前提
94年やっていきます。
さらば、我が愛/覇王別姫
「ライオン・キング」
これは家族と劇場で観ました。たしか夏公開だったと思うのですが、帰りの車で夜空を見つめて(あの星は亡き王たちが…)とシンバ気分になっていたのはご愛敬。まだ10歳だったので許してください。
やはりこれも、ハンス・ジマーとエルトン・ジョンの音楽の力が大きかったと思います。「早く王様になりたい」は兄弟でよく合唱していました。これ製作がドン・ハーンなんですけど私の人生を変えたあの作品にも関わっているんですよね。ディズニーの第二次黄金期ということらしいのですが、たしかに「美女と野獣」あたりからぐんと作品のパワーが増した気がします。
ジェレミー・アイアンズ演じるスカーのイギリスの悪役という感じもたまらないものがありますが、ムファサ役のジェームズ・アール・ジョーンズの美しい声の深みよ…。絵コンテ段階でナシになった妻としてナラを求める場面ですが、これは無くてよかったなあと思います。ミュージカルだと復活していますし、最新のフルCGでもなんかそういう場面ありますが…。スカーの冷酷かつ卑怯なところ、恋愛要素ない方がイキイキして見えるかなと勝手に思っている。
あとヌーの暴走のシーンとかマジでめちゃくちゃ怖かった。あのシーンの絶望感ったらない。「ライオン・キング」におけるライオンの「王」たる権力というかほかの動物に対する影響の及ぼし方がフィクションと現実が入り混じるとまじでよくわかんないんですけど(コミュニケーション取れる相手を食べることがあるわけですから)、それでもたくさんのヌーが暴走したらライオンといえども勝てるわけではない、踏み殺されることもあるし、高いところから落ちたら死ぬという、当たり前なんだけど現実の力の作用みたいなものがあそこで提示されたのって大事だと思うんですよね。
ある年齢までの子どもにとって、親は絶対的な存在だと思うのですけど、あそこでムファサが転落死する(しかも自分のせいで、とシンバは思っている)ってふつうに考えてあまりにも辛すぎる。自分が死ぬより辛いかもしれない。ほんとうにシンバには長い長い長い時間とセラピーが必要です…。ともあれ、夜空に浮かぶ雲のムファサと会話するターニング・ポイントのシーンなんて本当に神々しく美しい。セル画のアニメっていいよなあと思いますし、「ライオン・キング」に関しては旧作の方が好きです。
「日の名残り」
ジェームズ・アイヴォリー監督作品、実は「サバイビング・ピカソ」(96)くらいしか観てないかも…。カズオ・イシグロの原作も大好きです。なんといってもミス・ケントンことエマ・トンプソンがむちゃくちゃ良い。もちろん執事スティーブンスを演じるアンソニー・ホプキンスも。
役割にがんじがらめになってしまうスティーブンスとつい意地を張ってしまうミス・ケントンの二人にやきもきしてしまうね。このあたりはオースティンの「高慢と偏見」的な正反対の2人が惹かれあう王道だよなー。
恋愛が主軸というより、あくまで実直で不器用な執事スティーブンスの視点で回想される彼女との日々を通して、自分の過ちに気づく物語なんですよね。心底尊敬して仕えていた主人の過ちを共犯者となって受け入れていたこと、第二次世界大戦を経て失われていった大英帝国の栄光、アメリカの台頭。愛した女性が自分が原因で泣いていると察していながらも仕事の話をすることでしか慰められない不器用さ。
新しいアメリカ人の主人ルイス議員に「世界は広いぞ」と言われて失礼にならない程度のはね返しで告げる「世界がこの屋敷を訪ねてきたもので」というセリフ。スティーブンスの矜持は美しくもまた傲慢なものでもある。実際には彼の認識していた「世界(の要人)」は実際の世界を構成する一部にすぎず、彼らとも執事として接していたわけで、人間同士の対話らしい対話はしていない/また立場上それは許されない/あえてそうしないことを選択していた。というわけで、スティーブンスはまなざす観察者としての自分しか認識していなかったのかも。だからこそ旅先のパブでの彼の戸惑いは異世界に紛れ込んだかのような反応なんだなあ。
旅の間にダーリントン卿を3度知らないと嘘をつくところもキリスト教におけるペテロなわけですが、ペテロと違うのは最後の人に向かってはあとで正直に話すんですよね。旅先で偶然出会った見知らぬ親切な人にだから言えたというのも大事なのかも。
