年(天明8)京都最大の3万軒以上を焼失した「天明の大火」が起きる(新暦3月7日)詳細
1823年(文政6)幕臣・政治家勝海舟の誕生日(新暦3月12日)詳細
1877年(明治10)西郷隆盛が主宰する私学校の生徒が新政府に反発、政府の武器を奪取して、西南戦争の発端となる詳細
1902年(明治35) 「第一回日英同盟協約」が調印される詳細
1945年(昭和20)藷類増産対策要綱」が閣議決定される詳細
1949年(昭和24)永井隆著の随筆『長崎の鐘』(日比谷出版社)が刊行される詳細
1974年(昭和49)「日韓大陸棚協定」が締結(発効は1978年6月22日)される詳細
2010年(平成22)児童文学作家川村たかしの命日詳細

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 今日は、昭和時代前期の1940年(昭和15)に、西成線列車脱線火災事故が起き、死者189人・負傷者89人を出した日です。
 西成線列車脱線火災事故(にしなりせんれっしゃだっせんかさいじこ)は、昭和時代前期の1940年(昭和15)1月29日午前6時56分に、大阪府大阪市此花区の鉄道省西成線(現在のJR西日本桜島線)安治川口駅構内において発生した列車脱線転覆火災事故です。駅員の誤操作により列車通過中にポイントが転換したため、通勤客で満員のガソリン動車(ガソリンカー)3両編成のうち最後尾の1両(キハ42000形42056号車)が2対のレールにまたがったまま走行し、踏切付近の構築物に衝突して脱線・転覆しました。
 これにより、燃料のガソリンへの引火で、火災が発生して満員のまま横転し、車両から乗客らの脱出が困難になり、死者189人、重軽傷者69人を出す大惨事となります。通常は、ポイントを列車が通過中は切り替えが出来ないように鎖錠装置が付いていますが、当時の西成線(現桜島線)には取り付けられていませんでした。
 この事故が契機となって、気動車の動力がガソリンエンジンからディーゼルエンジンへと切り替えが進められることとなります。尚、1963年(昭和38)4月15日に、安治川口駅前の道路際に、「南無阿弥陀仏慰霊碑」が建立されました。

〇昭和・平成時代の列車大事故(死者100人以上)

・1940年(昭和15)1月29日 西成線列車脱線火災事故(死者189人・負傷者89人)
・1943年(昭和18)10月26日 常磐線土浦駅列車衝突事故(死者110人・負傷者107人)
・1944年(昭和19)12月11日 沖縄県営鉄道輸送弾薬爆発事故(死者約220人)
・1945年(昭和20)8月24日 八高線列車正面衝突事故(死者105人・負傷者約150人)
・1947年(昭和22)2月25日 八高線列車脱線転覆事故(死者184人・負傷者495人)
・1951年(昭和26)4月24日 桜木町電車火災事故(死者106人・負傷者92人)
・1962年(昭和37)5月3日 三河島三重衝突事故(死者160人・負傷者296人)
・1963年(昭和38)11月9日 鶴見三重衝突事故(死者161人・負傷者120人)
・2005年(平成17)4月25日 宝塚線(福知山線)脱線転覆事故(死者107人・負傷者562人)

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1293年(正応6)南北朝時代の公卿・武将・学者北畠親房の誕生日(新暦3月8日)詳細
1634年(寛永11)江戸幕府が、各藩邸から出動して江戸市内の消火にあたる大名火消設置する(新暦2月26日)詳細
1879年(明治12)日本が国際電信連合(現在の国際電気通信連合)に加盟する詳細
1905年(明治38)週刊「平民新聞」第64号が赤字で発行され、「終刊の辞」が掲載されて廃刊となる詳細
1944年(昭和19)「中央公論」、「改造」の編集者が検挙され、横浜事件の一つ「中央公論・改造事件」の発端となる詳細
1946年(昭和21)GHQが「日本の行政権の行使に関する範囲の指令」(SCAPIN-677)を出す詳細
1991年(平成3)小説家井上靖の命日詳細
2019年(平成31)小説家・評論家・随筆家橋本治の命日詳細

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 今日は、江戸時代中期の1687年(貞享4)に、江戸幕府第5代将軍徳川綱吉の命により、諸藩に初めて「生類憐みの令」が発令され、犬だけだったものを牛馬などにまで拡大した日ですが、新暦では3月11日となります。
 「生類憐れみの令」(しょうるいあわれみのれい)は、江戸時代中期に、江戸幕府第5代将軍徳川綱吉によって、1685年(貞享2)~1709年(宝永6)まで実施された、極端な動物愛護令です。「生類を憐れむ」ことを趣旨とした諸法令の通称で、憐みの対象は牛馬・犬・鳥類をはじめあらゆる生類に及びました。
 鷹狩・狩猟にも制限が加えられましたが、特に犬に関しては重視され、1695年 (元禄8) に、江戸中野、四谷、大久保などに犬小屋を建てて犬を養い、その費用を江戸町民に課しています。違反者は死罪・遠島などに処せられたので、世の不満を買い、悪政の評判が高く、綱吉は「犬公方 (いぬくぼう) 」と揶揄されました。
 しかし、1709年(宝永6)に、綱吉が亡くなると、第6代将軍徳川家宣によって、廃止されています。

〇「生類憐れみの令」(抜粋)

  (一)覚
馬の筋のへ(延べ)候儀、第一用方に不宜、其上不仁なる儀にて、御厩(うまや)に立候御馬共、先年より御停止(ちょうじ)被仰付候えとも、今以世上にてハ拵馬在之由候、向後堅御制禁被仰出者也、
 貞享二年丑九月十八日

  (二)覚 御台所張紙写
鳥類貝類海老、向後於御台所つかひ申間敷(もうすまじき)旨被仰渡候、乍然公家衆御馳走其外御振舞之節は可為各別事(かくべつたるべきこと)以上、
 貞享二年丑十一月七日

  (三)覚
惣て人宿又ハ牛馬宿其外にも生類煩(わずらい)重く候えハ、未死内(いまだしなざるうち)に捨候様粗(あらあら)相聞候、右之不届(ふとどき)之族有之は、急度(きっと)可被仰付候、密々左様成儀有之候ハヽ、訴人に出へし、同類たりといふとも、其科(とが)をゆるし、御褒美(ほうび)可被下者也、
 (貞享四年)卯正月日

  (四)口上之覚
今度書付出候上ハ、身体かろ(軽)きものハ、はこくみ(育み)かね(兼ね)可申候間、町人ハ町奉行、地方(じかた)ハ御代官、道中筋ハ*高木伊勢守、給所は地頭え訴可申者也、
 (貞享四年)卯正月日
     *高木守勝。大目付、道中奉行兼任

