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青い月のメンフィス感想


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7/19(金)、早稲田大学大隈記念講堂にて。

英語能「青い月のメンフィス」はUCLA早稲田大学の共同連携事業として発足した柳井イニシアティブによる、全編が英語で演じられる70分の能である。

物語は八月十六日の夜、エルヴィスの命日に彼が眠るメンフィスのグレイスランドの優美の聖堂を目指して車を走らせる40歳のファンガール・ジュディによる語りで始まる。一万人のファンが詰めかけているため、管理人からは瞑想の庭には入れないと言われたジュディの前にブルースの男が現れ、エルヴィスの様々な在りし日の姿について語る。男が消えたあとにジュディがブルームーンを歌っているとエルヴィスの幽霊が現れる…。

このあらすじを聞いただけで幽霊あるいは概念としての偶像が好きなので、あまり深く考えず鑑賞申し込みをした。なんといっても無料なのがすごい。文化資本! 

 

ブルースの男として登場する前シテ(精霊のような存在)が、どのエルヴィスが好きだったかジュディに尋ね、ジュディがエルヴィスは一人だけだと言うと「いや、たくさんいた」と答える。ミシシッピの貧しい白人の少年だったエルヴィス、軍隊に所属していたエルヴィス、ハリウッド映画に役者として出演したエルヴィス…。それに対してジュディが「私の知っているエルヴィスは孤独のエルヴィス」と答える。

男がその孤独のエルヴィスはここ(墓)には眠っていないと答えるとアイである管理人オスカーのコミカルなパートをはさみ、いよいよエルヴィスの霊がジュディの前に現れる。

エルヴィスは「死の中で人生の寂しさがなつかしい」と歌う。一人メンフィスまで歌いながら車を走らせてきたジュディと死せる大スターのエルヴィスはここで共鳴する。

 

 

「青い月のメンフィス」の前に日本語による舞囃子高砂」、英語による狂言「梟」で観客の期待が高まる構造になっていたのもよかった。日本人の狂言方もいるが外国籍の演者がほとんどである。シアター能楽メンバーの紹介を読んでいたら、今はフランス語能やスペイン語能もあるらしい。すごいね。

印象的だった観客の反応として、笑いの質の変化がグラデーションのように感じられた。ちなみに観客の割合は7~8割日本人と思われるが、外国籍の観客も多かった。

英語のセリフで「梟」が始まったとき、どっと笑いが起きた。やはりそれは英語で能が演じられている「シュールさ」「驚き」によるものだったのかもしれない。というのも、弟が病気で困っているのだと訴えるセリフがの内容が特に面白いわけではないから。

そこから少しずつコミカルな演劇としての「梟」への称賛、楽しみとして、ほんとうになだらかなグラデーションで笑いの質が変わっていったように思う。最初の笑い声も、当然嫌な感じの笑いではもちろんないのだけど、この変化は印象的だった。

「青い月のメンフィス」は70分があっという間に感じられる濃密さで引き込まれた。特にジュディ役のローラ・サムソンの声が素晴らしくてずっと聞いていたい魅力があった。あまりにも良すぎて終演後もぼーっとしてしまった。熱中症になりかけながら早稲田まで行ったかいがある。

また、2,200円で販売されていた『エルヴィスの幽玄 能が英語になったとき』もデザインから装丁から、対談、インタビュー、能面や衣装制作の話もすべて素晴らしくて感動。

こちらはHPから通販できるようです。

https://www.waseda.jp/culture/news/2024/05/04/23727/

東京と京都の能楽堂で1度きりの上演なのがまたにくい。素晴らしい時間でした。

 

 

7/24 19:30追記

やっと『エルヴィスの幽玄』を読み終わったので備忘録の一言。

こちらの冊子の最後に寄稿されている児玉竜一氏によるエッセイ「英語能をめぐって」では、日本において西洋で発展したオペラやバレエ、ジャズやロックを演奏し、鑑賞し、楽しんでいる一方で日本の歌舞伎や能を外国人が同じように演ずることはできないという偏見について論じる前段階として、以下のようにまとめている。

 

…従って、義務教育によって身につける音楽的素養、知らず知らずの内に耳にする音楽的感覚において、現代日本人は、日本音楽ではなく西洋音楽を体得する。とすれば、「日本では西洋音楽はわかるが、西洋には日本音楽がわかるはずがない」という「偏見」には、重要な要素を付け加えなくてはならない。すなわち、「日本では西洋音楽はわかるが、日本人にすらわからないのであるから、西洋に日本音楽がわかるはずがない」とあるべきなのだ。そして悲しいことに、これは決して偏見とは言い切れない。

 

自分自身も近年、三味線や箏など日本音楽について学習する機会があり、こんなにも自分が知らないことを知ってわくわくしている。が、児玉氏が語る例に及ばず西洋音楽をかじってきた一人として、日本音楽がこれほどまでに浸透せず、体得できていない原因とは何なのかを知りたいと思ったのが昨年のことであった。

経済的に比較的裕福な家庭の多くの子どもが、西洋音楽をピアノを通して学ぶことをジェンダーの観点から追った一冊、玉川裕子『「ピアノを弾く少女」の誕生 ジェンダーと近代日本の音楽文化史』が思い出される。

青土社 ||歴史/ドキュメント:「ピアノを弾く少女」の誕生

 

特に面白かったのが前半の近代日本で形成された「ピアノを弾く女性」というイメージがどのようにできたのかを夏目漱石などの知識人たちの作品での描かれ方や、明治末期に興り始めた「都市中間層」が西洋型の家庭生活を営み始めたことに結び付けて迫っていく歴史的背景である。百貨店の売り出し戦略もあったらしいね。ジェンダー的な読み解きとしても初めて知ることが多く、その末端に曲がりなりにも自分がいることを考えるとかなり面白い。

風の音や鳥の声といった自然の音に寂寥感や愛情表現を託した歌詞、序破急の流れ、謡の声の使い方を説明するときの徒労感や伝わり切れなさは、他人に説明してわかることではなく、また、私自身が無知で何も理解しておらず、説明も表面的で下手であることをのぞいても、児玉氏が述べる「日本人にすらわからない」現状をしみじみと感じずにはいられない。

もちろん、特に深く憂えているわけではないのだけども。そもそも自分の国の文化を理解して説明できないといけないわけではないし、エスニック・アイデンティティとは何ぞやという話にもなる。巷でよく聞くような異文化交流で自分の国の伝統文化を伝えようといった試み自体が短絡的すぎるのかもしれない。そんなことをつらつらと考えたりしたのでした。



 

 

 

 

 




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