今日は、とある用事を足すために自転車に乗って片道40分くらい走った。今日は雨季にしてはめずらしく朝からよく晴れて暑かった。それでもそこまで湿度は高くなかったので、日陰に入ると涼しかった。チェンマイの道路は、基本的に自転車が走る前提で作られていない。交通量の大半は、乗用車とバイクである。チェンマイの市街は平坦なので、自転車向きなのだが、実際にはほとんど走っていない。走っていたとしても、多くはロードバイクである。ところが私はママチャリに乗っている。ママチャリはほとんど走っていない。たまに走っていても、たいていは農家風の人が作業道具をたくさん積みこんでゆっくり移動しているだけである。日本のように、ママチャリが街にあふれているという光景は見られない。
……と話の枕はこの程度にして。
この動画がちょっと面白かったので、これを肴に少し話をしたい。ジャーナリストの湯川さんとAI技術者・研究者の遠藤さんの対話である(詳しくは動画の概要欄を見てほしい)。
この湯川さんという方を私は以前から知っていた。どういう形で知るようになったのかは私は忘れてしまったが。この人がおもむろに「AIが発展しすぎて、心が折れた」と言っているところがとても面白いと思った。普通、専門家というのはプライドがあるからこういうことを安易には言わないと思うのである。しかし、この方は昔から「何かを話す自分を見てそれを正直に評論する」というメタ的な実直さがあるように思う。私はそういう人には誠実さを感じて好きだ。湯川さんは、AIが発展したおかげで「英語で資料を集めて分析して発表する」という自分の強みが失われたと盛んに嘆いてみせるのだが、この動画を見ていて、私はそこまで心配する必要はないのではないかと思った。というのも、この方、話がすごく面白いのである。本人は、事実を収集して冷徹に分析するジャーナリストだと思っているのかもしれないが(それはもちろん嘘ではないが)、それより、難しいことを興味深くわかりやすく説明できるエンターテイナーとしての才能の方がより本質的なのではないかと思ってしまった。ご本人はひょっとしたらそういう本当の強みに無自覚なのかもしれない。
遠藤さんも「他者と競争をするのではなく、自分の情熱を実現するためにAIを使ったらいいのではないか」という話をしていた。私も結局、最終的にはそうするしかないと思う。というのは、人間はAIと能力で競争しても勝てないからである。いまAIは例えば翻訳家とかプログラマー等のスペシャリストのスキルを置き換えようとしている。しかし組織や人間を束ねるジェネラリストの仕事はAIでは代替できない。だから、「スペシャリストではなくジェネラリストを目指すべき」的なことを言う人たちもいる。しかし、遠藤さんも言う通り、そういうジェネラリストの仕事でさえ、最終的にはAIに置き換えられてしまうかもしれない。「役に立つ」という基準で仕事をする時代が終わりつつあるのかもしれない。
それより、自分が個人的にどうしても実現したいものを実現するときの助っ人としてAIを使うというのがおそらく一番本質的なAIの使い方なのだろうと思う。おそらく人それぞれの情熱の形はみな異なるので、他の人のものと完全に重なり合うことはない。そして、その人にとっては、その情熱が実現すること自体が一番の報酬であり、仮にカネが稼げなかったとしても、直接その人の幸福度を増やすだろう。
問題は、そうやって各人が自分固有の情熱の実現を追求した場合、それでカネが稼げるかどうかだ。実際には、稼げる場合もあれば、稼げない場合もあるに違いない。しかし、AIがスペシャリストだけではなく、ジェネラリストの仕事さえ置き換えてしまうような頃には、人間やる仕事が社会にほとんど残っていないこともありうる。つまり、ベーシックインカムのような形で、分配の問題さえ解決できれば、そもそもカネを稼ぐかどうかは大きな問題ではなくなっているのかもしれない。
だから、今後は「自分が本当にやりたいことを見つける」ということが今まで以上に重要になっていくのかもしれない。そしてそれをやること。それで稼げるなら仕事してもよいし、稼げないなら趣味という形でもよい。その情熱の実現にAIを適宜活用していく。やがてAIだけが労働してベーシックインカムがもらえる時代になり、「カネを稼ぐためだけの仕事」から解放されるかもしれない。たぶん、そうやって生きることが「AIだけが労働する時代」にスムーズに適応する一番よい方法なのかもしれない。