ミス・ケントンとの最後のバス停での別れなんかね…たまりませんね。泣いちゃうよ。スティーブンスはダーリントンホールで最後の最後まで働いて生涯を閉じるんでしょうけど、私はわりと幸せなことだと思っています。閉じられた空間というお屋敷ものとして観ても面白いですよね。空間が人を作るともいえるのかもしれない。
あとこれは映画ではどうしたってスティーブンスの視点になってしまうので難しいけれど、原作はスティーブンスを信頼できない語り手として設定している面もあり、原作との比較をしても楽しいかもしれません。
80年代後半から90年代のアクション映画マッチョ代表の一人でもあるジャン=クロード・ヴァン・ダム主演、ジョン・ウー監督の初ハリウッド進出作品です。もれなく白い鳩が飛ぶよ。
いきなり「ハード・ターゲット」って言いだしてどうしたの?って思うでしょ…これは90年代最後に私がアーノルド・ヴォスルーに夢中だったからです…。ヴォスルーさんは「ハムナプトラ」でイムホテップを演じていた美丈夫ですというと皆さんおわかりになるかな。この映画、ランス・ヘンリクセンが悪の親玉でヴォスルーさんが右腕なんですよ。最高でした。
話としてはニューオリンズのスラム街が舞台、弁護士のナットは行方不明の父親を捜している。実は父はホームレスになっており、フランスの富豪率いる人間狩りを趣味とする集団に殺されていたという胸糞の悪い話。このナットを助けるのがマレットヘアが印象的なジャン=クロード・ヴァン・ダム演じる凄腕の心優しい元海兵隊員のマッチョ。動体視力が悪くアクション映画で寝てしまうという最悪な私ですが、ジョン・ウーのアクションてなんか見やすいんですよ。
粗野に見えて優しく賢いマッチョが知的な美女を助けるために巨悪に立ち向かうストーリー展開は単純なんだけど、やっぱり見せ場づくりがうまいしとにかく見やすい。下種な男が耳切られるところとかインパクト大で最高なんですよね…。あとヴァン・ダムのチャームというか、魅力がすごい。わざとらしくない落ち着きとさりげない優しさなどぐっときちゃう。他の作品での彼も同じようなキャラばかり演じているのかはよくわかんないんですけど。90年代の映画マッチョってみんなこんな感じなのかな。
あとは現代の分断と虐殺の現代にこういう作品を振り返ると、金もらってホームレスたちは人間狩りに同意してるんだから、ゲームの最中に殺されても当然でしょと言い出す人が一定数いそうで、そういう意味で「これはとんでもなく悪いことです!!!!」と示してくれているのがもしかして優しいのかもとすら思えてくる。世の中悪くなっているとは思いたくないんですけどね。
映画は基本的に白人からの視点ではあるけれど、文化が入り混じるニューオリンズという土地の複雑さ、そこにはびこる暴力のピークが94年であったらしいこともふまえると時代性も垣間見える一本です。
観直そうと思ったら今課金しないと配信では見られないようです。
最近の映画だとアロノフスキー監督の「ブラック・スワン」にも通じるところがありますが、覇王別姫という劇中の京劇作品がある男の人生にぴたっとはまってしまった奇跡と残酷さという点がすごく好きで、面白く観た印象がある。余談ながら「ブラック・スワン」は映画館で観て心底やられてぐったりしてしまった思い出がありますが、ナタリー・ポートマン演じるニナの葛藤が大学生時代の自分の記憶に結びついて余計に辛かったというのはあるかも。やだみは強いけど好きな作品です。芸術作品が一人の人生を変えてしまう話はだいたい漏れなく好き。あと「さらば、わが愛/覇王別姫」って、ばちこさんがいうところのガタカ・ドクトリン※に当てはまる映画なんじゃないかなと思うんですが、どうでしょうか。
セクシャル・マイノリティの生きづらさ、セックスワーカーの女性が翻弄される姿を93年の中国映画でここまでしっかり描いている点で凄まじい。また、レスリー・チャンという俳優のエピソードも有名なのでいくらでも語れるのだろうと思うんですが、あんまりそこには重きを置かないで私はこの作品を観ている。時系列がぱっぱっと移り変わるのも見やすい。ちなみにチェン・カイコー作品はあと「空海-KU-KAI- 美しき王妃の謎」を付き合いで劇場で観たんだけど、こっちはまじでわかんなかったです。
最後に自分がアジアの映画が苦手なんですという言い訳をする。たしか「グリーン・ディスティニー」で(あ、私だめだ…)と思った10代の記憶が始まり。