  (五)覚
 一 捨子有之候ハヽ、早速不及届(とどけるにおよばず)、其所之者いたハリ置、直ニ養候か、又ハ望之者有之候ハヽ、可遣(つかわすべく)候、急度不及付届候事、
 一 鳥類畜類人の疵付(きずつけ)候様成ハ、唯今迄之通可相届候、其外友くひ(共食い)又ハおのれと痛煩候計にてハ不及届候、随分致養育、主有之候ハヽ、返可申事、
 一 無主犬頃日は食物給させ不申候様に相聞候、畢竟食物給させ候えハ、其人之犬之様に罷成、以後迄六ヶ敷(むつかしき)事と存、いたハり不申と相聞、不届候、向後左様無之様可相心得(あいこころうべき)事、
 一 飼置候犬死候えハ、支配方え届候様相聞候、於無別条は、向後ヶ様之届無用事、
 一 犬計に不限、惣て生類人々慈悲の心を本といたし、あハれミ候儀肝要事、
    以上
 (貞享四年)卯四月日

  『御当家令条』巻33より

   覚
一、生類あはれみ候儀に付、最前書付を以て仰出され候所、今度武州寺尾村、 同国代場村の者、病馬これを捨て不届の至に候。死罪にも仰付けらるべく候 得共、今度は先ず命御たすけ、流罪に仰付けられ候。向後相背くに於ては、 急度曲事に仰付けらるべく候。御料は御代官、私領は領主地頭より、前方仰 出され候趣、弥堅く相守り候様に急度申付くべき者なり。
  貞享四年四月

   覚
本所相生町三町目大工善次郎弟子
   犬を切殺し候者市兵衛
右市兵衛犬切殺し候由、本所相生町弐町目左官嘉兵衛と申す者の娘しもと申す小女申し候に付、御□議相知れ候間、御褒美として金子五拾両しもに下され候。
  子八月
右の通仰付けられ候間、町中家持は申すに及ばず、借家店かり出居州召仕等迄、残らず申聞くべく候。以上。
  元禄九年子八月六日

 元禄十年丑四月廿五日迄書上高
一、三年以前元禄八年亥五月廿五日より四谷御囲え人に荒き犬納る、同年十一 月廿四日より中野御囲え納ね候事。
一、町方犬、中野大久保両御囲え納め候犬数、同亥十月書上高四万弐千百八疋、 其外出生書落。
一、同新御支配御囲え納高、去子六月書上高千九百疋。
 右の外出生犬弐千八百八拾壱疋、残り犬拾五疋、三口合納高四万八千七百四 拾八疋。残り犬百五拾壱疋

  『正宝事録』より 

☆生類憐みの令関係略年表(日付は旧暦です)

<天和3年(1683年)>
・2月3日:生類、高級織物などぜいたく品の輸入を禁止する。
・2月29日:「辻番ハ道路ノ病人、酒酔イヲ介抱スヘシ」。

<貞享元年(1684年)>
・会津藩に対し、「生類を憐れむ」ためとして、鷹の献上を禁じる。
・4月6日:上総国市場村の惣右衛門、御鷹場で鳥を捕まえ、老中指図により牢屋斬罪。ただしこれは、幕府の狩場での勝手な猟はそもそも禁止であり、生類憐みの令とは深い関係は無い。
・8月28日:生類憐みの令に反対の立場であった大老の堀田正俊が、若年寄の稲葉正休に刺殺された。

<貞享2年(1685年)>
・2月12日:高札立つ。「近ごろ江戸近辺でみだりに鉄砲を撃つ者がいる。捕まえた者、訴えた者に賞金を出す」。
・4月14日:駿河国上柚野村の佐野藤兵衛、武州羽生領下之村の伝兵衛の案内で鶴2匹を撃つ。2人とも品川獄門(鈴ヶ森刑場にて晒し首)。
・5月21日:上総国神納村の弥五兵衛、御法度の場所で鉄砲を使い鳥を撃ち、牢屋斬罪。首は神納村で獄門。
・7月14日:将軍御成の道では犬・猫を繋がずに放しておいて構わない
・7月14日:御成り道に犬が出ないよう門前の犬数十匹を捕まえ、俵に詰めて隅田川に沈めた浅草観音の手代、遠島になる。「僧侶の法にそむいた」と浅草観音別当知楽院忠運と代官閉門。8月6日忠運は追放。
・9月18日:以前からの禁止である馬の筋を延ばさないこと
・11月7日:江戸城において、鳥・貝・エビを料理に使うことを禁じる。
・12月16日:旗本清水権之助(清水政広)組の三郎左衛門、新吉原で網を張り鴨を捕る。翌年1月18日牢死。死骸取り捨て。
・12月25日:鷹匠頭の間宮左衛門の同心2人精進日に鶴を捕獲し死罪、鷹師切腹。間宮は職を奪われ閉門。

<貞享3年(1686年)>
・2月3日:「馬の尾を巻くのは雨天の時、縄二重までならよい。馬喰の馬は拵え馬と紛らわしく一切禁止」。
・2月7日:「馬の尾先を焼くのは養生(治療)のためならよい。尾ぐきを切り、焼きごてをあてるのは禁止」。
・6月6日:御小姓の伊東基祐(伊東淡路守)、服忌令を守らず、頬にとまった蚊を手で打ち殺し供奉したため、閉門処分。
・7月19日:大八車でイヌや猫を轢かないように注意することと、最前からの通達のように、野犬に餌をやらないことと、生類のやり取りをしない風潮があるとして、「生類あわれみ」の志をもって対応するように申し付けた法令。
・9月1日:伊予国西条藩主松平頼純(松平左京大夫)使用人の加左衛門、酒を飲み前後不覚、南青山で米を積んだ馬の尻を小刀で刺す。牢舎、追放。
・9月5日:芝車町(港区高輪)長蔵の大八車が船町(日本橋室町)で犬をひき殺す。長蔵は牢舎入り、8日後に赦免される。
・12月16日:永井直敬(永井伊賀守)家来召使、長谷川町(日本橋堀留町)で犬を突き殺す。酒狂い、揚屋(武士などが入る牢屋)入り、同24日赦免。

