上の記事の続きです。
家庭の祭祀の中には、様々なご神仏が見て取れる。
お仏壇のご本尊・先祖・神棚の神祇や屋敷神をはじめ、竈神・厠神・水神・台所を守る大黒天と恵比寿様・田の神さんから金神、オシラサマといった土着的な神々まで。
そこには小さな曼荼羅があり、無秩序のようでいて「家」を中心とした地域に広がる秩序があるのだなと考えていました。
その曼荼羅の中でも、女性が土間や納戸で祀るとされている神々には、原始的・精霊的な性格があり、性格は荒く祀り方を違えると祟る…という性質を持っていることが少なくなかったらしい。
実際、神棚を設えて神宮大麻や氏神様の御札を祀る方法については、現在でも広く頒布されていますが、こうした原始的な神様の祀り方というのは、まだ女性が文字を学ぶ習慣のない頃から、共同体の中で口伝えで残されてきたものなのでしょう。
今はそうした共同体の繋がりも薄くなりつつあり、地域性の高い神様の祀り方や、ぽつりとある祠の意味を知らない人も増えているのではないでしょうか。
私自身、良くしてくれた近所の方が居なければ、近くにある祠の意味やお参りの習慣などを知ることはありませんでした。
家庭の納戸や台所、外には見えないところで行われてきた祈りがある。
神様を祀って幸せになるならまだしも、祟るような神をなぜ祀るのか?
それは、お祀りを続けてきた人たちにしか、分からないことなのだろうけれど。所謂、成仏したり祖霊神となることがなかった土着の神々や精霊を迎え、共同体の一員として関わる様子は、失いたくない光景の一つだなと思っています。
近代化が進み、家族は転々ばらばら、家庭の祭祀とされてきた世界は省略されてきた。
しかし、利益があると公言されているものばかりが、秩序をもたらしているとは限らないらしい。
失われていく祀りごとが与えてくれていた秩序を求める無意識が働き、スピリチュアル文化という“ 代替品 ”が生まれたという側面もあるのでは…と考えているのですが
スピリチュアル文化は、日本や海外の神秘主義・心理学・自己啓発・多宗教が入り混じり無秩序。
そのため、民俗学の視点から見るところの「家庭の祭祀」に取って代わることはなく、家に秩序をもたらす結果には繋がらなかったのではないか?と個人的には推測しています。
その文脈で読むと、沖縄のユタ・ノロ、東北のオナカマサマやイタコといった方々と地域的な祭祀に光が当たり、正統性のない人々がそれを名乗りたがるのも、失われた家との繋がり・自分の中の欠けを埋める行動なのかもしれないなと…思えなくもない。
ただ、家庭の祭祀は、基本的には家のためにある。
家にやってくる霊(人間のことだが、あえて霊と書く)・家から送り出す霊・家に所縁ある神仏のために行われてきました。
それらは一見、コミュニティの外の人間からすると、奇異で秩序も意味も無いように映るかもしれないけれど、長い時間を超えてきた家という柱を中心に、今もなお子供達を守る祈りの傘となっている。
地域の祈り・地域の中でのシャーマニズムも同じで、長くそこに根付いた人々が、ルールをもって行なっていくものなのでしょう。
そもそもが偉大さを得るために行うものではなく、生活の一部という位置付けなのです。
そう考えると、家庭の祈りには代替品はなく、やはり土台から見直し、周りの人たちに話を聞きながら、自ら地道に再編成していくことが何よりも大切なのでしょう。
漠然と考えたことを、ここに雑感として残しておきます。
このブログ内での、神様という言葉の定義について