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大人物は 子だくさん

 

久米民之助さんが、10人ものお子さんを作ったのは、下の逸話からもお伝えしたが、

この珍しい名前も祖父が権十郎であると聞けばなるほどと納得します。

また、父上の民之助が豪快な人で、俺のようにすぐれた人間は子孫をたくさん残さなければならない、男の子を十人つくるのだということで長男に民十郎と付け、二男が権九郎、三男が平八郎、四男が五七郎と、十から逆算で名前を付けて行き、功五郎、力四郎まで記録に残っています。そのほかに女の子が四人で合計十人という大勢の兄弟姉妹でした。

 

次男の権九郎さんも「五島慶太の追悼」に、こんなことを書いている。

久米権九郎

 ( 久米建築事務所所長 )

五島慶太の追想 - 国立国会図書館デジタルコレクション

あまりにも有名人であった兄貴あにきは、世間から注目の的となっていたから、公私とも、なにもかも知られ尽くしていますので、私はそれに蛇足だそくを添えることとしましょう。

 ~中略~

 当時、われわれきょうだいは、長女・万千代を頭に、画家で後に関東大震災で命を失った兄・民十郎と私の三人が第一グループ、それから十歳ほど離れてつぎのグループが始まり、ついに一ダースをオーバーしたのです。父は、男の子をぜひ十人ほしいとの念願から、長男に十郎、次男に九郎といったぐあいに名前をつけたのですが、残念なことに二郎も一郎も現れずに終わりました。

 

上の3人を「第一グループ」というのも笑えるが、10歳ほど離れて次のグループに「二郎・一郎まではいかなかった」とあるので、男子は8人までいたということらしい。

櫻井清氏の話では「力四郎まで記録に残っています」ということだったが、三郎何某さんもいらしたようだ。

 

これに関して、たまうきさんからこのようなコメントを頂戴した。

民十郎、権九郎、平八郎、正七郎、功五郎(庶子)、力四郎、萬千代、八千代、千代子、喜代、龍代(庶子)の11人(男子6、女子5)ではなかろうか。何故か男子の「六」が抜けている。謎です。 

 

子沢山ですぐ思いつくのは渋沢栄一と松方正義

渋沢栄一さんは「妻と妾を同居させた渋沢栄一は68歳にして子どもを作り総勢17人以上」と言われているし、内閣総理大臣を2回つとめた松方正義さんも、明治天皇から何人子供がいるのかと尋ねられたが、咄嗟に思い出せず「いずれ帰宅、調査の上、奉答仕りまする」といった逸話もある。※ 本妻・妾あわせて実子26子

当時の大人物はお妾さんを沢山囲い、庶子を何人も作るのがステイタスだったのかな

 

そんなこともありで、たまうきさんが「六が抜けている」という件も、

勘定がつかないくらいのややこしい事情があったのかも知れませんね。

 

 

五島慶太は本妻ひとすじだったのか?

もうひとつ、調べていて気付いたのことがある。

五島慶太の妻は1人だけだったのか問題。

 

Wikipediaにこう書かれている。

「 ( 妻の ) 万千代は1922年(大正11年)、スペインかぜが原因で31歳で急逝したが、五島は生涯再婚も復姓もしなかった」

これだけ読めば、妻を失ったあとにずっと女性関係がないようにもイメージしがちだけれど、実は後添いらしき女性が2人はいらっしゃる。

亡くなられた万千代さんのあと、公の記録に残っているのは文子さんと五月さん。

もしかしたら二人は籍に入ってないのかも知れないが、慶太氏と添い遂げた五月夫人は、遺産の寄付などの文書に名前が明記されている。

 

また前述の権九郎さんの文章にも「五月」さんの名前が出てきた。

「後藤慶太の追想」の末尾の文章⤵

晩年、病いを克服してあの成功を収めたのは、昇君をはじめ、よき協力者があったに相違ありませんが、二十余年の長い月日を、身の廻りの世話から千客万来に対する応対、偏人ゝゝへの心遣いなどで、文字通り内助の功のあった五月夫人をたたえたいと思います。たとえ姉が存命であったとしても、はたしてこれほどの内助ができたか、と疑問に思います。

五月さんは公には知られていないかも知れないが、身内には周知の人物。

義兄 ( 亡くなった姉の夫 ) の後添えさんのことをこのように称えている権九郎さんは、実に紳士だなあ感心した一文だった。

 