<貞享4年(1687年)>
・1月1日:病馬を捨てることを禁止
・1月28日:諸藩に初めて生類憐みの令が発令される。「生類の病気が重ければ死なないうちに捨てるように聞いている。不届きである。ひそかに捨てる者がいれば訴え出なさい。褒美を下される」。
・2月4日:江戸城台所頭の天野五郎太夫、八丈島に遠島。本丸の井戸に蓋を忘れ、猫が2匹落ちて死んだ。さらにそれを知らずに井戸水を使って料理を行ったため。
・2月11日:「町内の犬の毛色などを記しておきなさい。いなくなったら犬は探さなくてよい」。
・2月16日:「鷹場での殺生を禁じる。ひそかに鷹を使う者がいれば訴え出なさい」。
・2月21日:「老中に心得違いがあった。養い置いた犬が見えなくなったら尋ねて探しなさい。犬がいなくなった時、よそから別の犬を連れてきて数合わせをしてはならない」。
・2月21日:「(将軍、老臣への)鳥類献上は年に1度、少量。生きた魚、貝類は禁止」と諸大名に命じる。
・2月27日:魚鳥類を生きたまま食用として売ることを禁止(鶏と亀と貝類も含む)
・2月28日:「御触れが出て急に鳥を絞め殺すのはいけない。生きた魚、生いけすの魚、貝類のほか鯉、鮒、海老など生きたものの商売は禁止」貝採り漁民困窮の訴えでひな祭りのハマグリ解禁。
・3月26日:「鳥類(食用)飼育禁止。鶏、アヒル、唐鳥などは餌がないと飢えるので飼ってもよい」。
・3月28日:新銀町(神田司町)の奥平、板橋で犬を切り捕まる。酒酔い記録なし。4月6日江戸追放。
・4月:捨て子を養育すること、人が傷つけた鳥類・畜類は届け出るように通達。
・4月7日:駿河国田中藩主土屋政直(土屋相模守)中間、数寄屋町(中央区銀座)で犬7、8匹に吠えかけられ衣類にかみつかれ、脇差を抜き払い、犬を傷つける。揚屋入り。不意のことにつき、6月4日赦免。
・4月9日:病馬を捨てた武蔵国神流川領寺尾村(横浜市)の3人が三宅島へ遠流に処される。同領代場村の7人も流罪。(武蔵国村民10人)。
・4月10日:小石川御殿番・保泉市右衛門の奴僕角右衛門、喧嘩していた犬を脇差で切り逃走。のち出頭した。八丈島に流罪となる。主人の保泉は俸禄を召上げられる。
・4月11日:「捨て子は届けなくてよい。望むものにあげてよい。金銭は不要」「鳥類、畜類を人が傷つけたら届けなさい。とも食い、自ら痛みわずらう時は届けなくてよい」「主なき犬、居つかないように食べ物をやらないのは不届き。左様にしてはならない」「飼い置いた犬が死んでも別条なければ届けなくてよい」「犬に限らず、生類、人々、慈悲の心を元としてあわれむことが肝要である」。
同日:師匠の弔い帰りの権兵衛、神田鍋町(千代田区鍛冶町)で犬3匹が師匠女房の駕籠に吠えかかり、脇差を抜き追い払い、犬の耳を傷つける。「不届き」と揚屋入り後、6月24日江戸十里四方追放。
・4月21日:「犬猫が死んだら捨ててはいけない。埋めておきなさい」。
・4月23日:「町中で生きたイモリ、黒焼き商売を禁じる」。
・4月30日:江戸城中門を警護する持筒組与力、同心遠慮を命じられる。門上の鳩に小石を投げ追い払ったため。
・5月12日:岡部隠岐守六尺(駕籠かき)角左衛門、当月11日西ノ久保(港区神田町付近)で犬を切り殺す。辻番が捕え、牢舎入り。10月20日牢死。
・6月10日:大八車で味噌を運ぶ召使2人、宇田川町(港区浜松町)でアヒルをひき殺す。牢舎後同24日赦免。
・6月23日:宇田川町(港区)の文四郎、駄馬馬を脇差で切る。馬と百姓けが。酒で記憶なし。7月16日赦免。
・6月26日:多々越甚大夫(旗本秋田季品の家臣)が、徳川家綱の命日である6月8日に、吹矢で燕を撃ち、5歳児の病気養生に食わせたため死罪。これを見ていた同僚の山本兵衛は八丈島へ流罪。
・7月2日:「(江戸の町)どこでも生類売買禁止。虫を飼うこともいけない」。同日、京橋の虫売りが牢舎処分。桧物町(中央区日本橋)の三助、井戸の樋を転んで落とし、これが犬に当たり死んだ。牢舎後、同6日赦免。
・7月3日:馬を引いていた九兵衛、下舟町(日本橋小舟町)で鶏を踏み殺す。牢舎後、8月15日赦免。
・9月13日:「辻番人は生類を傷つけた往来の者がいれば人を同行させ、居所を確かめ、目付に申し出なさい」。
・9月29日:倒れた馬を放って帰り、死なせた武蔵国下仙川村(調布市)の次郎兵衛が牢舎。12月29日八丈島流罪。
・12月9日:「鹿猪の害があれば玉を込めずに鉄砲でおどしなさい」。
・12月12日:「最近も捨て馬する者がいる。この度も流罪を仰せ付けた。今後も重科とする」。
・12月23日:「捨て馬御慈悲をもって今度も流罪とした。理由によっては御代官、地頭の責任とする」。
 月不明:常陸国下館藩主増山正弥(増山兵部)の家来、犬にかまれ、その犬を切り殺した罪で切腹。土屋大和守の家来、犬にかまれ少し犬を切り江戸追放。大和守も遠慮を命じられる。土井信濃守[35]中間、犬をたたいた罪で扶持を奪われる。

<元禄元年(1688年)>
・1月29日:「屋号、人名などに鶴の字、鶴の紋の使用禁止する」。
・2月18日:トビとカラスの巣払い令を出す。江戸町人地を除く。(元禄6年2月から江戸町人地にも発令)。
・4月12日:餌差の弥兵衛、前夜浅草たんぼで網を張り鴨を獲る。揚屋入り後、翌年8月12日隠岐島に流罪。
・5月29日:1月20日に鶏2羽を売った飴売り伊右衛門、品川で獄門。仲介した増上寺門前町(港区)与四兵衛は4月8日に牢死。鳥を買った新堀同朋町与兵衛は5月10日に牢死。岩井町(千代田区岩本町)の清兵衛、品川などで鳥を獲ったと白状し、本所三つ目横堀で獄門。芝金杉(港区)の作右衛門、本所三つ目横堀で獄門。1月26日に同所八兵衛ら茶船を借り、もち縄を使い押上村(墨田区)で白雁4羽を捕らえる。八兵衛は牢中で患い病死。6月19日囚人待遇改善。
・5月30日:鳩をおびき寄せるための鳩笛が役に立たず小細工奉行大類次郎衛と手代ら3人追放、町大工1人手鎖。御城中門で鳩に小石を投げた御小人新右衛門を江戸から追放。
・6月19日:牢死が多く、囚獄(小伝馬町)の待遇改善を命じる。冬に風が吹き抜けないよう所々に格子を設け、行水は月に5度ずつ、宿無しには雑紙をやり、秋には布子を1枚増やして2枚与えるようにした。
・8月22日:餌差頭の内田市郎右衛門父子が佐渡島へ、子弟6人が薩摩国へ流罪。鳥銃を隠していた罪。
・8月27日:留守居番与力の山田伊右衛門、門外に子犬が捨ててあったのを養わなかったため追放。
・10月3日:武蔵国新羽村(横浜市港北区)の西方寺、コウノトリが巣を掛けた木を切り閉門処分。村人も罪を蒙る。
・10月9日:道中奉行御触れ「病牛馬捨ててはいけない。病気の旅人には薬をやり面倒を見なさい」。
・12月25日:武蔵国上忍田村で鳥を捕まえていた百姓の安左衛門、犬が吠えかかるので鎌を投げつけた。犬は左前足に少々けが。名主より訴えがあり、牢舎。翌年2月27日に神津島へ流罪。

