以下の内容はhttps://elm200.hatenablog.com/entry/2025/08/21/212527より取得しました。


有用性を中心としない人間観

私は昨日のエントリーで「役に立つこと」という有用性にこだわりすぎていたことを反省した。代わりに「好きなこと」を中心に人生を再構築しようという決意を述べた。

古代ギリシャ都市国家には二種類の人々が住んでいた。市民と奴隷だ。市民は政治・学問・文芸などの「高尚な活動」に生きた。生活を維持するための労働は奴隷に委ねられた。

19世紀までに奴隷制は廃止された。市民と奴隷という身分制度はなくなり、市民が「高尚な活動」と労働の両面を担うようになった。労働は誰もがやらねばならないものとなり、労働は人間にとって重要なものという価値づけが行われた。逆に言うと労働しないものは劣った存在だという考え方にもつながった。

人間が労働をするとき、そのサービスを提供する相手にとってはいわば「道具」となる。しかし、本気で道具になりたいと思っている人間はこの世に存在するだろうか?人間は誰しも自分は道具を使う側の存在でありたいと思っているはずだ。しかし社会は人間の労働なしには存続できなかった。

この問題に対する解決策は最近まで存在しなかった。しかし、この数年の急速なAIの発展により、AIが人間の代わりに仕事をしてくれる可能性が急速に高まった。つまり古代ギリシャにおける「奴隷」役をAIが務めてくれるかもしれないのである。

いままでの社会の価値観が「労働は尊いもの」という考えだったので、人間が労働しない社会に抵抗感があるかもしれない。しかし、むしろそれは「道具としての人間」からの解放であり、人間性の回復と考えることはできないだろうか。

AIが人間の労働をすべて代替した後の世界で人はいかに生きるべきか。実はすでに現実的なモデルが存在する。それはリタイヤ後の高齢者たちだ。

いまの日本では65歳で基本的にリタイヤする。しかし現代の65歳はまだ若い。十分な老後資金を持っている人たちは活発に旅行や趣味などを楽しんでいる。彼らの姿を見れば、AIが人間の労働を完全に消し去った後の社会がどのようなものになるのかある程度想像がつくのではないだろうか。

AIが労働を担い、人間は「高尚な活動」をするようになる時代に備えて、我々も、有用性を優先する価値観を少しずつ改めていくべきなのかもしれない。もちろん、当面の間、人間が労働を続けるのは確かなので、有用性という基準を直ちにすべてやめてしまうわけにはいかない。しかし徐々に「役に立たなくても、好きなことをやる」という価値観も大切にしていくべきなのだろう(古代ギリシャの「高尚な活動」と現代の「好きなこと」は完全にイコールではないが、生活の必要にせまられてする活動ではないという意味でここでは同列に扱っておく)。

もちろん、我々が極めて危うい時期を生きていることは自覚している。AIが人間の労働を全面的に代替するのは確実だとしても、その生産物が人々の間に平等に分配される保証はどこにもないからだ。

最悪のケースでは、AIやロボットを所有するごく一部の人たちがだけがその生産物を独占し、労働を追放された人たちが貧困の中で生きるということになりかねない。米国でいままで高給を得ていたソフトウェアエンジニアたちが大量解雇されて、その代わりにAIへの投資が増えている姿を見ると、こうした流れはすでに始まっているようにも見える。

ユニバーサルベーシックインカム(UBI)を始め、AIの生産物を労働しない人たちが享受できる仕組みを作ることが今後50年間でもっとも重要な社会改革になるに違いない。

一生懸命、勉強したり仕事をしたりすることも大切だし尊いこと。しかし、そうした活動から「有用性」という基準が徐々に抜けていき、その人が心から好きだからやることが当たり前になって行く。そういう時代に変わっていく可能性をどこか念頭に置いたほうがいいのかもしれない。




以上の内容はhttps://elm200.hatenablog.com/entry/2025/08/21/212527より取得しました。
このページはhttp://font.textar.tv/のウェブフォントを使用してます

不具合報告/要望等はこちらへお願いします。
モバイルやる夫Viewer Ver0.14