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世界観を伝える

私は、たぶん比較的真面目な方なんだろう。世間の基準でいえば、比較的堅いとされる話が好きだ。経済とか政治とか。もともとの性格もあるし、真面目な両親の影響も受けていると思う。だから今年、仕事をやめてから、そういうニュースを大量に追いかけていた。ネットの記事も読んだし、動画も見た。いまはおそらく世界秩序の変動期であり、どの国も大きく政治的に動揺し、経済政策も変化して、経済に大きな影響を与えている。いろいろ危なっかしい動きも多く、それらの潜在的な危険を考えると気持ちが暗くなる。

正直疲れてしまった。私個人への影響を考えると、これらすべてのニュースを見る必要はほとんどない。私は、自分の生活を維持する上で必要ないくつかの情報だけ手に入れば十分だ。世界はどの国も政治的に変動し続けているが、どの国にいても、比較的そういう変化の影響が及ばない領域で活動しているかぎりは、それほど難しく考える必要は、当面、ない。

そう考えたとき、たとえば私が世界や日本の各種のニュースを見なくてもそれは倫理的に許されるのだろうか?もちろん許されるはずだ。現に多くの人たちはそうやって暮らしている。

私もそうすべきなのか?よくわからない。たぶん自分の生活だけを考えたら、あまりニュースなど見ないほうがいいのだろう。一方で、私の中には、この世界がどういう場所なのか、その世界像を常に最新のものにアップデートしたいという根源的な欲求がある。その世界像が正しいものである保証はまるでないのだが、それでも自分なりの世界像をつくりたい。どうやらそういう欲望があるらしい。

ただ、その世界像が絶対的に正しいものだと主張するつもりもない。本当ならば、それを様々なデータに基づいて、立証するような文章を書けば、社会にインパクトをもたらすことができるのかもしれない。しかし何のために?社会をよくするために?それとも社会における自分の地位を主張するために?自分でもよくわからない。

だから、とりあえず政治や経済といった「難しい話」をするときも、「……という風に私には見える」「……という風に自分に感じられる」という感じに、それがあくまでも自分の主観的な世界像、つまり世界観にすぎないと断り書きを入れておくべきなのかもしれない。たぶんそれが真面目にデータを集めて主張することを面倒くさく感じてしまう理由の一つなのかもしれない。データをつけて主張するのは、多くの場合「これは本当のことだから信じてね」という意思が含まれている。でも実際にはデータが本物だったとしても、その取捨選択や提示の方法如何では、たいていのことは主張できてしまうのだ。数学や物理学ならともかく、政治や経済の現象のような高度に社会的な出来事の場合は、なかなか「これが絶対に正しい」という主張はしづらい。事象が複雑すぎて、立場によって見方が大きく変わってくるからだ。そういう「水物」に対して、あれこれ苦労してデータを集めて主張しても、どうせ私と反対の立場の人たちは納得しないだろう。そう考えるとやる気が失せてくる。

私は、データが不要だとか、重要ではないと言っているわけではない。我々は、データを慎重に扱って整理し、正確に表現してくれる人たちに無限に助けられている。科学の本質はそこにあるからだ。私はデータが好きだし、いろいろ調べては学ぶことも多い。ただ、私にはそこまできちんとデータと向き合う根気がない。私はおそらくデータを見て、自分が何を感じたのか、という方により関心があるのだろうと思う。

だから、これからも世間のあれこれについて、随想のような形で意見を述べていこうと思う。それは「データに基づきこれは真実である」という科学的言明ではない。無名の凡人による世界観にすぎない。だからうのみにしないでほしい。それでも「こういう見方をしている人間がいる」ということ自体が何らかの参考になる場合もあるのかもしれない。……あるいはないのかもしれないが(笑)。




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