<元禄2年(1689年)>
・1月9日:神田鍛冶町の久兵衛、鶏をしめ、毛をむしり捕まる。約2年間牢舎、のち赦免。
・1月16日:芝金杉(港区)の山伏法光院、犬2匹を切り怪我をさせた。酒で記憶なし。牢舎後、2月6日追放。
・2月2日:側用人で犬支配役喜多見重政が罷免され改易。
・2月27日:病馬を捨てた武士14人、農民25人、神津島に流罪。
・3月6日:湯島広小路辻番3人、水路内に犬の死体があり、番を申し付けられたが、近くを立ち回るうちに上流の堰板が外されて増水、犬の死体は押し流されて見えなくなった。3人は牢舎後、江戸五里四方追放処分。
・5月11日:生類憐みの令以前のことが罪に問われた。貞享3年(1686年)9月から同4年(1687年)2月まで持弓頭(城警備担当)の中根正和(中根主税)に捕えられ、牢舎入り。中根の交代[注釈 3]で身柄が後任に引き渡され、以下全員死罪となる。清兵衛・五郎左衛門・鮒屋市郎兵衛・善兵衛・勘兵衛、お堀で鯉鮒獲り、牢屋死罪。八兵衛、お堀の鯉鮒買い取り、牢屋死罪。安左衛門・仁左衛門・久兵衛、お堀で鯉鮒獲り、牢屋死罪後、獄門[37]。
・6月28日:「猪鹿狼は害になる時のみ銃で撃ってよい。死骸はそこに埋め、売ること食べることを禁止する」。
・10月4日:評定所目安読の坂井伯隆、閉門。評定所で犬が喧嘩をしているのを止めず、犬が死んだため]。
・10月9日:白金台(港区)の安右衛門ら6人、3月14日猪狩り。薩摩国の島へ流罪。ほか1人、隠岐島へ流罪。
・10月10日:病気の犬にも餌を与えるよう通達。

<元禄3年(1690年)4月18日:常陸国作屋村(つくば市)の酒屋平兵衛、馬を打ち殺し江戸十里四方と在所追放。
・10月25日:捨て子禁止令。「捨て子はいよいよ御禁制である。養育できなければ申し出なさい」。
・11月3日:7歳までの子供の届け出制。「子供の出生、死亡、奉公、養子、引越、名主方の帳面につけ置くこと」。

<元禄4年(1691年)8月12日:小野吉兵衛組の餌差弥五兵衛、隠岐島へ流罪。元禄元年(1688年)4月12日浅草たんぼで鴨を獲り揚屋入り。
・8月11日:「公方様に糞を落しカラス八丈島に島流し」。
・8月12日:上餌差町(文京区小石川)の忠兵衛、揚屋入り約3年半ののち隠岐島へ流罪。元禄元年(1688年)2月放し雀(寺社参りの人が放生する雀)売りの権七に雀50羽を売る。
・8月13日:小石川源覚寺前(文京区)、放し雀売りの権七、揚屋入り約3年半ののち薩摩へ流罪。甲州秋元摂津守領の百姓権左衛門、薩摩へ流罪。鉄砲で鳥打ちした。摂津守家来が召し連れ7年前に揚屋入り。牢内で患い、いったん外に出たが、回復し再度揚屋入り後、流罪。
・10月21日:蛇を使って客を集め、薬を売った南小田原(中央区築地)の藤兵衛、蛇を貸した市右衛門の2人捕まる、市右衛門は11月16日牢死、死骸取り捨て。藤兵衛は翌年2月江戸追放。
・10月24日:蛇使いの興行と、犬・猫・鼠に芸を覚えさせて見世物にすることを禁止
・11月22日:旗本鳥居久大夫の召使三助ら3人死罪。11月11日門前にいた鷺を殺して食べる。

<元禄5年(1692年)>
・1月:喜多見(世田谷区)に病犬を収容する犬小屋を建設する。病馬も収容した。
・2月6日:1年前まで蛇を使い薬売りしていた又兵衛、半年前にやめた次兵衛、牢舎。6月6日江戸追放。
・8月石田坂村(青森県五所川原市)の次兵衛、熊を殺して食し津軽藩より老中に報告。牢舎11か月、新島に流罪。

<元禄6年(1693年)>
・4月30日:「遠国で猪鹿狼の害がある時はまず空砲、害がやまないなら鉄砲で打ち鎮め、下々が難儀しないよう後日大目付に書付を出せばよい。生類憐みは人々に仁心が備わるようにとの思し召しである」。
・8月9日:高田馬場(新宿区)で埋めた猪を掘り出し隠した非人3人、死罪。
・8月、趣味としての釣りを禁止する禁令が通達される

<元禄7年(1694年)>
・3月11日:「馬のもの言い」事件で浪人の筑紫団右衛門、斬罪。流罪を言い渡された八百屋の惣右衛門牢死。とばっちりで落語家の鹿野武左衛門、伊豆大島に流罪。この事件に関して口書(調書)を取られた江戸町民35万3588人。
・7月4日:霊岸島(中央区)の七左衛門、鶏のひなを食った家主の猫を殺す。牢舎後、同12日江戸十里四方追放。
・8月2日:歩行頭佐野内蔵丞の知行所の上飯田村(横浜市泉区)で猪狩りが行われ、内蔵丞は職を奪われ、逼塞処分。
・8月6日:上飯田村の百姓に猪狩りを命じた内蔵丞家来の酒井井伝左衛門、品川(鈴ヶ森刑場)で獄門。猪肉を切り取った百姓5人、隠岐島へ流罪。正直に話さなかった百姓4人追放。訴状を差し出した上飯田村百姓の忠兵衛、江戸市中引き回し品川で磔。息子は遠島。
・11月16日:江戸市中の金魚(赤色)・銀魚(白色)を清浄光寺の放生池に放つことを許可する。ただし放つときにはその数を目付に報告するよう求めている

