チェンマイは雨季だというのに最近、良く晴れて暑い。日本では晴れた日を良い天気というが、タイでは「曇りの日」が良い天気と呼ばれるらしい。日本にいるとピンとこないかもしれないが、実際、こちらの殺人的な日差しを浴びると、その意味がよくわかる。もっとも、最近は日本も気候変動でますます夏が暑くなっているから、タイ同様に曇りの日を良い天気と呼ぶ日も近いかもしれないが。
そういうわけでタイでは晴れて太陽が出ている昼間には外を歩く気がしなくなる。だからいまエアコンがキンキンに効いたカフェでこの文章を書いている。
私は、毎日ブログを書こうとしている(昨日は書きそびれたが)。正直、こうやって書くブログエントリーの文章の質が高いとは思っていない。内容は薄く、細かい部分では言い回しがおかしいところがあったり、正直、ボロボロだ。それが私の評価なのだが、実は、他の人はそういう欠点をさほど気にしていないかもしれない。むしろ別の部分を面白いと感じているかもしれない(あるいは、私が面白いはずだと思う部分に全く無関心かもしれないが)。
要するに、人は自分のアウトプットを正しく評価できないのである。しかし、往々にして人は自分が生み出すものが「質が低く、つまらないから」といってアウトプットをやめてしまう。実は、そのアウトプットは他の誰かにとっては大きな価値を持つかもしれないのに。
だから、何か作り出すときに一番重要な心構えは「基準を下げること」なのだ。「お前の作り出すものなんかつまらないし、誰も関心を持たないし、恥をかくだけだ」という自分の中の「自己検閲警察」を抑え込むことが重要なのだ。とにかく表現して外に出すことが重要なのだ。それは確かに何の価値も持たないのかもしれない。誰も関心を持たないのかもしれない。しかし、実は誰かが興味を持つかもしれない。高い価値を持つのかもしれない。それは、クリエイター本人にはあらかじめわからないのだ。
実際には、自分の作り出したものは批判にさらされることもあるだろう。いろんな基準で批判されるかもしれない。理にかなったものあれば、何らかの感情的なはけ口にされただけの誹謗中傷もあるかもしれない。一方で、その同じもの誰かには大きな価値を持ち、深く感謝されることもある。
だから批判をあまり真に受けない方がいいのだ。そこから自分が進みたい方向における何らかのヒントが得られるならば参考にすればよい。しかし、的外れだと自分が思うなら、すべて無視してもかまわない。実際、自分が納得いかない方向に自分の創作物を変えてしまうことは、他のファンを失望させるかもしれないからだ。
私も「この人みたいな文章が書けたらいいのにな」というのがある。だが実際にはそんな風に書けない。よく「他者と比較するな」と言われる。だが、実際には比較しないでいるのは無理だと思う。比較せずにいらないなら、大いに比較したらいい。そして諦めるのだ。「この人みたいにはやれない」と。
ここから先が重要だ。そこであきらめるのではなく、開き直ったらいい。「自分にはこれしかできない。それで文句あるか」と。確かにある人がそういう人間であるのは、その人の努力もあるだろうが、大部分は生まれつき遺伝や自分では選べなかった環境によるものが多い。おそらく神がそういう境遇を与えたのだ。人間がじたばたしてもどうしようもないこともある。ならば、それを受け入れるしかないではないか。神の意志として受け止めるしかないではないか。
私の書く文章はどうしようもなく、未熟で不完全だ。私はそれを受け入れるしかない。そして不完全であっても、精一杯、自分の思いを世界に向かって伝えていこうと思う。