久米民之助さんの妻と妾・子供と庶子の関係は複雑で、
たまうきさんも色々と調べてくださった。

まず私が参考にしたのは、人事興信録の初版から第13版。
人事興信録は版によって書き方が異なっている。
とても詳しい版では「庶子 平八郎 明治37年11月生 生母 津田と代」というように、子供が庶子であること、生年月、生母などが明記されているが、簡単にしか書いていない版もある。
この人事興信録を見てみても、たまうきさんがおっしゃられたように、
最初の妻 ( 万千代・民十郎・権九郎の実母 ) の名前がない。
前回、権九郎さんが書いた文章に「われわれきょうだいは、長女・万千代を頭に、画家で後に関東大震災で命を失った兄・民十郎と私の三人が第一グループ、それから十歳ほど離れてつぎのグループが始まり、ついに一ダースをオーバーしたのです。」とある。
人事興信録を見てもこの《第一グループ》の実母は不明になっていて、
《十歳ほど離れたてつぎのグループ》あたりにやっと「津田と代」と「高島まつ」の名前が出て来る。
さらに不思議なことに、人事興信録には次男の権九郎さんが全部の版に乗っていないのだ。
久米民之助の最初の奥さんは誰?
久米民之助の最初の奥さんについて調べてみたところ、
長女・万千代、長男・民之助、次男・権九郎の実母は、
せつ ( 節子 ) という女性であることが判明した。
節子は、跡見花蹊の養女であるとのこと。
これがわかる資料は、以下の二つ。
一つ目は、まんが「久米民之助物語」第3章「逆境を乗り越えて」
https://www.city.numata.gunma.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/014/163/03.pdf
もうひとつは、要真理子氏 ( 跡見学園女子大学文学部現代文化表現学科 ) と、前田茂氏 ( 京都精華大学国際文化学部・2021年度跡見学園女子大学客員研究員 ) の共同論文「跡見花蹊から生まれた日本の前衛芸術」に書かれていた。
https://atomi.repo.nii.ac.jp/record/3983/files/atomi_com16_02.pdf
さらに調査を進めた結果、複数の先行研究から、民十郎の父は群馬 県沼田市出身の実業家・政治家である久米民之助(1861―1931)、弟は建築家の久米権九郎 (1895―1965)であることがわかったため、沼田市歴史資料館に問い合わせ、民之助の妻で民十郎の母せつ(生没年不明)が跡見花蹊(1840―1926)の養女節子であることが判明 し、2021年12月4日の現地調査でこの事実を確認した 。
奇妙なことに、民之助に関する史料では「せつ」が花蹊の養女であることが明記されている一方で 、跡見家の家系図に は節子の名前は記されていない。しかし確かに『跡見花蹊日記』(以下、日記と略す)には節子と民十郎が何度か登場する。
にもかかわらず跡見花蹊と久米民十郎の関わりについては、先行研究ではほとんど取り上げられてこなかった。
花蹊の『日記』には、度々民十郎の母、節子らしき人物が書かれている。
例えば
1890年4月19日「節子与久米氏、於 植物園会合ㇲ」
同 4月28日「入輿久米氏、於 桜雲台結婚式執行」
この年には、赤坂溜池に久米工業事務所を創立することになる民之助が女学校を卒業してすぐの節子との婚儀をかなり急いで進めたことがわかる。
