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チームの自己組織化が起こるように、ソース原理を活用する

今年のスクラムフェス新潟にこういうプロポーザルを出した。

confengine.com

が、残念ながら採択されず。

とはいえ我ながら面白いテーマだと思うので、いっちょブログにまとめてみようと思う。

ソース原理

ソース原理(Source Principle)とは、ピーター・カーニックという人が見出した、「人がビジョンを実現しようとするプロセス」を説明する原理・原則のことだ。

ソース原理では、すべての取り組み(用語として「イニシアチブ」と言う)には、「そのアイデアを実現するために、リスクを負って最初の一歩を踏み出した個人」がいる、とされている。

その個人のことを「ソース」と呼ぶのだが、それぞれのイニシアチブにおいて、ソースは必ず「一人」とされる。
「必ずしもそうではないのでは?」というケースとして、たとえば「共同創業」を思いつくが、そういったケースでも「リスクを負って最初に踏み出した人」は必ず(どちらか)一人で、その人がソースとなる、というのがソース原理の考え方だ。観察していると、必ずソースが特定の一人であることがわかる、とされている。

ソースが最初の一歩を踏み出したとき、「クリエイティブ・フィールド」(略してフィールドと呼ぶこともある)が生まれる。これは、ソース自身を含む関係者が活動できる「場」であり、協力者を惹きつける磁場のようなものでもある。
クリエイティブ・フィールドには、価値観とビジョンが備わっている。その価値観とビジョンを示すことは、ソースの重要な役割の一つである。

協力者は、フィールドの「中」で活動することになる。ソースの価値観に共感し、フィールドに入ってビジョンの実現の一端を担うとき、その人はサブソースになる、と表現される。

ただし、一緒に活動すれば誰でもサブソースというわけではなく、価値観に共感し、またソース(サブソースと区別する目的で、この文脈では「グローバルソース」という呼び方もされる)がその人を信頼してイニシアチブの一部を託すとき、初めてその人はそのイニシアチブのサブソースとなる。

サブソースは、グローバルソースに協力し、イニシアチブの一部を担う形で、ビジョンの実現に取り組む。

最後に重要なこととして、フィールドには、「クリエイティブ・ヒエラルキー」が存在する。グローバルソースには、サブソースに対する権威があるのだ。

少しわかりづらいところとして、この権威というのは、何かしらの外部的なもの(たとえば「組織の上司・部下の関係」など)とはまったく何の関係もない、ということに注意が必要だ。
あくまで、「アイデアを実現するために、リスクを負って最初の一歩を踏み出したこと」が、ソースをソースたらしめる要因だ。そして、そのソースには、そのイニシアチブのフィールドにおける権威がある。イニシアチブの価値観やビジョンを、ソース以外が変更することはできない。

ソース原理の概略はこんなところだ。
説明が不足していたり、そもそも説明していない(が、重要な)要素もいくらかあるが、議論を始めるのに十分な程度は記述できていると思う。

見ての通りとてもシンプルな原理・原則だが、人(の集まり)がビジョンを実現していく過程をとても正確に捉えているものの見方だな、と個人的には感じている。
現時点ではほぼピーター・カーニックさんの独自研究(と、彼の意思を継承したいくらかの人たちの実践や研究)にとどまっているものの、僕がこれまで色々と不思議に感じていたことがこの考え方でかなり説明できたり、発展の糸口を見出せている感覚があり、有用性が高いと思う。

そして、アジャイルソフトウェア開発もまさしく、「人(の集まり)がビジョンを実現していく過程」だ。
だとすれば、ソース原理を用いて考えてみることで、有用な何かが見出せるはずだ、と考え、この記事を書き始めた。

自己組織化

自己組織化は、アジャイルソフトウェア開発における重要なキーワードの一つだと思う。

アジャイルソフトウェア開発宣言にも示されているように、「プロセスよりも個人と対話を」、「計画に従うことよりも変化への対応を」価値とするアジャイルソフトウェア開発では、「最良のアーキテクチャ・要求・設計は、自己組織的なチーム(self-organizing teams)から生み出される」とされている。

しかし、「自己組織的なチーム」そしてそれを形づくる「自己組織化」とはいったい何なのだろうか?

