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【読書感想】論理的思考とは何か ☆☆☆☆


Kindle版もあります。

論理的思考法は世界共通ではない。思考する目的をまず明確にしてその目的に合った思考法を選ぶ技術が要る。論理学・レトリック・科学・哲学の推論の型とその目的を押さえ、価値に紐付けられた四つの思考法(経済・政治・法技術・社会)を使い分ける、多元的思考を説く。不確実なこの世界で主体的に考えるための一冊。


 「それってあなたの感想ですよね」
 これが、ひろゆきさんの決め台詞として世間で認知されているのです。

 人と人とが「議論」するときに、「それは論理的ではない」というのは、相手を「論破」しようとするときに、よく使われる言い回しではあるのです。
 
 僕は長年、ネットでいろんな議論をしていて、「論理的ではない」という言葉を「自分には理解できない」という意味で使っている人をたくさん見てきました。
 「論理的ではない」というのは、あまりにも漠然としているから、「どこのどういう点が、どんな『論理』から外れているのか、教えてもらえませんか?」と尋ねても、ちゃんと答えてくれる人はいなかったような気がします。

 「論理的」という言葉を使いたがる人ほど、「論理的」とはどういうことなのか?を深く考えずに、「自分と意見が合わない」「自分の判断基準とは違う」ことを「論理的ではない」とすり替えてしまいがちです。

 
 著者は、この本の最初に、こう述べています。

 論理的に考えることは、学術のみならずビジネスや教育、日常の判断に至るまで幅広い分野でその重要性と必要性が指摘されている。世界共通で不変のように語られている論理的思考だが、そもそも論理的であるとはどのようなことなのか、論理/非論理の線引きは何によって行われるのか。論理的に思考する方法は本当にひとつなのか。
 本書はこれらの問いに、論理的思考が世界共通で不変という考えのもとになった論理学の「形式論理」に対して、論理には文化的側面があることを指摘し、それを価値観に紐づけられた「本質論理」と名づけて、思考の「基本パターン」の側面と「文化的」側面の両面から答えていきたい。


「論理的に思考する方法は、本当にひとつなのか?」
 著者は「西洋」として一括りに論じられることが多い、アメリカとフランスの小論文での評価基準の違いに戸惑った体験を紹介しておられます。
 アメリカで「フランスで求められる形式の小論文」、あるいは、フランスで「アメリカ型の小論文」を書くと「何を言っているのか分からない」とか「全く不十分な議論」、そして「論理的ではない」と落第点をつけられてしまうそうです。

 なぜそんなことが起こるかといえば、作文を書く目的が異なるからである。結論を先取りするならば、アメリカ式のエッセイは、自己の主張を分かりやすく効率的に論証して、相手を説得することが目的であるのに対して、フランス式小論文の目的は、時間をかけてあらゆる可能性を吟味し矛盾を解決すること、それを公共の福祉という政治的判断に生かすことである。
 アメリカ式エッセイは主張に関係しない要素を削ぎ落とすことによって、複雑な世界を単純化して問題解決を行うのに対して、<正ー反ー合>の弁証法を型にしたフランス式小論文は、常識的な見方とそれに反する見方、それら二つを総合して矛盾を解決することで、多様な人々で構成される社会全体の利益に目を向けさせる。それぞれの国の小論文には、あるべき結論の形と結論に至る道筋──それが論理となる──がそれぞれに存在する。


 小論文の評価基準、という切り口で、文化的な背景によって「論理的かどうか」の判断基準は異なることを著者はかなりわかりやすく説明しています。ものすごく読みやすい、というわけでもないのだけれど。

 いまの日本からみると、アメリカ式の「相手を説得するためのエッセイ」が「世界基準」のようなイメージがあるけれど、世界の全てが「アメリカ式」なわけではない。

 そんなこと言い始めたら、社会や文化の違いによって、価値判断の基準なんて無限に存在するのではないか、とも思いますよね。
 著者は、実際は「無限に」あるわけではない、として、4つの「型(構造)」とそれを採用している地域を挙げて、詳しく説明しているのです。

 本書では「経済」(アメリカ」、「政治」(フランス)、「法技術」(イラン)、「社会」(日本)の四つの領域に固有の論理と思考法を、各領域で書いたり話したりする時の「型(構造)」に注目して提示する。政治、経済、法、社会の領域は、どこの国にも併存しているが、「どの領域の論理を使うのか」によって、その判断(結論)は変わってくる。このようなアプローチを取ることで、国ごとに無数に論理とその思考法があるとする文化相対主義に陥らず、有益かつ基本的なタイプを特定することができると考える。


「論理的」は、ひとつではないけれど、「人それぞれ」というまで細分化してしまうのはやりすぎで、実際は、政治、経済、法、社会のどれを重視するか、という4つの型に分けることができるのではないか、と著者は述べているのです。
 そして、「論理的とはどういうことか」について、歴史的になされてきた議論や先人の研究、思想を踏まえて、現在の「論理的思考」について考察しています。

 イランの学校作文は「エンシャー」(作文一般と「書く教育」を表す)というペルシア語で呼ばれていて、初等教育から中等教育を通して、(1)自然現象(2)社会と道徳(3)宗教(4)国家、の四つの主題を扱うそうです。