そのあとの経緯も『日記』に詳しい。
民十郎が生れたのは1893年4月2日、姉の万千代の誕生から約一年後のこと。
民十郎誕生の翌日に花蹊は「久米節子、男子分娩報来。2日午後十時也」と『日記』に記し、一週間も絶たず民十郎に会いに節子を訪ねている。
その後の『日記』にも「民十郎初節句祝宴に付、二時ヨリ能楽堂ニテ、久米氏橋弁慶、中 伯母ヶ酒、望月之三番、外ニ梅若実始、仕舞数番」 ( 5月5日 ) 。
これ以降、久米家が九州に赴任した期間を除いて、跡見花蹊と久米家のあいだの頻繁な往来や贈答が『日記』に記されている。
転機は1897年7月5日、民十郎が4歳のときに訪れる。この日の『日記』によれば、「愛治郎 ( 愛四郎 )、夜十時頃より久米氏ニ行。電報来る故也。久米氏、節子へ難題ヲ持掛、愛治郎に兎も角も節子を預ヶ、連帰りくれと聞入らさるよし。此夜の惨状言葉にも尽し難し。久米及其母、其姉の薄情、とても人間には非ざるよし也」とあり、花蹊の弟である愛四郎が久米家に呼ばれ、節子を引き取って帰ったことが分かる。
引き続き7月8日の記事には、民之助が離縁状を持参して花蹊のもとを訪ね、節子は「五軒町」――現在の東西線「神楽坂」駅の北側にある東西の五軒町――に預けられたとある。
その後、節子の精神状態が落ち着くと花蹊は何度か五軒町の節子のもとを訪ね、そして8月27日に節子を連れ帰る。
こののち、花蹊は再び李子や愛四郎とともに節子をも伴って川上座や観 梅・観桜に赴いたりするのだが、1898年12月29日の「節子、朝十一時愈帰国す」の記事を最後に節子の名前は『日記』に登場しなくなる。現在のところ、この離婚劇の原因、そしてこれ以降の節子の消息は筆者らには明らかにできていない。
1897年 ( 明治30年 ) に節子と民之助の間に何があったかはわからないが、《第二グループの子》で後に民之助の家督を相続する三男・平八郎は1904年 ( 明治37年 ) 11月に誕生している。
平八郎の実母は津田栄吉の長女「と代」といい、1921年 ( 大正10年 ) に発行された人事興信録第6版では「妻」と書かれている。
※ 1911年 ( 明治44年 ) 発行 第3版では「と代」の産んだ
三男・平八郎と次女・八千代は「庶子」と書かれている。
民之助の妻と子を誕生順に記すとこうなる
久米民之助
妻:節子 生年不詳
長女:万千代 1892年 ( 明治25年 ) 生
長男:民十郎 1893年 ( 明治26年4月 ) 生
二男:権九郎 1895年 ( 明治28年12月 ) 生
妻:津田と代 1885年生
三男:平八郎 1904年 ( 明治37年11月 ) 生
二女:八千代 1906年 ( 明治39年2月 ) 生
三女:千代子 1910年 ( 明治43年1月 ) 生
四男:力四郎 1911年 ( 明治44年9月 ) 生は絶家平井氏を再興
四女:正代 1912年 ( 大正元年9月 ) 生
妾:高橋まつ
五男 ( 庶子 ) :功五郎 1913年 ( 大正2年10月 ) 生
妻:と代
五女:喜代子 1915年 ( 大正4年10月 ) 生
妾:高橋まつ
六女 ( 庶子 ) :龍代 1916年 ( 大正5年9月 ) 生
妻:と代
六男:正七郎 1918年 ( 大正7年1月 ) 生
※ 庶子は五男・六女とカウントしないことがある。
因みにこの写真は、権九郎さんの追悼の本に乗っていたもの。

