金毘羅大権現(現在は神仏分離につき、ご祭神は大物主命とされる)ご鎮座する象頭山は歴史が古く、かつては様々な信仰がレイヤーのように重なりあっていた、重要な土地だったのだそうです。
もちろん、今も重要なのは変わらず
とても詳しく書いていらっしゃるブログがあるのだけれど、著者様にご挨拶をしたことがないので、ここで記事を直接ご紹介するのは今回は控えます。けれど、ご興味のある方は「瀬戸 歴史 金毘羅信仰」などで検索すると、拝読出来るるはず。
そんな霊山を大元とした金毘羅大権現と、伏見稲荷。共通することがございます。
それは、鬼の階段
伏見稲荷は、約1300段
金刀比羅宮は、大門までは多々お土産屋さんや食べ物屋さんがございます。しかしそこを抜けると、お茶が飲めるような休憩所はない。勿論、伏見稲荷のように自販機だってない。
途中に神椿というレストランはありますが(ここで食事をすると、駐車場が利用できるので階段をショートカット出来る・階段かごが無くなったので、こちらでお食事をするのも一つの方法)
ひたすら本宮〜奥の院と登り続ける。このあたり、天狗信仰の強いお山というイメージ。
伏見稲荷のようにビッシリお塚があって、そこを守っているお茶屋さんがある…という、自然と人と神様のコミュニケーションが行われているようなイメージとは、大分違います。
その代わり、金刀比羅宮の奥の院に向かうまでの階段は割と緩やか。本宮までの、鬼のような急勾配のハードな階段とは違って、段の幅も広いところが多くて、マイペースに登れるかな。
山の中も静かなので、途中途中で現れる崇徳上皇様の白峰神社や、道真公の菅原神社などのお宮に手を合わせながら、厳かな気持ちで登ることができます(膝は生まれたての子鹿)
一方で伏見稲荷の魅力は、お塚を守るお茶屋さんの存在。神様と参拝者を、神職の方ではなく一般の方々が繋いでくださる。架け橋としての人間がいるというのは、やっぱり強いですね。
信仰と人間の距離が離れない。これって凄く大事なんじゃなかろうかと。
何でも自称可能な世の中で、肩書きや霊能力云々で神様とつながる(繋げてもらう)云々というのではなく『実際に信仰を続けてきた人たちの底力』によって繋がり、自身でも足を使ってそこに連なっていく…この確かさに勝るものはないと感じています。
金毘羅さんも信仰は厚いのだけど、伏見稲荷のような表面化の仕方は、していないかな?
ただ、奥の院までの階段をご高齢の方がヒョイヒョイ登っているのを見ると、それがこのお山の信仰なんだと感じることはございます。現れ方の違いですね。
神仏分離によって神様が変わったから、その辺りのことも関係するのかしら…などと考えていますが。そもそもが霊山で、山の信仰ありきなのでしょうから…山に入ることが大切とする方にとっては、それもあまり関係がないのかな…どうなのでしょう。
何にせよ、信仰と一口にいっても、山によって全然毛色というか、空気感って違うものだよねと感じています。これからも、自分の足で参拝をしながら、感じたことを記録していきたいと思います。
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金狐舎では、二柱とも大切な神様としてお祀りしています。金狐は荼枳尼天様のまたがるジャッカルと、金毘羅大権現(大物主様ではなくクンビーラは権現様)の重なった名前でもありますので
と、本日は他愛のないよもやま話でした。
午後からは、猫さん狐さんたちを仕上げていきます。