<元禄8年(1695年)>
・2月10日:このころ千住で磔にされた犬2匹見つかる。「犬公方の威を借りて諸民を悩ます」と捨文。8月9日旗本次男で大番の河村甚右衛門が「無作法の体をなし、その上捨文いたした」罪で斬罪に処せられた。
・6月1日:四谷、大久保の犬小屋落成。同3日「町中の人に荒き犬」は四谷へ送るよう町触れ。「町中の牝犬残らずこの小屋(四谷)に入れ置かれる」と『加賀藩史料』に記されている。
・10月16日:大坂定番で三河国大給藩主松平乗成(松平縫殿頭)組の与力三浦伝之丞と同心8人、同心の子1人の計10人,鳥銃で殺生し鳥を売っていたとして切腹。ほかに浪人1人が死罪獄門、その子は遠島。同組の同心5人遠島、町人2人追放。
・10月25日:本郷菊坂(文京区)の旗本屋敷辻番の八兵衛、溝に捨てられた子犬を別の屋敷脇に捨てる。「母犬が来る所に置いた」と弁明したが、「養わず不届き」と牢舎。11月25日、浅草で斬罪獄門。辻番4人追放。
・11月13日:武蔵・中野村に野犬を収容するための16万坪の「お犬小屋」が設置される
・11月14日:中野犬小屋へ江戸町内の犬の送り込みが始まる。「不日に(すぐに)十万頭に及ぶ」(『徳川実紀』、「おおよそ犬拾金万疋なり」『年録』『柳営日次記』)。

<元禄9年(1696年)
・犬虐待への密告者に賞金が支払われることとなった。
・2月7日:新材木町(日本橋堀留町)の半兵衛、子犬を絞め殺し、大伝馬町の孫右衛門の手代2人の名を書いて捨て捕まる。半兵衛の、孫右衛門への恨みによる犯行であった。半兵衛は26日に浅草にて磔。
・5月18日:犬小屋の犬を養うため御犬上げ金を徴収する、と江戸の町々に御触れがあった。7月4日に、御犬上げ金、小間一間(20坪)につき年に金3分を課すと通告。
・5月19日:小石川の水戸家上屋敷前で矢の刺った鴨の死体発見。8月21日小普請奉行の飯田次郎衛門、虚説を申し大島へ流罪、2人追放。犯人不明。
・7月6日:本所相生町3丁目(墨田区)で犬が殺された。大工善次郎の弟子市兵衛が捕えられ、磔となった。通報した娘しもに「ご褒美50両」と町触れが出る。西ノ久保(港区神谷町付近)で切り傷のある犬が見つかった。8月9日、村山長古の召使が掴まり、遠島となる。村山に遠慮仰せつけられる。
・8月17日:大酒飲み禁止令。「酒に酔い、心ならずも不届きする者がいる」。
・8月22日:「捨て子はいけない。妊娠、出産、傷産、流産、3歳までに死亡かなど大家、地主に知らせなさい」。

<元禄10年(1697年)>
・5月18日:御犬上げ金、小間一間につき年金3分を金1分に減額する。
・5月25日:旗本渥美友延(渥美九郎兵衛)召使の折茂小兵衛、死罪。2月24日、渥美家屋敷内で鳩を射殺したため。
・7月4日:芝で犬が切り殺された件で、筑後国久留米藩主有馬中務大輔(有馬頼元)の掃除人2人が牢舎となった。処罰不明。8月13日、有馬頼元、遠慮を命じられる。
・7月27日:銃で殺生をした男、大坂で斬刑。息子の遠島刑猶予を河内国通法寺が隆光を通じ嘆願し、認められる。
・10月9日:全国の造り酒屋に運上金(酒の値段の五割)上納を命じる。
・10月13日:青山宿での捨て犬の件で近藤德用(近藤登之介)組の同心2人、伊東出羽守の辻番人追放。
・10月26日:青山久保町の喜三郎、子馬3匹捨てた罪で、江戸市中引き回し品川鈴ヶ森刑場で獄門。

<元禄11年(1698年)>
・2月15日:本郷3丁目(文京区)の谷口与右衛門、犬を切り殺し千住小塚原刑場で磔。加賀藩屋敷脇で犬に囲まれ、脇差で1匹の頭を傷つけた。母は息子の死を嘆き鈴ヶ森刑場と小塚原刑場に石塔を立てた(『江戸真砂六十帖』)。
・8月8日:出羽国庄内藩の足軽が江戸に向かう途中、野間村(栃木県那須塩原市)で駄賃馬を切り殺した。酒に酔い前後不覚だったため幕府評定所、江戸十里四方と在所追放とする。
画家で芸人の英一蝶、三宅島に流罪となった。流罪に至った理由は諸説あるが、正式採用されたのは「釣りを行った罪」であるとされる。この年、釣り道具の販売禁止が追加で通達されている。

<元禄12年(1699年)
・10月2日:世田谷の20ヵ村に対し、中野犬小屋の犬の養育が提案された。1匹につき年に金3分の養育費を支払う。犬を養育する村はその後増え、宝永3年(1706年から5年(1708年)までに幕府が近郊の百姓に支払った養育金の合計は3万5430両になった(『竹橋余筆』)。1年平均で1万1810両。計算上、犬は1万5747匹養われていたことになる。

<元禄15年(1702年)>
・10月13日:伯楽(馬医)の橋本権之助、飼っていたアヒルを襲った犬を殺し、切腹を仰せ付けられた。

<元禄16年(1703年)>
・2月4日:幕領南山代官所管内(福島県)、南会津西沢村の馬喰彦八、捨て馬により磔。
・12月7日:火事地震につき(11月の「元禄の大火」と同月の「元禄地震」)、当年の犬扶持(御犬上げ金)が免除された。同18日、半年分返却。翌年も赦免。

<元禄17/宝永元年(1704年)>、改元して三月以降は年(1704年)
・2月18日:「生類憐みの志、いよいよ大事である。捨て子、捨て牛馬、捨て犬は堅く禁じる」。
・3月13日:宝永に改元。大地震後も天変地異、大火災、綱吉の肉親の死が続いた。綱吉は祈祷に頼り、生類憐みの令を連発したとされる。
・6月14日:大地震被害が甚大であったため、御犬上げ金赦免。翌年も赦免。

