江戸近郊道しるべ「代々木村八幡宮 道の枝折」を読み、
新宿から代々木八幡宮までの道をたどってきたが、
最後にいくつか気づきがあったので書き記して終わりにします。
天満宮 ( 天神社 ) の移転について
代々木八幡宮の境内にある「菅公一千年 歌碑」の説明板には、
《明治三十三年五月、代々木八幡宮の末社に合祀され、歌碑も移転された》とあるが、
この「明治三十三年」は、違うような違和感を感じた。

理由は歌碑の裏面にある建立年との相違にある。

歌碑の裏側には、こうある。
字 新町氏子中
明治三十五年四月建碑
石工 長田群亀刻
明治三十五年に造られた歌碑が、明治三十三年五月に移転させることはあり得ない。
そうなると3つの可能性が考えられる。
- 説明板の「明治三十三年五月」が誤り
- 代々木八幡宮に合祀されたのは明治三十三年五月だが、歌碑が移転されたのは二年後の明治三十五年
- 歌碑は天満宮にあったのではなく、代々木八幡宮に合祀された二年後に代々木八幡宮に建てられた
菅原道真の没年は903年3月26日 ( 延喜3年2月25日 ) なので一千年祭は1902年 ( 明治35年 ) 。
このことからも明治33年に一千年碑を作ることは考えられない。
※ 湯島天神にある「菅公一千年祭碑」も建立も1902年 ( 明治35年 )
歌碑がある脇を奥に進むと、合祀された天神社があった。
木の看板 ( 扁額? )


左から稲荷社、天神社、榛名社

説明板

稲荷社 ( 御祭神・・豊受大神 )
天神社 ( 御祭神・・菅原道真 )
榛名社 ( 御祭神・・日本武尊 )
稲荷社と天神社については、江戸時代、大和国岩掛城主・山田政秀の第六女、紀州家側室延寿院殿が守護神として祀っていたものが奉祀されたと伝えられている。
その後、明治三十三年、神社合併政策により、山谷301番地 ( 現在の参宮橋駅の西 ) にあった掘出し稲荷と、新町三番地 ( 現在の文化学園の西 ) にあった銀杏天神社がそれぞれ合祀された。
榛名社については、この地域で雨乞い豊作の祈願のために上州の榛名山まで参詣するという習慣があったことから、おそらく各村や家に祀られていた榛名社が、やがて氏神様である八幡宮の境内に移されたものと思われる。
また、本殿の八幡宮の相殿として、やはり明治三十三年、山谷365番地 ( 現在の代々木公園駐車場あたり ) にあった天祖社と、同じく山谷139番地 ( 現在の南新宿の北 ) にあった白山社が合祀された。このため稲荷・天神・榛名社と両社を合わせて祭礼を五社宮祭と称することになった。
説明板からも、天神社がここに合祀されたのは、明治三十三年の神社合併政策によるものと判明。
そうなると、先の説明板の中の「明治三十三年五月、代々木八幡宮の末社に合祀され」までは合っているが、「歌碑も移転された」の方だけ違うのかも知れない。
神社の御社、寺の客殿・庫裏の向きが違う
村尾嘉陵の文章には「(八幡宮の) 御社は、茅葺きで、西に向かって立っている」「(福泉寺の) 客殿も庫裏も西向きである」となっているが、現在は八幡宮の御社も福泉寺も客殿も南向き。
これは嘉陵が方角を誤ったのかも知れないし、神社も寺も建て直し等で方角が変わったのかも知れない。←未確認
延寿院殿さんのこと
代々木八幡宮の沿革にはこうある
当社は草創以来、社僧の手によって管理されてきました。当社の別当寺であった福泉寺の文書によれば、天保元年 ( 1644 ) 伝養律師という方が中興開山として天台宗に改め、次いで二世の僧が社殿、植林などの整備を行い、三世の長秀法師の代に現在の場所へ奉遷したといわれています。
これは大和国岩掛城主・山田政秀の第六女、紀州家側室・延寿院殿が甥であった長秀法師のために社地6000坪を始めとする数々の寄進をしたことで実現しました。明治維新以降、神仏混淆が禁止され当社は村社に列せられました。
一方、福泉寺の方の資料 ( 宝珠山智妙院 福泉寺 | 天台宗東京教区 公式サイト ) ではこうある
福泉寺の創建は、寺の文書によりますと「建暦二壬申歳、始結閣以来庵主持僧諸宗交代不知其幾世代云々」とあります。
承応3年(1654)第二世乗正律師のとき堂宇を造営しますが、寛文4年(1664)第三世長秀法印のとき、四谷千日谷の火葬場が千駄ケ谷を経て今の代々幡に移されることとなり、浄地を求めて奉遷する必要を生じ、たまたま圓住院殿の後援を得て、寛文11年(1671)より翌12年にかけて、別当八幡宮と共に、現在の地に奉遷しました(中興開基)。
圓住院殿は大和添上郡岩掛城主山田政秀の六女と伝えられ元和八年(1622)紀伊徳川家藩祖頼宣(家康の第十子)の側室となり、当寺三世長秀と同族との関係によって、当寺で法要など営んだということです。
圓住院の娘松姫は上野吉井藩の始祖となる松平氏に嫁したところから、福泉寺は吉井松平家の崇敬をも得て次第に寺運は隆盛し、「江戸名所図会」所載の如き堂宇が整いました。圓住院及び松平家では、仏像、仏具、田畑など多く当寺に寄進し、その存続発展に資するところが多かったといいます。
上記のように、八幡宮と福泉寺では同じ「えんじゅいん」の漢字が違う。
当時の公の記録には側室の名前は記されておらず「えんじゅいんどの」は父の姓をもって「山田氏」となっているから、「えんじゅいん」がどの字なのかは判らない。
でも、八幡宮と福泉寺で漢字を統一していないのには何かワケがあるのかと不思議に思ってしまった。
徳川頼宣 系図

