
太平洋戦争末期の昭和19年、21歳の日本兵・田丸均は、南国の美しい島・ペリリュー島にいた。漫画家志望の田丸はその才を買われ、亡くなった仲間の最期の雄姿を遺族に向けて書き記す「功績係」という任務に就いていた。やがて米軍の猛攻が始まり、日本軍は追い詰められていく。いつ死ぬかわからない恐怖、飢えや渇き、伝染病にも襲われ、極限状態に追い込まれていく中で、田丸は正しいことが何なのかも分からないまま、仲間の死を時に嘘を交えて美談に仕立て上げていく。そんな田丸の支えとなったのは、同期でありながら頼れる上等兵・吉敷佳助の存在だった。2人は互いに励まし合い、苦悩を分かち合いながら絆を深めていくが……。
2026年映画館での鑑賞1作目。
成人の日の昼間の上映回で(もう1日1上映になっていました)観客は30人くらいでした。
太平洋戦争後期の南洋の楽園・ペリリュー島での日米の地上戦を、22歳・漫画家志望の田丸一等兵の視点から描いたマンガを映画化した作品です。
丸っこくてかわいいキャラクターと悲惨な戦場。悲しくなるくらいずっと綺麗なペリリュー島の星空と南国の豊かな大自然。島では血みどろの激戦が繰り広げられているのに、変わらない島の風景の美しさに、人間という存在の儚さを思わずにはいられませんでした。
南太平洋の日本軍の基地がある島が次々と米軍に占拠され、日本軍が「玉砕」していくなか、ペリリュー島にも「その時」が迫ってきます。
圧倒的な物量で攻撃してくるアメリカ軍と、必死に防戦する日本軍。
海岸でなんとか上陸を食い止めようとするものの、戦力の差は大きく、島の主要施設はアメリカ軍のものとなります。
兵数も兵器の質も物資の量も補給の有無も大きな差があるなかでの絶望的な抗戦。
「名誉の戦死」ばかりではなく、事故や疫病や餓死などの「物語にならない死」を脚色して英雄譚にする「功績係」の存在も描写されています。
太平洋戦争でも、終盤の「絶望的抗戦期」では、「戦死」よりも「病死」「餓死」による死者のほうがはるかに多かったのです。
大規模な戦闘が終わり、アメリカ軍が島の主要施設を占拠したあと、生き残った日本軍の兵士たちは、反撃を試みるのですが、もはや衆寡敵せず、という状況になりました。
日本兵の生き残りは、「まず生き延びて、大きな戦況の変化を期待する」という方針に変わり、アメリカ軍の物資を盗んで食べていくことが常習化し、むしろ「飢え」からは解放され、つつましくも穏やかな「日常生活」を送っているような状況にもなったのです。
この作品は、戦争で、人が殺し合う「激戦」の部分だけが描かれているのではなく、戦場のなかでの日常や「自分が信じ、大事だと教えられてきて、大きな犠牲を払ってやってきたこと」を「切り替える」ことの難しさを描いています。
生き残っていくうちに増していく生存欲求と、多くの犠牲をともなって守ってきたものを捨てられないという葛藤。
他人のこととなると「切り替えろよ」とか「客観的に見たほうがいい」と言えるけれど、本人にとっては、それまでに犠牲にしたものが大きいほど、「捨てる」のは難しい。
『嫌われる勇気』という本がベストセラーになり、日本でもアドラー心理学が注目されましたが、「過去の記憶や経験にとらわれずに、いつでも今の状態をゼロベースに考え、行動する」というのは、そこに至るまでの犠牲が大きいほど難しい。
ネットでは「そんなパートナー、別れちゃえよ、離婚したほうがいいよ」と見知らぬ人にアドバイスできるけれど、相手がよく知っている人、あるいは自分自身のこととなると「これまで積み重ねてきたこと、払ってきた犠牲を考えると、簡単には決断できなくなる」のです。
戦争で、仲間の死に直面し、自分自身も敵を殺めてきたのであれば、その行為を「なかったこと」にも「無意味なこと」にもできない。
僕自身は戦場に行ったことはないけれど、戦争というのは、憎んでいるから戦争をする、というよりは、戦争という状況が続けば続くほど、お互いに憎しみがつのり、さらに止められなくなっていくものではないか、と想像してしまいます。
「鬼畜米英」というスローガンが国民に浸透する数十年前のアメリカは、日本にとって憧れの進んだ文化や豊かな生活の国だったのに、人の心は、すぐに移り変わっていく。
この映画、実写だとあまりに今の日本人には観ることのハードルが上がる内容を、極めて抑制的に(それはたぶん、少しでも先人の経験を伝えるための妥協でもあり、工夫でもあったのだろう)描いた素晴らしい作品だと思います。
本物の戦場はこんなもんじゃない!と言う人もいるだろうけど、誰も見たくない「本物」をあえてデフォルメしたからこそ、多くの人に届いているのだと思うのです。
そんなに「リアルな戦場」や「戦争がもたらすもの」を見たければ、広島や長崎の原爆資料館に行くか、映画なら『プライベート・ライアン』の冒頭30分、あるいは『硫黄島からの手紙』でも観ればいいのかもしれませんが、「戦争のリアル」は、「戦後80年」を迎えたいまの日本人にとっては、あまりにもハードルが高すぎる。
「敬遠され、観てもらえないリアル」よりは、「デフォルメされたキャラクター、残酷なディテールを抑制したアニメ」だからこそ、より多くの人に「届ける」ことができるのです。
実際、戦場でも、みんな全集中して敵を倒そうと気合を入れていた、というわけではないだろうし、「普通の人」が「平和時には明らかに異常なこと」をやって(できて)しまうのが「戦争」というものなのでしょう。
日本軍の生き残りが食糧を盗んでいたのを(たぶん)知りながら、あえて見逃していた(のだと思う)アメリカ軍と、広島・長崎で原爆の威力を確かめるために非戦闘員を焼き尽くしたアメリカ軍。
人というのは、状況によって、善人にも悪魔にもなってしまうのです。
圧倒的に有利な立場になれば、顔が見える相手であれば「慈悲の心」を持てるけれど、顔が見えない相手には容赦なくふるまってしまう。
「人が死ぬ」という結果は同じでも、ディスプレイで見える敵にドローンのミサイルのスイッチを押すのと目の前の敵を銃剣で突き刺すのでは、心理的なハードルは、たぶん、違う。
それは、ネット社会でも同じです。
国という組織の「大義」と、個人の「思い」は同じではないはずなのに、往々にして、人の「思い」は押し流されてしまう。
「戦争なんてするべきじゃない」と多くの人が言っているけれど、戦争はなくならない。
「戦争をしないためには、より周到に戦争の準備をしておく必要がある」というのは、おかしいと感じるけれど、丸腰で世界に立ち続けるのが現実的な選択だとは思えない。
近くの席に座っていた若い人たちが、何人か、上映終了後に涙が止まらなくて席から立てなくなっていました。
戦争というものについて、心を縛られる信念や宗教から抜け出すことができなくなった人たちについて、あらためて考えさせられる素晴らしい映画です。
ちなみに、僕は原作をまったく未読だったこともあり(ペリリュー島で起こったことについてもほとんど知識がなかったので)、「物語」としても、「この状況から、どうなっていくんだろう」という興味が最後まで尽きませんでした。
不適切かもしれませんが、「人の死をドラマ仕立てにした感動の押しつけのような『戦争映画』ではない、面白い映画」でもあると思います。
www.youtube.com
fujipon.hatenadiary.com
fujipon.hatenablog.com