 エンシャーと呼ばれる作文一般に見られる<論理的>であることとは、作文全体を序論・本論・結論の三つに分け、そして本論を三つに分けて書くことである。それが「理路整然」と書くことを保証し、この基本構造に従うことが「秩序」に従うことを意味すると作文の教科書は述べている(イラン教育省2019 中学校1年)。


(中略)


 結論は一段落で書くことがすすめられており、「結論を出さずに、あるいは直接的な言い方を避けて、メッセージを伝えることが重要」であるとされる(イラン教育省2019中学校1年)。主題について読み手に深く考えさせ、主題に対する読み手の疑問に答えるメッセージを伝えるには、ことわざや詩の一節を結びに置くことが効果的であるという。
 エンシャーの文学的断片の中で最も重要なメッセージは、この結びの言葉に現れる。なぜなら、長く共有されてきたことわざや詩は、個人の視点や経験を超えた揺るぎない「真理」を示すものと受けとられているからである。エンシャーは、あらゆる経験や自然現象をこの真理に向かって落とし込んでいくもの、そして共同体が守り続けてきた価値、道徳、規範を「作文のメッセージ」として感情の高まりと共に、書き手が読み手と一緒に再確認するためのものである。
 ここで意見/主張の個性や独創性、新奇性は期待されておらず、むしろ共同体から与えられた期待通りの道徳的・宗教的に正しい結論に落ち着くことが重視されている。実際に作文教科書の例を見ると、主題が「自然」と「宗教」の場合は神への感謝や願いが、主題が「社会・道徳」だと詩の一節やことわざが結びの言葉として置かれる傾向がある。


 無宗教だという人が多い日本の感覚では(僕もそのひとりなのですが)、イランの作文教育は、あまりにも「宗教的」だし、結びはことわざや詩、目新しい観点や独自の思考は求められていない、というのは「非論理的」な気がします。
 結びが「ことわざや詩の一節」とか、肩透かしというか「他人の言葉じゃなくて、あなたの考えはどうなんだよ!」と言いたくなりそう。
 でも、イランでは、この形式に沿うのが「論理的」なのです。

 西洋的な(日本を含む)ものとは異なる、「彼らの論理」が、そこには存在していて、それを急に「アメリカ型に合わせろ」と言われても、困惑するし、お互いに「何考えているんだ、話が通じないやつらだ」と感じてしまう。


 日本の「感想文(あるいは国語教育)」について、著者はそのメリット・デメリットを論じています。

 感想文を通して養われた思考法の強みは、自己と他者の間に共通の主観を構築し、この「間主観性」を内面化することで、外からの強制がなくとも、それと意識することなくあらゆる場面で間主観を思考と行為の指針とすることができることである。状況(場)の変化に柔軟に対応しながら、間主観的に状況を捉え譲り合う「利他」の精神が道徳の中核をなし、それによって強権的なルールやイデオロギーに頼らず社会秩序が形成・保全される。共感と善意による秩序の保持は社会領域の特質である。
 社会秩序の維持に多くの国が莫大な資金を注ぎ込み、対処的なプログラムが試行されながらもいずれも機能しない現状を考える時、感想文は社会秩序の形成・維持という点から再評価されるべきであろう。秩序が保たれ安心して暮らせる社会があってこそ、政治的な安定と経済活動が成り立ち、安全で文化的な生活が営める。
 しかしその強みは諸刃の剣となって、戦略的に振る舞ったり駆け引きしたりすることに心理的抵抗を感じ、好機を生かすことができにくい、すなわち決断力の欠如という形で重要な局面で弱みになると批判されてきた。状況を見ながら決断をギリギリまで留保すると、選択肢が時間とともに狭まり、もはやこの行動しか取れないという「場の状況」が行為を選択させるからである(渡辺 2004)。こうした方法は、主体性を欠く劣った判断とされたが、複雑に原因が絡み合い予測不可能性が高まった21世紀の世界においては、この慎重な態度こそが想定外のリスクを軽減し、大きな間違いを起こさず柔軟に対処できる賢明な判断の方法になりつつある。


 日本の国語教育、あるいは作文においては、「この場面での登場人物の気持ちを考えてみよう」という相手の心理や場の空気を読むことが現在でも重視されているのです。
 「読解力がない、問題文の意味を理解できない子供が増えている」というのを僕も子供の塾の講演会で聞いたのですが、それは、グローバル化(あるいはアメリカ化)にともなって、「相手の気持ちを考える」「空気を読む」ということが、日本でも以前ほど重視されなくなった影響なのかもしれません。
 とはいえ、突き抜けた人はさておき、僕が日常生活を送っているような「世間」では、やはり、空気が読めないと生きづらいとは思います。
 ただ、著者はこの「日本的な論理的思考の背景」を必ずしもネガティブにばかり考えているわけではなく、社会秩序を維持し、世界情勢の変化に対して「大怪我をしない」という意味では、合理的な面もある、と評価しています。
 
 他にも「論理的思考」について、さまざまな議論がなされ、比較的コンパクトにまとまっている本なので(というか、ある程度ちゃんとした議論をするのであれば、このくらいのボリュームと難易度は「最低限」なのでしょう)、「あなたの言うことは論理的じゃない!」と、他者を責める前に、読んでおいて損はないはずです。


fujipon.hatenablog.com




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