江見水蔭には妙な私有物がある。
土俵である。
彼は庭の一角に、手製の土俵を

仲間内では「江見部屋」の呼び名さえあった、そういう自家製土俵をむろん、江見水蔭はただ腐らせはしなかった。濫用といっていいほどに、常習的に使用した。相手は主に村上浪六、大町桂月、長谷川天渓、田村松魚、神谷鶴伴、他にも他にも――総じて謂わば明治文壇のお歴々。錚々たる面々と、力較べをやってやってやりまくったものだった。
知られざる名取組があったのである。
同業者が相手なら、江見水蔭の勝率は決して低い方でない、白星を重ねる側だった。
が、一度本職を向こうにまわせばどうだろう。鼻息だけで吹っ飛ばされる、セミプロの間に混じってさえ井蛙の己を発見せずにはいられない、そういう力量でもあった。
相撲取
ならぶや文士
枯尾花
自作の歌にも、そのあたりの悲哀が漂っている。

しかしまあ、いくら負けても相撲自体を厭うような心理とは、江見水蔭は無縁であった。
勝とうが負けようが土俵に上がる。土俵の上で筋骨を思いきり酷使する。己の嗜好に揺らぎなし。日本男児的である。だから大正三年度には、
「自慢ぢゃア有りませんが年中生傷が絶へないのです。明治三十四年から今日まで殆んど十二年間、血を流さない日は無いのです。イヤおどかしぢゃア有りません本当です。それは毎夕相撲を取るからです。勝てば怪我もしないのですが、相手が何しろ強いのです」
こんな調子の告白文を草することもやっている。
続けて曰く、
「何しろ学生相撲角力の選手連中で、関西方には名前を記憶されて居る筈の、三宅、井上、片岡、岸、三宅、井上、片岡、岸、森島なんどの諸勇士が毎日の様に遣って来るので、御大の末路の悲惨さ加減、
でも有難いことには怪我をしても、塩混りの砂を塗附けて置けば、いつの間にやら癒って呉れます」
云々と。
「部屋」の称とて、どうやら伊達ではないらしい。
ちょっとした梁山泊の景色であった。

(帝国海軍、甲板上の相撲)
「朝から晩まで机に向ってばかり居ると、めしの味が不味いので、それで相撲を取るんです。
それでは手が
相撲は国技と力いっぱい主張して、「国技館」の名付け親になっただけのことはある。
この競技への淫するほどの愛着を、どうでも感じざるを得ぬ、そういう文章だったろう。
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