タイトルだけは知っていたけどリバイバル上映をやっていた数年前に初めて観た。元々、邦画も含めたアジア映画に対して基本的に苦手意識がある。邦画、韓国映画、中国映画、インド映画くらいしか観たことないので食わず嫌いと無知のせいはあるかもしれない。正直、自分にとってアジアの映画は感情の増幅と映像の外連味が欧米ものより湿度や温度が高い感覚があり、観ていて疲れてしまうことがある。
自分が西洋の文化(特に静謐な作品)に対して幼少期から強いあこがれがあって専門に勉強していたのも「アジアの湿度・温度が苦手」感覚を後押ししているのかもしれない。
欧米の作品がカラッとしているかというとそうではないんですけどね…。京劇も型という点でバロック・オペラものに似ているとは思うんですけど、オープンにする感情の発露と秘めている感情の凄みの対比という点ではやはり湿度を感じてしまう。
ここまで書いておいてなんなんですけど、歌舞伎と能だと能の方が好きだし、基本的に賑やかで人情ものみたいなのが苦手なんだろうな。そういう意味では「覇王別姫」こそ究極の温度・湿度じゃんとも思うんですけど、ここまで振り切っているからこそ楽しめたのかな。
「ピアノ・レッスン」
なかやまきんにくんじゃないけど、私はとにかくパワー!!!!!やーーー!!!!と思っている映画です。90's MOVIE TIME MACHINE本家の方でもとりあげられていたジェーン・カンピオンの名作。
とにかく主演のホリー・ハンターの顔つきとたたずまいが大好きすぎる。映画に出てくる物静かで頑固な女大好き。マイケル・ナイマンの音楽を一時期聴きまくっていて、もちろんこの映画のテーマ曲「楽しみを希う心」も楽譜を買って練習した。劇中では実際にホリー・ハンターが演奏しているらしいのですが、正式なサントラに収録されていないけど、劇中でエイダがピアノに没頭するシーンで一瞬出てくる拍子がずれていくところなんかはちょっとよくわかんなくなるくらいの難しさです。サントラにはないけどこっちにあった。
寂しい海辺の砂浜にピアノがあるという詩情あふれる画がまず素晴らしいのですが、潮風でピアノが傷むことを考えるとピアニストは悲鳴をあげたくなるかも(笑)
半身のようにくっついていた母エイダと娘フローラが物語が進むにつれて分離していく印象があって、あたかも男たちによって別の関係性に作り上げられていくようにも見えました。クライマックスにエイダの身に起きる暴力もそうですが、青髭公の芝居や森での放尿や樹木への性交をまねた子供たちの遊びなど、ところどころにドキリとするような人間のもつ本能的な力が画面から立ち上る気がしていて、ニュージーランドのうっそうとした森と暗い大地と深い海というロケーションも合いまり文芸映画ではあるのですが物静かさとは違う生き生きとしたパワーのある作品だと考えています。
ピアノという楽器と女性の関係もたどると面白く、ヨーロッパでは19世紀にピアノが普及したことに伴って家庭音楽が流行した経緯があります。モーツァルトやベートーヴェンも裕福な子女にピアノを教えていましたしね。エイダもそういう経緯でフローラの父となるピアノ教師と恋に落ちたのでしょう。面白いのは女性は鍵盤楽器の演奏は推奨されたけれど、管楽器のように「口に楽器を当てる」ものは推奨されなかったようです。このあたりも当時のジェンダー観が垣間見えるなあと。
先述した「楽しみを希う心」、私はエイダの作品なのではと思っているのですが、2~3分の小品であり、反復で指のための練習曲じみた構成でありながら聴こえてくる小指で奏でられるメロディーがエイダのうちに渦巻く情念を表しているようで、音楽的な観点からも面白い。
しかしエイダが自分の感情の発露の媒体としてほとんど叩きつけるようなタッチで激しくピアノを弾いている姿は良家のおしとやかな淑女の姿とはいえず、いささか狂気じみた力強さで私はとても小気味よいなと思います。フローラ役のアンナ・パキンも妖精というより私は小鬼と思っていて…底知れない雰囲気がとてもいい。
これがサム・ニール演じるスチュアートをおびえさせてピアノとエイダを引き離す画策へ走らせますが、ハーヴェイ・カイテル演じるベインズには敬意を抱かせて強い魅力を放つわけで、ピアノとエイダという一つの(誤解を恐れずにいうならば)モンスターのような生き物が男性たちを超越した力を持っているんですよね。
あと指もそうですしピアノに対してもそうなんですけど、「そうなったらそうなったこと」というエイダのスタンスがほんとうに共感できる。私にとってはライナスの毛布のような映画です。