<宝永2年(1705年)>
・6月3日:「牛馬に重荷あるいは嵩高のあるものを負わせてはならない」。
・9月7日:漁師以外の釣り禁止。同20日、愛玩としての鳥の飼育禁止、同28日牛馬犬猫以外の獣類の飼育禁止、など新規項目の御触れが続々追加された。
・11月6日:「鳥方の者、鵜を捕えるのにモチ竿を投げつけるは生類憐みに背く」と追放、押込となる。
・11月25日:切手門番の肥田十郎左衛門の家人が鳥を獲り、肥田も飼育したため職を奪われ閉門。

<宝永3年(1706年)>
・8月18日:中野犬小屋へ犬移しの立ち会いに行った徒目付2人、犬をよく見ていなかったとして追放になる。
・8月21日:旗本岡野宗明(岡野孫市郎)の中間庄兵衛、庭掃除中に鶏と餌の奪い合いをするアヒルを箒で手荒に追い払い死なせた。庄兵衛は遠島。餌詰まりで死亡と検分した徒目付の石黒太夫、北条平七の両名遠島。
・8月30日:「鳥商売、ウナギ、ドジョウの商売禁止。牛馬に重荷だけでなく、かさの張る物も積んではいけない」。

<宝永4年(1707年)>
・2月22日:「雑説流言を申し触れる者がいる。落書捨文はいけない。牛馬に重荷、飼鳥、鳥獣商売一切禁止」。
・8月11日:「鳥商売厳禁。所々の茶屋でアナゴと称しウナギ蒲焼を売ると聞く。その者は召し捕り牢舎する」。
・8月27日:小石川御殿で放し飼いにされていた鶴が死に、御殿の鳥飼番4人が重追放処分を受けた。

<宝永5年(1708年)>
・7月19日:「前々より触れている通り漁師以外釣り、鳥商売、茶屋でのウナギ、ドジョウ料理は禁止である」。
・9月29日:小姓組の仙石左門、馬が途中で患い出したが、粗末に扱い、閉門を仰せ付けられる。
・10月27日:寄り合い番3人が酔って馬に傷をつけ、1人追放、2人は遠慮。
・12月16日:最後の生類憐みの令。「馬持ちの者、1人で2、3匹引き歩く者がいると聞く。万一馬が病気になったり、けがをしたりした時によろしくない。1人1匹にしなさい」。

<宝永6年(1709年)>
・1月10日:綱吉、はしかで死去。
・1月20日:生類憐みの禁が解かれた。町奉行御触れ「生類の儀、今後は(幕府から)おかまいはない。もっとも憐れむことは憐れみなさい」。小石川・鳥屋敷に飼い置いていたトビ、カラスを放す。
・2月1日:鳥獣が死んだ時の検死をやめ、将軍家の食材の禁制を廃止した。
・2月2日:小石川の野鶴畜養所を廃止し、野鶴を放す。
・3月1日:老中列座に仰せ。「鼠は衣類を害するので猫を飼い、鼠を捕らせなさい。鹿猪は田畑を荒らし人が困るので殺し、その皮は売り買い致し、肉は食べるものである」。
・3月2日:酒運上金を廃止。鳥、ウナギ、ドジョウの商売を解禁し、囚獄に入れられていた者(人数不明)を釈放する。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

712年(和銅5) 太安万侶が編纂した『古事記』が完成し、元明天皇に献上される(新暦3月9日) 詳細
1582年(天正10) 天正遣欧使節がローマに向かって長崎港を出港する(新暦2月20日) 詳細
1886年(明治19) 日本とハワイ王国との間で、「布哇国渡航条約」(明治19年勅令無号)が締結される 詳細
1912年(明治45) 放射線医学者高橋信次の誕生日 詳細
1924年(大正13) 上野公園・上野動物園が宮内省から東京市に下賜される 詳細
1946年(昭和21) GHQが「映画検閲に関する覚書」(SCAPIN-658)を出す 詳細
1948年(昭和23) 関西汽船「女王丸」が瀬戸内海で触雷して沈没、死者・行方不明者188名を出す(女王丸沈没事故) 詳細
1956年(昭和31) 日本が「万国著作権条約」を批准(効力発生は同年4月28日)する 詳細

The-City-of-Tokio01
 今日は、明治時代前期の1885年(明治18)に、第1回官約ハワイ移民927名がシティ・オブ・トーキョー号で日本を出発した日です。
 日本からのハワイ移民(にほんからのはわいいみん)は、江戸時代後期の1860年(万延元)に、日本の遣米使節団がハワイに寄港した際、ハワイ王国のカメハメハ4世が労働者供給を請願する親書を信託したことに始まります。その中で、1868年(慶応4年4月25日)に、ヴァン・リードが、サイオト号で153人の日本人を、無許可でホノルルへ送り出しましたが、翌年日本側は自国民を奪われたとして、上野景範と三輪甫一をハワイに派遣し、抗議を行ない、1870年(明治2)には、少なくとも男性50人、女性6人(計56人)は、「契約と実際の状況が違う」と年季明けを待たずに帰国しました。
 1871年(明治4)には、「日布修好通商条約」が締結され、1884年(明治17)には、最初のハワイ移民600人が公募されて28,000人の応募があり、その中から、翌年1月に、第1回官約ハワイ移民927名が日本からハワイへ渡ります。1886年(明治19)1月28日には、「布哇国渡航条約」が締結(同年6月2日公布)され、次々とハワイへ移民が送り込まれましたが、労働は過酷で、半ば奴隷に近かったとも言われてきました。
 1894年(明治27)の26回目の移民(計約29,000人)をもって官約移民制度は廃止され、「移民保護規則」が公布され、民間移民会社が認可されましたが、1896年(明治29)には、「移民保護法」が制定されます。その中で、日本との移民事業を行う会社が30社以上設立され、特に広島海外渡航会社、森岡商会、熊本移民会社、東京移民会社、日本移民会社は五大移民会社と呼ばれ、勢力を誇りました。
 1898年(明治31)に、アメリカ合衆国によって、ハワイ共和国(布哇共和国)が併合され、1908年(明治41)の「日米紳士協約」などにより日系の移民会社は全て消滅します。1924年(大正13)に「排日移民法」が成立し、日本人のハワイへの移住は事実上不可能となったものの、それまでに約22万人が日本からハワイへ渡ったとされてきました。
 以下に、「布哇国渡航条約」を掲載紙ておきますので、ご参照下さい。

