私が仕事をやめて約5か月が経過した。早いものだ。その間、私が何をやったかと言えば、そんなに大したことではない。日々ネットを見て、その感想をXやブログに書き綴った。ときどきハイキンググループの人たちと山に登ったり、自転車で遠出したりした。コワーキングスペースで作業したこともある。文字通り私は自分の好きなように生きた。穏やかで楽しい日々だった。
仕事をやめた直後は、何か立派なことを代わりにやらなければならないのでは、としばらく焦っていた。難しい本を読んでその感想文を書こうとした。政治や経済をテーマに何かカッコいいブログエントリーを書こうと努力した。しかし、残念ながらそういう努力は実を結ばなかった。私は、そもそもその道の専門家たちほど知識がないし、特定の一分野に突っ込んた関心があるわけでもなかったからである。
やがて私は開き直って、自分にできることをだけをやることにした。それがいま書いているブログである。私が世界に対して感じていることをあるがままに記すことにした。私は四六時中、世界や人生について考え続けているのでこれはそれほど難しいことではない。
私は、仕事をやめて、何でも好きなことをやれる立場にいる。逆に言えば、何をやらなくてもよいということでもある。だから、ネットでのアウトプットにさほど価値(特に経済的価値)がなかったとしても、それはそれで構わないことになる。もっといえば、ネット上でアウトプットをする必要すらない。一日中、ベッドの上で寝ていても構わない(それはさすがに退屈なのでパソコン作業をしたり外を散歩したりするけれども)。
そこまで考えたとき、私は自分の好きなことをやるということが実はとても苦手なのではないかと気が付いた。子供のころから、「好きなこと」をやってこなかったのではないか。
子供のころ、私は勉強をよくやっていた。学校の成績は良かった。別に勉強が嫌いでも苦にしていたわけでもない。では勉強が好きだったのか。仮に勉強をしていい成績をとっても誰にも褒められないとしたら、私は本当に勉強をしただろうか。本当は何か親も先生も褒めてくれない何か他の活動をやりたかったのではないか。
社会人になったら、この「勉強」が「仕事」に、「良い成績」は「たくさんカネを稼ぐこと」に変わる。私は社会人になってからは、いかにカネを多く稼ぐか、そのために何をしなければならないか、ばかりを考えていた。
私の人生は常に「それは何かの役に立つのか」という有用性のまわりをぐるぐる回っていたのである。
でもそれは好きなものとは違う。
好きなものは、役に立たなくてもやれることだ。人に褒められなくても、カネにならなくてもやれるものだ。
「好きな仕事」の本当の定義は、「それをカネをもらわなくてもやれるか。なんならカネを払ってもやりたいか」ではないだろうか。
私は、子供のころから、自分が本当に好きなものがわからなかった。だから、好きな仕事ではなく、カネになる仕事を選んだ。その結果どうなったか。確かにカネは稼げたが、幸せにはなれなかったのである。長年働きつづけると、スキルも人脈もできて、どんどん仕事もカネも集まってくる。しかし、幸せではないのである。なぜなら、その仕事が心底好きではないからだ。
私はいま働いていない。カネを稼いでいない。それは子供なら勉強せずに成績が低迷している状態に対応する。私は、そういう状況にやや居心地の悪さを感じている。でも、これは私にとっては、子供の頃できなかった「好き」を見つける絶好の機会なのかもしれない。まずは何でも興味のあることはやってみたらいい。あるいは、何もしなくてもいい。
これが自分にとっては回復の過程なのだろうと思っている。