もうひとつ権九郎さんの追想文に、こんな記載もあり笑った。

( 民之助 ) と兄貴 ( 義兄・慶太 ) は、壮年時代は二十貫を大きく超えた立派な体の持主でした。総じて、体つきが似ていると性格もまた似るものとみえ、すること、なすことが、また実によく似ていました。

大ぜいの婦人を愛した点も、その一つに数えられましょう。


「五島慶太の追想」は国立国会図書館デジタルコレクションで読めます

五島慶太の追想 - 国立国会図書館デジタルコレクション

 

 

久米民之助、渋沢栄一、松方正義をはじめ大人物の影には、沢山の女性と子供が見え隠れするが、五島慶太も例外ではないようだ。

 

 

五島慶太の結婚歴

1912年 ( 明治45年 ) 2月24日、慶太30歳で萬千代まちよと結婚

1922年 ( 大正11年 ) 1月、萬千代 逝去 ( 享年31 ) 

1925年 ( 大正14年 ) 時点の人事興信録7版に「妻 文子」とある

1951年 ( 昭和26年 ) 時点の人事興信録16版に「妻 五月」とある

 

参考資料

人事興信録 第7版 - 国立国会図書館デジタルコレクション 1070 文子 

人事興信録 第8版(昭和3年) - 国立国会図書館デジタルコレクション 672

人事興信録 第9版 - 国立国会図書館デジタルコレクション 600

人事興信録 第13版上 - 国立国会図書館デジタルコレクション 704

人事興信録 第15版 上 - 国立国会図書館デジタルコレクション 222

人事興信録 第16版 上 - 国立国会図書館デジタルコレクション 326 五月

人事興信録 第17版 上 - 国立国会図書館デジタルコレクション 414

人事興信録 第18版 上 - 国立国会図書館デジタルコレクション 436

人事興信録 第19版 上 - 国立国会図書館デジタルコレクション 477

人事興信録 第20版 上 - 国立国会図書館デジタルコレクション 519

 長男 昇の母は五月とある

 母五月 明治31年5月生

 姉 春子 大正23年生

 

五島家(東急・五島昇・五島哲・五島順・五島慶太の家系図) | 閨閥学

石田家(岡山県) | 閨閥学

賀茂家(靖国神社宮司・賀茂水穂・賀茂厳雄の子孫・家系図) | 閨閥学

 

 

 

余談だが、慶太氏の2番目の妻「文子」を調べると不明な点がみられた。

文子の3人目の夫・石田直吉との子供の年に整合性がないことだ。

 

文子は海軍中将加茂巌雄の長女として、1895年 ( 明治28年 ) 7月生まれ

以下の3人と結婚している。

一回目、千葉、小川三郎。

二回目、五島慶太

 人事興信録 7版 - 国立国会図書館デジタルコレクション 1070ページ

 1925年 ( 大正14年 ) 30歳の時点、五島慶太妻として登録

三回目、石田直吉 

 1911年 ( 明治44年 ) 2月長女 石田繁子 

 1914年 ( 大正3年 ) 5月長男 石田泰三

 1920年 ( 大正9年 ) 6月次男 石田哲也

 人事興信録 第13版上 - 国立国会図書館デジタルコレクション 209ページ

 1941年 ( 昭和16年 ) 46歳時点、石田直吉妻として登録

 

石田家(岡山県) | 閨閥学

上記のサイトとをみると、繁子・泰三・哲也の母親欄に「文子」の名前があるが、

結婚年と子供の生年に整合性がない。

2つの可能性がある。

  • 3人の子は、慶太氏と文子との間の子で、文子の連れ子
  • 3人の子は、直吉氏が文子と結婚する前に出来た直吉の実子、直吉氏と某女の間に生れた子

 

人事興信録は、国立国会図書館のデジタルコレクションでは第7版以前は閲覧できないので、五島慶太の欄に「文子」が何版から記載されているのかは不明。

もし仮に、第4版第5版あたりに「文子」の記載があったら、3人の子は《慶太氏との間に出来た子》とも考えられるが、人事興信録では何年に結婚したかはわからないから、この辺は謎のままで終わる。

なんか、調べていくうちにどんどんゴシップ的になってしまったな 💦

 

 

 

2025年12月07日 昼ごはん

日曜日の昼ごはんは、てんこ盛り。

ソースカツは多かったといわれた

 

 

 

2025年12月07日 夜ごはん

本日はのどぐろを堪能

これも美味しかった

めちゃめちゃなメニューですが、ガーリックブレッドもあり、、、、

 

〆に蒸しパンまで (゚Д゚;)




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