一番右の女性のことが書かれていないけれど、もしかしたらこの方が節子さんなのではないだろうか。
2025年12月08日 昼ごはん

2025年12月08日 夜ごはん


以下は参考文献

人事興信録 初版 1903年 ( 明治36年4月 ) 刊
人事興信録 初版(明36.4刊) - 国立国会図書館デジタルコレクション 393ページ
人事興信録 第2版 1908年 ( 明治41年 ) 刊
久米民之助
母 いく
長男 民十郎 明治26年4月生
平八郎 明治37年11月生
八千代
人事興信録 第2版 - 国立国会図書館デジタルコレクション 460ページ
人事興信録 第3版 1911年 ( 明治44年 ) 刊
久米民之助
母 いく
長男 民十郎 明治26年4月生
庶子 平八郎 明治37年11月生 生母 津田と代
庶子 八千代 生母 津田と代
人事興信録 第3版 - 国立国会図書館デジタルコレクション 1009ページ
人事興信録 第4版 1915年 ( 大正4年 ) 刊
久米民之助
母 いく 天保10年1月生、群馬 有田幾多 五女
男 民十郎 明治26年4月生
力四郎 明治44年9月生
八千代 明治39年2月生
千代子 明治43年1月生
正代 大正元年9月生
595ページ
人事興信録 5版 1918年 ( 大正7年 ) 刊
久米民之助
824ページ
人事興信録 第6版 1921年 ( 大正10年 ) 刊
久米民之助
妻 とよ 明治18年7月生
長男 民十郎 明治26年4月生
三男 平八郎 明治37年11月生
三女 千代子 明治43年1月生
四男 力四郎 明治44年9月生は絶家平井氏を再興
庶子 功五郎 大正2年10月生 生母、高島まつ
五女 喜代子 大正4年10月生
庶子 龍代 大正5年9月生 生母、高島まつ
六男 正七郎 大正7年1月生
718ページ
人事興信録 第7版 1925年 ( 大正14年 ) 刊
久米民之助
妻 と代 明治18年7月生、平八郎母
男 平八郎 明治37年11月生
女 八千代 明治39年2月生
女 千代子 明治43年1月生
四男 力四郎 明治44年9月生
五女 喜代子 大正4年10月生
六男 正七郎 大正7年1月生
庶子 瀧代 大正5年9月生 生母 高島まつ
庶子 功五郎 大正2年10月生 生母 高島まつ
人事興信録 7版 - 国立国会図書館デジタルコレクション 839ページ
人事興信録 第8版 1928年 ( 昭和3年 ) 刊
久米民之助
妻 とよ 明治18年7月生、津田栄吉長女
男 平八郎 明治37年11月生
女 千代子 明治43年1月生
四男 力四郎 明治44年9月生
五女 喜代子 大正4年10月生
六男 正七郎 大正7年1月生
庶子 瀧代 大正5年9月生 生母 高島まつ
庶子 功五郎 大正2年10月生 生母 高島まつ
人事興信録 第8版(昭和3年) - 国立国会図書館デジタルコレクション
593ページ
人事興信録 第9版 1934年 ( 昭和9年 ) 刊
久米平八郎 明治37年11月生、昭和6年 民之助から家督を相続
母 と代
弟 力四郎 明治44年9月生、京大経済学部在学
妹 喜代子 大正4年10月生 東京府立第三高女出身
弟 正七郎 大正7年1月生 学習院中等科在学
亡父民之助庶子 功五郎 大正2年10月生 学習院中等科出身
亡父民之助庶子 瀧代 大正5年9月生 東京府立第三高女在学
妹 八千代 明治39年2月生 東京府立第三高女出身 常盤生命保険会社員 布施亀之助に嫁す
妹 千代子 明治43年1月生 東京府立第三高女出身 東京府人 内田友正に嫁す
人事興信録 昭和9年版 - 国立国会図書館デジタルコレクション
536ページ
人事興信録 第13版 1941年 ( 昭和16年 ) 刊
久米平八郎 東北帝大法学部卒業
妻 敏子 明治44年10月生、子爵一柳末幸 姉
長女 民子 昭和10年9月生
二女 美智子 昭和14年1月生
弟 功五郎 大正2年10月生 米国留学中
弟 正七郎 大正7年1月生 東北帝大在学
妹 八千代 明治39年2月生 分家
妹 千代子 明治43年1月生 内田ヨシ養子友正に嫁す
妹 喜代子 大正4年10月生 畑井新喜司 長男 勇に嫁す
妹 瀧代 大正5年9月生 神奈川県 大谷嘉久に嫁す
人事興信録 第13版上 - 国立国会図書館デジタルコレクショ 622ページ