石地蔵の台座
福泉寺の石地蔵は台座の部分が水盤の中に埋まっているため全容を見ることが出来ない。



嘉陵さんの文章には
南門を出ると、その傍らに石地蔵がある。その台の石に、「正徳三 ( 一七一三) と掘ってあるのが読みとれる。
とあるが、写真のように「正」「徳」は判読できたが、その下の字はわからない。
福泉寺さんは昔からこの地蔵は水盤に入っていたのか知らん。
石段のこと
嘉陵さんの文章には
門の石段の幅は四丈ほど、石段の数は八十余段。少し下っていくと、西から東に向かっている一本の馬車道があり、その傍らに商売を兼ねている民家が二、三軒ある所に出る。
とある。
江戸名所図会を見ると⤵

https://dl.ndl.go.jp/pid/994938/1/20
中央に見える階段が東からのゲートで手前の川は河骨川と思われる。
現在の参道の階段⤵

階段幅は、嘉陵さんが書かれた四尺とほぼ同じくらい。
階段右には段々状の長屋が6~7軒連なっている。
左が現在、右か江戸時代の地図

現在は下の写真 ( 西側の山手通りからの階段 ) がメインゲートだが、

江戸時代には反対側、東からの入口だけだったように見受けられる。

東からの参道は、ちょっと前までは一般の人も通行できたが、
最近 この長屋の住民により「私道につき通り抜けお断り」となってしまった。
歴史から鑑みれば私道ではなく、れっきとした参道なのに。。。。
通り抜け出来る日もある

絶対に立ち入り禁止かというと裏技もある。
私道の中ほどに不定期営業のカフェがあり、その店がやっている時には通ることが出来るのだ。
東の旧参道を通ってみたい方は、営業日を確かめて「だんで茶屋」に来店されればと思います。
下記写真 3枚はお店のHPより借用しました


テーブルにいるのはお店の看板猫 祭ちゃん
猫好きな方は、可愛らしい祭ちゃんをあやしながら、
美味しい養生茶を飲み、気さくな女性オーナーとのお喋りを愉しんでください。

だんで茶屋より東へ降りる階段を見下ろす。

以上、江戸近郊道しるべの代々木八幡界隈のぶら歩きはこれにて終了です。
2025年11月08日 昼ごはん

2025年11月08日 ひとり夜ごはん
ジャージャー麺を作りました。

このタレ⤵

残ったタレは、じゃがいもと干し海老のソース炒めの味変にも利用⤵

ジャージャー麺の場合、勿論このタレだけだと甘いので豆板醤も使いました。

フライパンでごま油を熱し、豆板醤を炒め香りがたったらタレを入れました。
ジャージャー麺の場合、勿論このタレだけだと甘いので豆板醤も入っています。
普通は甜面醤を使いますが、タレには豆板醤が合うかもと、あくまで我流です。