〇ハワイへの日本人移民関係略年表

・1860年(万延元) 日本の遣米使節団がハワイに寄港した際、カメハメハ4世は労働者供給を請願する親書を信託する
・1868年(慶応4年4月25日) ヴァン・リードは、サイオト号で153人の日本人を、無許可でホノルルへ送り出す
・1869年(明治2) 日本側は自国民を奪われたとして、上野景範と三輪甫一をハワイに派遣し、抗議を行なう
・1870年(明治2) 153人のうち、少なくとも男性50人、女性6人は、「契約と実際の状況が違う」と年季明けを待たずに帰国する
・1871年(明治4) 「日布修好通商条約」が締結される
・1884年(明治17) 最初のハワイ移民600人が公募される
・1885年(明治18)1月 第1回官約ハワイ移民927名がシティ・オブ・トーキョー号で日本からハワイへ渡る
・1886年(明治19)1月28日 「布哇国渡航条約」が締結(同年6月2日公布)される
・1894年(明治27) 26回目の移民をもって官約移民制度は廃止され、「移民保護規則」が公布され、民間移民会社が認可される
・1896年(明治29) 「移民保護規則」が「移民保護法」となる
・1898年(明治31) アメリカ合衆国によって、ハワイ共和国(布哇共和国)が併合される
・1903年(明治36) 日中移民のほかに、韓国人の移民を推進する
・1908年(明治41) 「日米紳士協約」などにより日系の移民会社は全て消滅する
・1924年(大正13) 「排日移民法」が成立し、日本人のハワイへの移住は事実上不可能となる

☆「布哇国渡航条約」(はわいこくとこうじょうやく)とは?

 ハワイに労働移民した日本人の人権を守ることを目的として締結された、日本とハワイ王国との間の二国間条約で、「日布移民条約」とも呼ばれてきました。
 1885年(明治18)1月に、両政府の取扱いによる移民が開始され、先ず956人が甘蔗(サトウキビ)園労働者として渡航します。それを踏まえて、この条約が、1886年(明治19)1月28日に、東京において日本側全権委員の井上馨と駐日ハワイ代理公使のアーウィン(Robert Walker Irwin)との間で調印され、3月6日にハワイ国外務省において批准書交換、6月2日に公布されます。その主な内容は、「渡航ハ橫濵及ヒ「ホノルル」ノ兩港間ニ限リ之ヲ行フ」(第3条)、「渡航ハ總テ契󠄅約ニ因ルヘク又󠄂其契󠄅約ハ何年間以下ヲ期限トシ」(第4条)、「渡航人原告、被告、告訴人若クハ被告訴人ト成リ布哇國法廳ニ出訴スルトキハ布哇國政府ハ右通󠄃辯人ヲシテ右渡航人ヨリ別ニ謝金ヲ要セス其職ヲ勤メシムヘシ」(第6条)、「日本醫師ヲ應分󠄃ニ傭入レ之ニ官醫ノ資󠄄格ヲ與ヘ又󠄂之ヲシテ渡航人ノ治療ニ時々必要ト成ルヘキ地方ニ住󠄃居セシムヘシ」(第7条)などとなっていました。
 この条約に基づいてハワイに渡った移民は、「官約移民」とも呼ばれ、以後1894年(明治27)までの間に計26回行われ、約3万人が渡航しています。その後、1894年(明治27)に「移民保護規則」が公布され、さらに1896年(明治29)に、これが「移民保護法」となりました。
 以下に、「布哇国渡航条約」(明治19年勅令無号)を全文掲載しておきますので、ご参照下さい。

☆「布哇国渡航条約」(明治19年勅令無号)1886年(明治19)1月28日調印、同年6月2日公布

朕󠄁本邦󠄈人民布哇國ヘ隨意渡航ノ件ニ關シ同國政府ト締結󠄂シタル渡航條約ヲ批准シ玆ニ之ヲ公󠄃布セシム

御名 御璽

明治十九年五月三十一日

          內閣總理大臣伯爵󠄄伊藤博󠄃文󠄃
          外󠄂務大臣伯爵󠄄井上 馨

渡航條約

日本皇帝陛下ノ臣民ニシテ既ニ布哇諸島ヘ渡航シタル者𢿙多アリ又󠄂本條約ヲ以テ確認󠄃セントスル從前󠄃ノ隨意渡航方法ニ因リ向後渡航セントスル者アルヘク又󠄂日本皇帝陛下及布哇國皇帝陛下ハ右渡航人ヘ布哇國ノ憲󠄄法法律ニ遵ヒ最モ完全󠄃且有効ノ保護ヲ與ヘントノ希望󠄉アルヲ以テ右重要ノ事件ニ付條約ヲ締結󠄂センコトヲ決定セリ因テ渡航條約ヲ協議締結󠄂セシメンカ爲メ日本皇帝陛下ハ外󠄂務大臣從三位勳一等伯爵󠄄井上馨ヲ其全󠄃權委員ニ又󠄂布哇皇帝陛下ハ其代理公󠄃使󠄃兼總領事ナイト、コンマンドル、ヲフ、カラカハ勳章「ロベルト、ウヲルカー、アルウヰン」ヲ其全󠄃權委員ニ命シ雙方互ニ委任ノ書ヲ示シ其誠實適󠄃當ナルヲ認󠄃メ以テ左ノ條々ヲ合議決定セリ

第一條 本條約ノ條欵中既ニ布哇諸島ヘ渡航シタル日本皇帝陛下ノ臣民ヘ適󠄃用シ得ヘキモノハ向後渡航セントスル臣民同樣ニ之ヲ適󠄃用スヘキコトヲ雙方互ニ結󠄂約セリ

第二條 本條約ノ効カヲ存スル間其條欵ニ因リ日本皇帝陛下ノ政府ハ其臣民ノ隨意ニ布哇島ヘ渡航スルヲ許可スヘシト雖モ其國家ノ緊急󠄃若クハ臣民ノ安寧如何ニ因リ必要ト認󠄃ムルトキハ右渡航ノ都度之ヲ禁止シ又󠄂日本政府ノ獨斷ヲ以テ右渡航ヲ一般ニ制限停止シ若クハ禁止スルコトアルヘシ但日本皇帝陛下ノ政府ハ此權利ヲ猥リニ執行スヘカラス又󠄂本條約第三條ノ許可ヲ受ケ將ニ渡航セントスル者ニ對シテハ之ヲ施行セサルヘシ

