
象徴には力がある。
誰かにとっては、意味を成さないただの形でも、そこに何を見出すのかによって、また違う誰かにとっては、特別な力を沸き立たせるための形となることがある。
同じ象徴であっても、面する人によって、どのような意味を持つかが変わってくるものです。
猫好きで、かつ現実に猫との繋がりがある人と、ただの知識として「猫」を知っている人と、猫が嫌いで見たくもない人とでは、猫の形から受け取るものは違う…ということは、想像出来るでしょうか。
猫好きにとって猫は癒しであり、生きる活力であり、自由さの象徴であったりする。猫モノが側にあるだけで、ほんのり幸せになったり、体温が上がるような感覚になったり。また、猫飼い同士でネットワークが出来たりすることもある。
象徴から連想されるイメージの世界が膨らみ、現実に根差し関わり、時間と共に人生の歴史が増えるほどに、象徴から生まれる力も増えていく。
勿論そこには、良い影響もあれば、逆の場合もある。全く作用しないものもある。
たかが形・されど形。
何もかもがプラスになるわけではありませんし、何がいいとか悪いとかではないけれど。
舎主は個人的に、象徴の世界の不可思議が好きなのです。

ここは猫好きのパワーが集まる、徳島のお松大権現様。

右を見ても猫。左を見ても猫。

お松様が神様になられるまでの過程は、とても悲しいものだったけれど。お松大権現様への期待と信頼の厚さ・猫さんたちに向けられた「好き」のパワーが、とても良い重みとなっているのだなと。知人と話をしていて思いました。
生きていると、全てが好き!となるわけじゃない。動物でも昆虫でも、シンプルなモチーフ一つであっても、時に憎悪の対象になることがある。
でも、それを踏まえてもなお、象徴の世界は基本的に明るいものであってほしい。象徴によって希望を引き出せるよう、正しく知り、関係性を結んでいくことの必要性について考えた日。
その関係性が熟すまでの過程が、更に大切なのではないでしょうか。