
神様と仏様の繋がりは、長い時間をかけて先人が残してくれたもの。神仏分離とされたときから時間が経っても名残は消えることはなく、今も灯火として残っている繋がりがある。
そんなことを、感じることがございます。
四国は原初的な信仰が残る場所…と書きましたが、そういう場所を訪ねた時に思うのは、神様の側に仏様がいらっしゃることが私にとっては大切なのだなということ。
一言に神様と言っても、八百万の神様がいて、それだけの様々な働きがある。暮らしはそれで成り立っている。
時には、荒々しい神様もいらっしゃるといいます。
けれど、そこにどんな眼差しを向けるのか?は人間側が選択できること。
神様は、長く放置すると荒むのだそうです。また、人間側の荒れた心を受けると、傷つくような神様もいるのだと。
言葉では礼儀正しくしていても、心に偽りや憤りがあれば、それを受け取るのが神様なのかもしれないなと思うことがあります。
そんな眼差しを向けられるのが嫌なのは、人間も同じ(自戒と反省)
時々、その寺社独自の龍神様や巳様にお参りをすることがございます。○○大神・○○龍王など、名前がついていて、他の方からのお供えものも上がっている。
慕われているのが分かり、何となくこちらも、手を合わせるのに安心や信頼感がある。
そういう、どこか信頼感のある空気というのは、長くお参りを続けてきた人たちの眼差しが残した遺産のように思うのです。
形が残っても、その暖かな眼差しが残らないと意味がないような気がする。
その温かい眼差しを、仏様も神様に向けていたし、もしかしたら神様も仏様に向けていたんじゃないかな…というのは完全に妄想ですが。
ただ個人的に、お互いがお互いに向かい合った、相互の世界観に安心を感じます。その世界観を、まず自分自身の中に築いていくことが課題です。