鎌倉に死にに行ったときは、私の人生で最も充実していた時間が専門学校の学生時代だったら、私の人生で最も心穏やかに過ごしていた時間だったと思う。
なにせ精神状態が良くなかったので覚えていないが、最初の2日くらいはバイクで旅行する人たちが泊まる2食付きの民宿に泊まった。
その前に、藤沢にある素泊まりの商人宿のような、よく判らない旅館に泊まったのだが、部屋は汚く天井からロープが垂れていたりして気持ちが悪かった。
それに比べれば2泊目以降の宿は快適であったが、私には金がなかった。2泊泊まっただけで、まだ当時は廃墟同然だったホテルニューカマクラ(という名前ですらなかった気がする)に移った。
もともと物置か何かで1泊素泊まり1,000円程度だったと思う、布団1枚、敷くのがやっとで、書き物もできなかった。
私は毎日、朝から散歩に出、昼は図書館で読み書きに勤しみ、昼は紀伊国屋のパンを齧って過ごした。1日の食費は500円ほどだったと思う。
そうしたら、何の先生だか地元で先生と呼ばれるようになり、歓待され、それですっかり心が癒えてしまった。
1か月ほどが経ち、私は所持金を使い果たし(なんといってもブラック企業の新入社員の数か月の貯金だ)困って私は会社に電話をした。
会社では直ぐに戻って来いと言われ、戻ると、そこには叔父がいた。会社の上司は叔父さん、責任を感じちゃって… などと取り成していたが、叔父はカンカンに怒っていた。
そして、叔父に家を追い出され、私はホームレスとなった。叔父が学生時代の成績表を見て、お前、こんなに成績が良かったのかと言ったのは、このときのことである。
ホームレスになっちったと思ったところを、当時、名医として名が通っていた恩田禎先生が取り成してくれて、親に部屋を借りる頭金と家賃を出してくれるようにしてくれた。
私は鎌倉に住むつもりだったが、親と会社が会社の近所にしか借りさせてくれなかった。私は泉岳寺駅前の、ワンルーム6畳8万円、それもゴミ捨て場の前だから特別に安いという部屋を借りた。
同じフロアには怪しい事務所がたくさん入っていて、夜中にヤクザがドアをガンガン叩いて眠るどころではなく、毎日のように110番していた。
しかし、それでも親の嫌がらせは止まず、そんなことは一切していないのに、会社をサボって旅行に行っただろうとかバスの運転手と喧嘩をしただろうとか言って私の家を荒らして行った。
具体的には机の引き出しから箪笥の引き出しまで、引き出しという引き出しを全て開けて、中身を引き出しごと床にぶちまけていくのだ。
そのようなわけで相変わらず会社に行っても仕事にならず、何とか退職金が出る1年間だけ勤めて退職した。金のことなど考えられず、野垂れ死にでもすればいいやと思っていた。
そうしたら、また恩田先生が、このままでは死んでしまうといって(まぁ本人もそのつもりだったが)、また両親に命じて初診日からの診療録を取り寄せ、障害基礎年金を受けられるようにしてくれた。
親は一連の恩田先生の行動を見て、親を悪者にする世界一の藪医者などと言っていたが、それを取り寄せ、私は障害基礎年金を受けられるようになった。私の父は都の外郭団体に社会保険労務士として勤めていたが、障害基礎年金を知らなかった。
しかし、私は精神保健福祉には、とんと疎く、障害者手帳を発給してもらうことができることも、区の保健師さんに担当してもらえることも知らなかった。区も、年金発給の手続きを取りながら、そういうことは教えてくれなかった。
私は働かなければいけないという思いを捨てることができず、母校に相談に行っていた。そうしたら、丸の内の商社で、うちのOBが1人、辞めて求人が来ているから、そこに推薦するよといって、私は丸の内の商社に就職した。
しかし、ここでも、経験者採用ということで何も教えてもらえず、その都度、先輩に仕事を訊いたりして、かなり仕事はできなかった。ブラック企業では新入社員など事務処理ロボットであり、仕事のシも教えてはもらわなかった。
やがて私は仕事中に乖離を起こすようになった。まるで、もうひとりの自分がいて、それが勝手に何かやっているような感じがした。自分では何をやっているのか判らず、仕事にならなかった。
これは、仕事に対する理解がないのだろうと思って業種転換を図ることにした。もう、混乱していて、自分でも何をしているのかどころか何を言っているのかすら判らなかった。
私は会社を辞めて出版社で翻訳編集のアルバイトを始めた。区から親の差し金で保健師が来るようになったのは、このころのことだと思う。保健師は親からの情報しか仕入れていないし私の話を聞かないから、それこそ今度は私が悪者にされて、毎日、保健師に責められた。
そのくせ、私から保健師に相談の電話を入れると母から電話が来て、保健師に電話をするなと怒鳴られた。しかし、私が保健師に電話をしていたのか知っているかということは、それ以上に頻繁に親が保健師に電話をしていたということである。
もう、針の筵だった。私は今度は薬を大量に服み自殺を図った。親が処方させている向精神薬を服むのを禁じていたので、また、当時は人が死ねる程度の薬は普通に出ていたので、私は、それを全部、服んだ。
気が付いたら1ヶ月が経っていた。あれだけ人を責めるのには積極的な親は、私から連絡がなくても何とも思わなかったようだ。誰にも気づかれずに目を覚ました私は、横になって靴擦れのようなものができていると思い、私は30分かけて歩いて地元の効率総合病院に行った。
そこで形成外科に回されたのだが、それが間違えで、後に形成外科に回され、頭、腰、両足の褥瘡のために全身麻酔の手術となった。医師は全身麻酔で手術をするので、手術前の説明もあるから両親に手術の立ち合いに来てもらうようにと言われた。
しかし、両親は、手術開始の前どころか、途中、寄り道をして遊び、遅刻してやってきた。時間通りに来ないと、私が医師に怒られた。主治医は両親に激怒したが、両親は、私がこんなことをするから医師に怒られるのだと私を怒った。五体満足に生んでやったのにカタワになりやがってとも言った。
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