これはとても深く探求できる問いだと思うが、今回はあえて簡潔な答えを提出するところから始めてみよう。

僕は、チームの自己組織化とは、

人それぞれが「いいと思うこと」をすることで、人それぞれではできないことをチームとして成し遂げること

だと思っている。

これではまだ掴みどころがないと思うので、逆に自己組織化「ではない」ことをいくつか挙げてみよう。

  • リーダーが「決まっている」のは、自己組織化ではない。人それぞれが「いいと思うこと」をするとき、個々の瞬間にそれぞれの人がリーダーになるはずだからだ。
  • 「決められたプロセスに従っている」のは、自己組織化ではない。人それぞれが「いいと思うこと」ではなく、「決められていること」を優先しているからだ。
  • 「みんながきっかり平等」なのは、自己組織化ではない。人はそれぞれが異なるため、本来平等ではあり得ず、過度な平等は何かしら作為的にもたらされていると考えられるからだ。
  • 「みんなが好き勝手に動いている」のは、広い意味で自己組織化である可能性もあるが、ここでは自己組織化としない。「人それぞれではできないことをチームとして成し遂げる」に至らないと思われるからだ。*1

他にも挙げられるが、いったんこれくらいにしておこう。だんだん輪郭が見えてきたと思う。
こういったものを除いたところにある、"人それぞれが「いいと思うこと」をすることで、人それぞれではできないことをチームとして成し遂げている"状態が、僕が考える「チームの自己組織化」だ。

もう少しだけ補足しておこう。

まず、前半の"人それぞれが「いいと思うこと」をする"というフレーズには、外部からのコントロールなく、また全体の詳細を把握することなくそれぞれの人が行動している、というニュアンスを含めている。
一部の人が「いいこと」を決めて、みんながそれを遂行するのではない。また、みんなが「すべて」を把握して行動するのでもない。それぞれが、それぞれなりに見えている範囲で「いいと思うこと」をしているだけ。それが、僕が考える自己組織化の第一条件だ。

後半の"人それぞれではできないことをチームとして成し遂げている"というフレーズは、「創発」を念頭に置いている。部分(個々の人)に還元できない性質が、全体(チーム)に現れる、ということだ。
だから、「明確な分業状態」は自己組織化とは言えない、ということにおそらくなるだろう。明確な分業状態では、個々の人が個々に持っているスキルを「足し合わせていった結果」が最終成果になるからだ。そうではなく(それだけではなく)、人と人との相互作用によって、予め定められた分業では(ほとんど)生まれ得なかった成果が生まれていること。それが、僕が考える自己組織化の第二条件だ。

自己組織化そのものの説明はこのあたりにして、そういった自己組織化は、どういった条件下で起こる(起こりうる)のかという問いに移ろう。

チームの自己組織化が起こるために

ここで、言葉を丁寧に扱いたい。
自己組織化は「起こす」のではなく「起こる」と書いたのには意図がある。

自己組織化を「起こす」ことはできない、と考えた方がよいと思っている。
そうではなく、自己組織化は「起こる」もので、私たちにできることは、自己組織化が「起こるのを邪魔しない」こと、そして「起こりやすい環境を作る」ことだ。

人はそれぞれが異なる。だから、人それぞれが「いいと思うこと」も異なる。もし、「誰が、何をいいと思うか」を厳密にコントロールしようとしたら、それはすでに自己組織化ではなくなっている。

チームにおいて、どのような「人それぞれではできないこと」が立ち上がってくるか(創発)もまた、厳密にコントロールすることはできない。
一人一人が複雑系である人間の総合作用によって生まれるものは、予期できない。できるとすれば、ある程度の方向づけだけだろう。

このようにして、自己組織化は「起こる」。
では、どうすればそれを邪魔せず、またそれが起こりやすい環境を作れるだろうか。

まず、邪魔をしないこと。

これはそのまま、前項で並べ立てた「自己組織化ではない状態」につながる取り決めや行動を控える、ということになる。
「チームのリーダー」を一人に決めない。プロセスを厳格に決めない。平等を過度に求めない。たとえばそういったことだ。