第三條 本條約ヲ以テ取極タル渡航ハ橫濵及ヒ「ホノルル」ノ兩港間ニ限リ之ヲ行フヘク而シテ神奈川縣令ハ日本政府ノ名義ヲ以テ右ニ關スル諸般ノ事項ヲ處分󠄃スヘシ又󠄂布哇皇帝陛下ノ政府ニ於テハ其移住󠄃民事務局ノ特派委員ヲ任命シ之ヲ橫濵ニ在留セシムヘシ但右委員ノ任命ハ日本政府ノ認󠄃可ヲ經ヘキモノトス
右委員ハ布哇諸島ヘ渡航スヘキ日本臣民ニ關スル諸般ノ事項ニ付神奈川縣令ト通󠄃信協議スヘク加之右渡航人ヲ搭載迴送󠄃スルニ必要ノ處分󠄃ハ總テ之ヲ施行スヘシ又󠄂若シ渡航人ヲ要スルトキハ右委員ハ其都度少クモ一箇月前󠄃其旨ヲ右縣令ヘ通󠄃知シ其人員及ヒ其職業ノ種類ヲ申出ツヘク而シテ右縣令ハ其通󠄃知ニ對シ猶豫ナク日本政府ノ諾否如何ヲ囘答スヘシ但右通󠄃知ヲ缺クカ又󠄂ハ右縣令ヨリ其請󠄃求ヲ承諾スルノ囘答ナキニ於テハ前󠄃條末項ヲ適󠄃用セサルモノトス

第四條 本條約ヲ以テ取極タル渡航ハ總テ契󠄅約ニ因ルヘク又󠄂其契󠄅約ハ何年間以下ヲ期限トシ兩國政府ノ認󠄃可シタル式ニ從フヘシ
右契󠄅約ハ布哇政府ノ名義ヲ以テ其移住󠄃民事務局特派委員橫濵ニ於テ渡航人ト締結󠄂スヘク而シテ神奈川縣令ノ認󠄃可ヲ經ヘシ
右契󠄅約繼續中布哇政府ハ渡航人ニ對シ傭主ノ義務ヲ負󠄅擔スヘキヲ以テ其諸條欵ヲ正當誠實ニ履行スルノ責ニ任スヘク而シテ同政府ハ其法律ニ因リ渡航者タル日本人ヲ充分󠄃ニ保護シ且時勢ノ如何ニ係ハラス常ニ渡航人ノ幸福安寧ヲ計ルヘシ

第五條 布哇皇帝陛下ノ政府ハ本條約ニ因リ渡航スル者ヲ上等ノ乘客汽船󠄄ニ搭載シ之ニ相當ノ食󠄃物ヲ給與シ下等船󠄄客トナシ橫濵ヨリ「ホノルル」マテ無賃ニテ渡航セシムヘシ但右渡航人ノ迴送󠄃ニ供スル汽船󠄄ハ神奈川縣令ノ至當ト認󠄃ムルモノニ限ルヘシ

第六條 布哇國移住󠄃民事務局ト渡航者タル日本人ト締結󠄂シタル契󠄅約ノ條欵ヲ相當ニ履行センカ爲メ及ヒ布哇國ノ法律ニ因リ右渡航人ノ權利ヲ充分󠄃ニ保護センカ爲メ布哇皇帝陛下ノ政府ハ右契󠄅約繼續中日本語及ヒ英語ヲ談話通󠄃辯シ得ル監督人及ヒ通󠄃辯人ヲ應分󠄃ニ雇入ルヘク而シテ右契󠄅約ノ事件ニ付右渡航人原告、被告、告訴人若クハ被告訴人ト成リ布哇國法廳ニ出訴スルトキハ布哇國政府ハ右通󠄃辯人ヲシテ右渡航人ヨリ別ニ謝金ヲ要セス其職ヲ勤メシムヘシ

第七條 布哇皇帝陛下ノ政府ハ本條約ニ因リ締結󠄂シタル契󠄅約ノ繼續中渡航人ヲ治療セシメンカ爲メ日本醫師ヲ應分󠄃ニ傭入レ之ニ官醫ノ資󠄄格ヲ與ヘ又󠄂之ヲシテ渡航人ノ治療ニ時々必要ト成ルヘキ地方ニ住󠄃居セシムヘシ

第八條 布哇皇帝陛下ノ政府ハ在布哇日本外󠄂交官及其領事ヲシテ何時タリトモ故障ナク自由ニ渡航者タル日本人ト接近󠄃スルヲ得セシムヘシ而シテ右外󠄂交官及領事官ハ契󠄅約ノ誠實ニ履行セラルヽヤ否ヤヲ視察スルニ充分󠄃ノ便利ヲ得ルト其契󠄅約違󠄄背ノ場合ニ於テハ布哇國ノ法律及其地方廳ノ保護ヲ請󠄃求シ得ルトノ權利アルヘシ

第九條 布哇國ニ渡航スル日本臣民ノ安寧幸福及ヒ繁榮ハ兩政府ノ等シク希望󠄉スル所󠄃タリ故ニ不良不善無賴ノ日本人布哇國ニ到リ渡航人ノ中ニ紛󠄃議騷擾ヲ釀シ又󠄂ハ之ヲ放蕩ニ誘引シ若クハ布哇政府ノ負󠄅擔トナルヘキ者ハ同政府ニ於テ之ヲ日本ヘ送󠄃還󠄃スルハ日本政府ノ承諾スル所󠄃ナリ

第十條 本條約ハ批准ヲ經ヘク而シテ其批准書ハ成ルヘク速󠄃ニ「ホノルル」府ニ於テ交換スヘシ

第十一條 本條約ハ批准變換ノ日ヨリ直ニ執行シ五年間有効ノモノタルヘシ而シテ其後ト雖モ此條約國ノ一方ニ於テ六箇月前󠄃ノ通󠄃知ヲ以テ之ヲ廢止セントスルノ意ヲ表スルニ非サレハ尙ホ其効力ヲ存スルモノトス

右證據トシテ雙方ノ全󠄃權委員和文󠄃及ヒ英文󠄃ヲ以テ本條約ヲ調製シ玆ニ記名調印スルモノナリ

明治十九年一月二十八日西曆千八百八十六年一月二十八日於東京

                  井上   馨
                  アールダヴリユー、アーウヰン

天佑ヲ保有シ萬世一系ノ帝阼ヲ踐ミタル日本國皇帝御名明治十九年即チ西曆一千八百八十六年一月二十八日東京ニ於テ日本國人民布哇國ヘ隨意出稼ノ件雙方全󠄃權委員ノ記名シタル條約書ヲ朕󠄁親ヲ閱覽點檢セシニ能ク朕󠄁カ意ニ適󠄃シ間然スル所󠄃ナキヲ以テ之ヲ嘉納󠄃批推ス

神武天皇即位紀󠄄元二千五百四十六年明治十九年一月二十九日東京帝宮ニ於テ親ラ名ヲ署シ璽ヲ鈐セシム

御名 國璽

奉勅    外󠄂務大臣伯爵󠄄井上 馨

   「ウィキソース」より

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