ほとんど何もしなくても、広義の自己組織化は自然と起こる。
雪の結晶、鳥の群れ、台風、神経細胞は、何者かの意図や作為によって作られているわけではない。

ただ、僕による定義の後半、「人それぞれではできないことをチームとして成し遂げている」状態をチームの自己組織化の理想とするならば、自然に任せているだけでは芸がない、とも言える。
ただただ自然状態において、何かしら(広義の)自己組織化が起こったとしても、それが「チームが(わざわざ)集まった理由」に叶うとは限らないからだ。

というわけで、チームの自己組織化が起こりやすい環境を作るにはどうすればよいか。
こちらも色々と考えられるが、この記事では特にソース原理を活用して考えてみたい。

ソース原理と自己組織化

はじめに、ソース原理とは、あらゆるイニシアチブ(取り組み)にはリスクを負って最初の一歩を踏み出した個人(=ソース)がいる、という考え方である、と説明した。

このイニシアチブというのがどういうものかを説明していなかったが、大小様々なものが該当する。
「事業」もイニシアチブだし、「プロジェクト」もイニシアチブだ。そういった大きな取り組みだけではない。「1時間のワークショップ」もイニシアチブだし、「一度立ち止まって、10分ほどリファクタリングに使おう」と声を上げることもそのリファクタリングというイニシアチブの第一歩だと言えるだろう。

これがチームの自己組織化とどう関わるか、だんだん見当がついてきただろうか?

またもう一つ説明していなかったこととして、ソースとなる人は、自身の(人としての)価値観を明らかにしていることが重要だ。
自身の価値観が明確だからこそ、どのようなイニシアチブに(リスクを負って)一歩踏み出すとよいかわかるからだ。価値観、言い換えるなら「実現していきたい世界のイメージ」のようなものがなければ、何もする必要はなく、何も起こらない。

材料は揃った。僕が考えるチームの自己組織化は、ソース原理の言葉を使って以下のように説明できる。

チームの中で、人それぞれが「いいと思うこと」をする。
それぞれの人は、自身の価値観を明らかにして生きている。チームにも、そういう状態で参加してきている。

集まったチーム全体として、どの方向に向かうかは、誰かが示すだろう。その人が、そのときの(イニシアチブの)ソースだ。
そして他の人たちは、(そのイニシアチブのビジョンに共感できる限りにおいて)そのクリエイティブ・フィールドに入り、サブソースを担うことになる。

サブソースとして、それぞれの人は自分なりの貢献を示す。
チームのメンバー同士は日々の関わりから、相互の信頼関係で結ばれていて、ソースとサブソースの関係はすみやかに結ばれる。

サブソースもまた、自分の価値観とつながっていて、そのときのソース(グローバルソース)の価値観・ビジョンに叶う範囲において、自分なりに「いいと思うこと」をする。
こうしてソースとサブソースの関係性が立ち上がり、それぞれの意思と意図とスキルを活用し、連携してビジョンの実現を推し進める。

前にも触れたように、イニシアチブの大きさはさまざまだ。毎月、毎週、毎日、毎時、大小さまざまなイニシアチブが立ち上がる。
メンバーそれぞれが、そのときどきでソースとなり、サブソースとなる。フラクタル的な入れ子構造の中で、役割を柔軟に入れ替えながら、チームの目的の実現へと向かっていく。

チームの目的そのものは、ころころ変わってはまずい。
そこには、おそらく(ある程度長い間変わらない)一人のソースがいることだろう。チームのメンバーの一人かもしれないし、チームを集めた人かもしれない。あるいは、チームに対しては(一見)協力者的な立ち位置にいる人かもしれない。「チームが集められた理由であるところのイニシアチブ」のソースが、いわゆる「チームの(大きな)目的」を知っているだろう。

とはいえ、目的は一つとは限らない。
一般的なアジャイル開発チームで考えてみても、目的はざっと3つは考えられる。たとえば、顧客価値を生み出すこと、アーキテクチャを進化させること、学習・成長すること、などだ。それぞれのソースが異なることもある(というより、その可能性が高い)だろう。

このように、チームの自己組織化は、ソース原理の言葉では「誰もがソース(となりうる人)としてその場に参加していて、ソースとサブソースの関係性を柔軟に交代しながらイニシアチブを連続的に立ち上げ、実現し続けていっている状態」と説明できる。

つまり、ソース原理が機能しやすい状態にすることが、ほとんどそのままチームの自己組織化が実現しやすい状態につながるということだ。

チームの自己組織化が起こるように、ソース原理を活用する

この記事のまとめに代えて、「チームの自己組織化が起こるように、ソース原理を活用する」というテーマについて綴って終わりとしたい。

ソース原理では、取り組みを実現していく具体的な活動としての「アウターワーク」だけでなく、個人の内面に向き合う「インナーワーク」の重要性を強調している。

価値観が明確だからこそ、「いいと思うこと」に踏み出せる、と書いた。
個人の価値観というものは、案外隠されている。世の中の人の言うことに影響されて、自分の本当の価値観が見えにくくなっているということも多い。

大事な価値観を持っていたとしても、素直に本当に実現したい世界へと素直に向かう行動を取るのではなく、その思いが何かしら歪んだ形で現れてしまうことも多い。

ソース原理ではこういった「個人の内面」に取り組むことを大事にしていて、その取り組みはそのまま、チームの自己組織化を起こりやすくすることにもつながるだろう。
ソースの役割をうまく担えるようになり、人それぞれがよりストレートに「いいと思うこと」の実現へと向かうことにつながるからだ。

また、自身の内面が整っている人は、他の人の価値観やビジョンをよりうまく尊重できるようにもなると思う。
他の人の邪魔をしてしまうときというのは、自身の価値観が歪んだ形で現れていることが多い。それがなくなれば(減れば)、人の取り組みを手助けするサブソースの役割もよりうまく担えるようになる。

最後に、クリエイティブ・ヒエラルキーの重要性に触れておく。

おさらいだが、クリエイティブ・ヒエラルキーとは、「グローバルソースには、サブソースに対する権威がある」ということだ。
そしてこれも繰り返しになるが、クリエイティブ・ヒエラルキーは、組織構造とは一切何の関係もない。あくまで、「何らかのアイデアを実現するため(イニシアチブ)に、リスクを取って一歩を踏み出した人」がソース(グローバルソース)になる。

逆に言うと、本来ソースではない人が、クリエイティブ・ヒエラルキーに従わずに無関係な権威やエゴを持ち出し始めると、うまくいかなくなり始めるということだ。
誰かが勇気を持って、何かを始めようと一歩を踏み出したとき(また繰り返すが、それは大げさな何かではなく、「立ち止まって10分ほどリファクタリングしましょう」といった程度のことかもしれない)、その意図、カッコよく言えばビジョンに耳を傾けてみる。

もちろん、共感できないイニシアチブに協力する必要はない。違うなら、違うと言う。それでも、そのイニシアチブの権威はソースにある。
違うと言われて、そうだな、と思えば、ビジョンを修正すればよい。ソースは独裁者ではない。むしろ、周囲からのフィードバックを得ながら、ビジョンをよりよくしていく意欲を持った方がよい。そして、そもそもやるべきではなかったなと思えば、イニシアチブを取りやめてもいいだろう。

それでも、ソースには権威があること、そしてそれは組織構造とは何の関係もないこと。
この2つを意識することは、チームの自己組織化が起こるための重要な要素だと思う。

この記事では、自己組織化とソース原理との関わりについてまとめた。
ややとりとめなくなってしまった気もするが、重要な点についてはおさえられたと思う。

これからも、こういった意識でチームでの実践に取り組んでいきたいと思っている。
また、発見や進展があったら報告します。

*1:本来の意味での自己組織化は別に「よいこと」とは限らない。よい悪いに関わらず、何らかの秩序が立ち上がってくることで、現れてくる秩序が何らかの意味で「悪い」こともありうる。だが、ここでは「チームの自己組織化」をポジティブな文脈で捉えたいので、「人それぞれではできない(よい)こと」が現れてくることを条件とした。




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